第三話 山本先生と虎昌と……
■天文12年(1543年)1月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田晴信
板垣信方が上原城を整備報告に参った。はて、信方の斜め後ろに異形な男が平伏しているがコヤツは何者じゃ?
「駿河守(信方の事)、上原城の方は如何じゃ」
「重畳にございます」
「ふむ、して後ろの者は何者じゃ」
「はい、この者は山本勘助晴幸と申しまして、この者のお陰もあり上原城を整備が滞りなく進行したのでございます」
俺が感心すると、信方の斜め後ろに平伏していた山本なる者が更に頭を下げた。
「ほう、城取り(築城術)に精通しているという事か……山本とやら、表を上げよ」
「ははっ」
返事と共に山本が頭を上げると隻眼の顔が現れた。
「ふむ、知行百貫で召抱えよう」
「そっ、そのような破格の待遇で……」
山本が唖然として返事をする、ふむ、確かに奮発しすぎたか……。
「百五十貫にして下さいませ」
「いきなり何じゃ、太郎」
何処からともなく現れた太郎が五十貫を上乗せせよと言ってきおった。何を考えている……。
「私はこの者に築城や戦法(戦略や戦術)を学びたいと存じます。五十貫は指南代と思って下さい」
「何ぃ」
六歳の童が何をほざくかと思えば、築城や戦法を学びたいだと……面白い、最近は儂の所から色々と書物をくすねて読んでいたからな。五十貫ぐらい安いものだ。
「いやー、丁度良かったです。この頃、築城や戦略や戦術、調略について学びたいと思っていたところなのです」
「ハッハハハッ、! 六歳の童がどのように育つか見物よ」
まあ良い。現状の当家は武断派が多いゆえ、築城や戦法に明るい者が増えるのは良い事だろう。
「山本とやら」
「はっ」
「次の働き場を与える間、ウチの馬鹿息子にその方の技を叩き込んでやれ」
「はっ、はい」
山本もそうだが、太郎も使い物になるか見極めようではないか。
■天文12年(1543年)1月 甲斐 躑躅ヶ崎館 山本晴幸
何だ、何なんだ! 俺は戦場で働くものとばかり思っていたのに、御館様に無事に目通りが出来たと思ったら、いつの間にか若君の養育係を仰せつかってしまった。
「先生ー」
「わっ、私の事ですか」
「はい!」
若君が元気な声で私を呼ぶ。声だけではない、目をこれでもかと言う程に輝かせている……この歳になって『先生』と呼ばれると何故か照れてしまう自分が居る。
「先生、築城の技をお教え下さい」
「築城と言われましても……」
困った……今まで俺の得てきた技は見聞きしてきたもので、すぐに言葉で教えられるような代物じゃない。
「築城については……今暫くお待ち下さい。近日中に模型を造りますので、それを用いてお教えする事としましょう」
「はいっ! では今日は戦法についてお教え下さい」
今度は戦法か、まいったな。戦法についても書物から学んできた訳ではないから、どう教えていけば良いのやら……そうだ!
「若君は囲碁や将棋は御存知かな?」
「いえ、やった事がありませぬ」
俺の問いに若君がしょぼんとした。そしてまるでお腹を空かせた子犬が飯を強請るような目で俺を見る。そんな目で俺を見ないでくれ、俺が何か悪い事をしたみたいじゃないか!
「囲碁や将棋を行なう事で戦法の基礎を学べます、先ずはそこから始めましょう」
「はいっ!」
やっとまた目を輝かせてくれた。ふーう、俺は所帯を持っていないから子供は居ないが、子供の養育というのは結構大変なんだな。
■天文13年(1544年)11月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田太郎
以前、人の予感、特に悪い予感は良く当たると思った事があったが見事に的中した。
天文十一年九月に起こった宮川の戦いで高遠頼継を破った親父様は、諏訪郡を押さえることに成功した訳だが、諏訪領奪回を狙う高遠頼継が福与城主藤沢頼親の加勢を得て再度親父様に抗戦する構えをみせたのである。
結論から言うと今回は当家が負けた。
天文十三年十月十六日、親父様が福与城(現 長野県上伊那郡箕輪町福与字南城)を攻略すべく自ら兵を率いて出陣すると福与城に迫る武田勢をみた藤沢頼親が打って出た為、十一月ニ日、城外の箕輪で戦いとなる。この時、高遠城(現 長野県伊那市高遠町東高遠)から高遠頼継の援軍が来た為、親父様はやむなく兵を退いたのである。
この戦いでは俺の傅役の飯富虎昌と指南役の山本晴幸も参陣した。
勘助の進言が有ったからかは定かではないが、早々に退陣したので当家の被害はそれ程ではない。うーん、高遠頼継かあ。多分、親父様は頼継に対して怒りで腹わたが煮えくり返っている事だろう。こういった時は近寄らない方が良さそうだ。
ここは『君子危うきに近寄らず』の故事に従うのが正解だろう。藤沢頼親に高遠頼継か……恐らく、いや間違いなく親父様はこの二人を討とうとするだろう。そして多分勝つとは思うけど余計な敵を増やさないで貰いたいものだ。
話を変えよう。最近、虎昌が気落ちしているようだ。
まあ原因は俺にある、俺が勘助の家に入り浸って囲碁や将棋、築城のイロハを教えて貰っている為、俺が虎昌を構ってやってないからだ。まあ勘助については転生前に見ていた大河ドラマでは諏訪御料人とその子で、俺の異母弟にあたる四郎勝頼の後見人みたいな描き方をしていたが、折角の機会なので俺のお師匠様になって貰おうと思っている訳だ。
うーん、いかんな。これが遠因となって勘助の事を邪険に扱ったり、挙句の果ては勘助の進言に対して感情論で反対されでもされたら、家中での勘助の立場が弱くなる。よし! 此処は俺が一肌脱ごう、って言うか俺が原因なんだから俺がやらなければ駄目だろう。
という事で今日は虎昌と遠出をしている。
「兵部(虎昌の事)、俺の馬術と弓術の腕前はどうじゃ」
「はい、最近はやっと様になってきたように見受けられますな。ですが、まだまだ戦場に出るには鍛錬が必要でしょう」
やっと俺に構って貰えたからか、虎昌が元気になったようだ。ふー、虎昌にも困ったものだ。
「騎馬だけじゃないぞ、兵部」
「……と言いますと?」
「槍術じゃ」
「ハハハッ、成程、槍術ですか。確かに馬上での槍捌きが出来なければ一人前とは呼べませぬな」
「これからも兵部からは学ばねばならぬ事が多いゆえ、下手に戦で命を落とすでないぞ」
「はい……」
うん、虎昌との関係修復もこのぐらいで良いだろう。ここからは苦言を申さねばな。
「時に兵部、そなたは囲碁や将棋は出来るか?」
「囲碁や将棋ですか……いえ、それがしは余りやりませぬ」
「それでは駄目だ、囲碁と将棋をもっとやれ」
「……何ゆえですか、一体」
分かってないな、コイツ。まあ良い、ちゃんと説明してやるか。
「俺も勘助に習って囲碁と将棋をするようになったのだが、これらは戦法の基本じゃ」
「……」
「そなたも何時までも父上や叔父上(信繁の事)の指示に従うだけの猪武者では成らぬ。評定は勿論の事、戦場で臨機応変に活躍する為にも戦法を学ばねばならぬ」
「……分かりました」
よし、最後の一押しだ。
「ならばじゃ、そなたも俺と同じく勘助に習うと良い」
「勘助にですか?」
「そうじゃ、今は同じ武田家の一員なのだ、何の問題があろうか」
「はあ」
「これからの武田家は拡大の時ぞ。古参だの新参だの言っている場合ではない」
「分かりました、拙者も勘助に囲碁と将棋の手ほどきを受けまする」
うん、良い感じだ。後は永禄八年(1565年)に謀反なんぞをしないように先導すれば、フラグはへし折れるだろう。
ついでに虎昌だけじゃなく馬場美濃守信春達や飯富源四郎昌景(後の山県三郎兵衛尉昌景)にも囲碁と将棋を広めていこう。
この時代は娯楽が少ないからね。家中融和と一石二鳥! 流石は俺だね。
■天文14年(1545年)1月 甲斐 躑躅ヶ崎館 飯富昌景
最近、武田家家中が熱い。何が熱いって、皆が囲碁や将棋に夢中なのだ。
俺も今年で齢十六となり近習小姓から使番に昇格したからには、今後は武田家家中で躍進したい。そして今、武田家では『猪武者は要らぬ。今後は戦場で指揮の出来る将が重宝されるだろう』という風評が蔓延している。実際、俺の兄・虎昌も昨年当家に仕官したばかりの山本勘助晴幸に師事して暇さえあれば囲碁や将棋ばかりしている。
おかしい! これまで尚武を標榜してきた武田家が、いつの間にか公家の遊びをしている。兄者に言っても『最早、御館様の指示に従うだけの猪武者は要らぬ。評定は勿論の事、戦場で臨機応変に活躍する為にも戦法を学ばねばならぬのじゃ』の一点張りだ。
本来であれば、戦場で活躍出来るように鍛錬を積まなければならないはずが、囲碁に将棋だと! 御館様も御館様で黙認している始末だ。一体、どうして武田家が公家遊びをするようになったんだ。
「おい、源四郎」
「なんじゃ、兄者」
俺が怒りの矛先を探している時に、当の公家被れと成り果てた兄者が現れた。
「どうじゃ一局?」
「ふんっ、公家遊びなんぞやってられるか!」
どうやら兄者は俺の怒りの矛先で突き殺されたいらしい。久しぶりの兄弟喧嘩だ、受けて立つ!
「馬鹿者、そなたは何も分かっていない!」
「……何がじゃ」
「良いか、もう当家は今まで通り評定で『何処其処の不届き者を蹴散らしてやりましょうぞ』と連呼して、軍略の全てを御館様に任せっきりではいかぬのじゃ」
「……」
懇々と兄者が俺に説教をしくさる、もう聞きたくない。兄弟喧嘩は次回に持ち越しだ、早くどこかに立ち去ってくれ。
そんな俺の懇願も兄者には通じなかった。全く、この世には神は居ないのか!?
「そなたも一軍の将を夢見るならば、評定で建設的な意見を述べ、いざ戦場では瞬時に相手より先を読む事が肝要ぞ」
「……その為に囲碁と将棋というのか?」
「そうじゃ! だが囲碁も将棋も基礎であり初歩じゃ」
「……どういう事じゃ」
意表を突かれた。囲碁も将棋も基礎であり初歩とはどういう事だ、ただの公家遊びではないのか?
「よう考えてみよ、ただ相手より先を読む事が出来ても、次の一手はどうする?」
「……」
「野戦での陣形にしても、城攻めでの攻防にしても戦法を熟知しておらねば兵を無駄に消費するだけじゃ。だから囲碁も将棋だけでなく軍略を学ばねばならぬのじゃ」
「……分かった、一局お相手願おう」
「おう、望む所じゃ」
ふむ、兄者の言にも一理有る。仕方が無い、これも一軍の将になるためだ。何も公家遊びに呆ける訳ではない! それにしても一体誰が囲碁や将棋を当家に広めたのだろう!?