第二十三話 桶狭間の戦い
■永禄3年(1560年)1月 信濃 上原城 武田義信
「お帰りなさいませ、若君。無事の御帰還、この虎昌一日千秋の思いでおりましたぞ」
「うん、留守を任せて済まなんだ」
半年の間、信濃を留守にしていたが漸く戻って参りました。そして開口一番、恨みがましい目で見られながら挨拶をする虎昌。だから悪かったって……ゴメンなさい。
っていうか髭面のオッサンが亭主の帰りを待っていた愛妻のような発言をするな、気色悪い!
「して、美濃でのお働きは如何でしたか?」
「ああ、まあ順調だな。後は真田弾正の透破衆が引き続き頑張ってくれているよ」
「それは重畳にございますな」
全く順調過ぎて拍子抜けする程だった。東美濃においては遠山氏族が蟻の巣を突いたような恐慌状態になり、ある村では一揆が起きたり、別の支家では先行して武田家に使者をだそうとしているとか、まあそんな感じだ。西美濃についても三人衆だけでなく国人領主や土豪までが当家になびきつつある。また勘助……、ゴホンッ、道鬼斎についても依頼した城以外にも結構な数の城を検分できたようだ。
後は信長に先んじて美濃を手中に納めるだけだが、果たして上手くいくだろうか……。そんな事を考えていると、春ちゃんと一歳半になる愛娘が部屋に入ってきた。
「ちー、ちー」
「おお、香姫か。めんこいなあ」
口足らずな娘が母親に背中を押されて俺の方に寄ってくる。この半年で可愛さは更に五割増しだ! 因みに名前は男児ならともかく女児ならば問題無いと判断して春ちゃんに決めさせた。折角、命懸けで産んだ子供の名前を勝手に付けられるより余程愛着が湧くというものだろう。まあ、俺の母ちゃんみたいに子離れできない親にはならないでね。……俺は子離れできるかなあ。
「殿、長らくのお勤めご苦労様でございます」
「うむ、毎日そなたの事を考えて、毎夜泣いておったわ、ハハハッ」
「まあ(ポッ)」
俺からの世辞に頬を赤らめる愛妻。人の親となっても愛い奴だ、今夜は早速……。
そんな事を夢想していると、虎昌が咳き込みながら俺の家族団らんの時間を中断させてきた。全く、空気の読めん男だ。
「ゴホンッ、して若君、いつ我等は美濃に攻め込むのでございますか?」
「ハァ? まだだよ。当分は信濃中南の発展が先決だからね」
「何と、それがしは美濃攻めの為に日々鍛錬の日々を送ってきたというに……」
「そんなの知らないよ。まあ、越後の長尾との戦に向けて頑張ってね」
すっかり意気消沈した哀れな虎昌。……燃え尽きたな、これは。
まあ灰になった虎昌はほっといて、俺は次の事を考えないといけない。俺は膝の上に可愛い香姫を座らせつつ、春ちゃんに問い掛けた。
「なあ、春。最近、義父上殿(義元の事)から文は来ているか?」
「え、ええ。準備が整ってきたゆえ、そろそろ西に向かおうと考えていると……」
「……左様か」
俺も記憶が定かでないっていうか、前世では学校でよく居眠りしてて歴史を軽視してたから、桶狭間の戦いが何時起こるのか知らんけど……。春ちゃんは辛い思いをするだろうな。でもまさか義父に『尾張に行ったら死んじゃうよ、テヘッ』なんて書状は出せないもんなあ。まあ、出したとしても、きっと相手にされないだろうけどさ。
■永禄3年(1560年)5月 尾張 沓掛城 今川義元
漸く悲願を達成できるだけの準備が整った。雪斎にも見て貰いたかった。いや、雪斎の事ゆえ我が横で督戦しておったであろうな。
まずは尾張だが、織田家にて統一されてから日が短いゆえ当家の相手にもならぬであろう。当主がうつけ者では兵も満足に集まるまい。まあ、いくら集めようとも当家の二万五千の兵の前では尾張一国など木っ端微塵となろうがな。
尾張を取れば、次は……。美濃に攻め入り、近江から京に上るのも良いだろう。いや、伊勢と志摩を押さえて三河湾の海運を一手に納めてから、伊賀、大和を経るのも良いかも知れぬ。フフフッ、考えるだけで楽しくなってきおったわ。
「誰ぞ」
「はっ」
呼ぶとすぐに岡部親綱が現れた。コヤツは我が兄・氏輝の代から当家に仕えている古株ゆえ、俺の考えも理解しておろう。
「織田家の動きはどうなっておる?」
「はっ、当家の支城である鳴海城(現 愛知県名古屋市緑区鳴海町(城跡公園))の周囲を取り巻くように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦なるものを築き、更に大高城(現 愛知県名古屋市緑区大高町城山)も丸根砦、鷲津砦に囲まれておりますれば、鳴海城とこの沓掛城(現 愛知県豊明市沓掛町東本郷(沓掛城址公園))との連絡が遮断されて両城ともに孤立しております」
ふん、敵も小賢しい真似をしおるわ。
「竹千代(家康の事、今は元信)に手勢を率いさせて大高城に兵糧を届けさせよ」
「はっ」
「それが成ったら、その余波に乗じて松平勢に加えて朝比奈備中守(泰朝の事)に丸根砦と鷲津砦を落とさせよ」
「承知いたしました」
フッ、尾張のうつけも一国を平定したとは言っても所詮はこの程度か……。城の周りを砦で遮断するなど弱者の戦じゃ。この今川治部大輔義元が強者の戦にて噛み砕いてくれるわ!
■永禄3年(1560年)5月 尾張 熱田神宮 織田信長
正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら三百余りの部隊が俺の出陣の報に意気上がり、単独で今川勢の前衛に攻撃を仕掛けた。しかしこれは勇み足となり逆に両名は討ち取られてしまった。何故俺の下知を待てぬ! 無用に兵の命を散らしおって。
ポツッ、ポツッ、……ザアーーーーーー
この熱田神宮に着いてより兵の集結を待って半刻ほどした今、天を見ると雨が降ってきた。そして次第に雨脚が強くなってきた。
良し、これで我等が接近しても今川勢が気付くのに時間を要するはずだ。フッ、天は我に味方した。
「勝三郎(池田恒興の事)」
「はっ」
「兵は如何ほど集まった」
「はっ、二千といった所です」
ふむ、斥候からの報せでは今川勢も戦闘により様々な方面に戦力を分散させており、大将である今川義元を守る本隊は五千を超えるが六千には満たぬようだ。
「与兵衛(河尻秀隆の事)」
「はっ」
「おみゃあは我が手勢の右陣を指揮せよ」
「ははっ」
「権六(柴田勝家の事)、おみゃあは左陣じゃ」
「はっ」
「残りは総て本隊とする」
「「はっ」」
ふと気付くと俺は今一度、神宮の社に向かい、必勝祈願を胸の内で祈っていた。ふんっ、神頼みなど詮無き事、俺は二度と神を頼らぬ。そもそも神など居れば親父が急死する事も、今川家が攻めてくる事も、戦国の世が始まる事も無かったわ!
「良し、出陣じゃあ。敵は今川治部大輔の首一つ!」
「「おおっ」」
■永禄3年(1560年)5月 信濃 上原城 武田義信
大変だ! ああ、大変だ。史実通りに義父が桶狭間で討ち死にしちゃったよ。ホントにやるなよ、信長。ちったあ空気を読め、空気を!
おまけに松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳といった有力武将を失ったもんだから、今川軍は浮き足立って駿河に向かって後退したらしい。
更に尾張と三河の国境でにある鳴海城に居た岡部元信は踏み留まって頑強に抵抗を続け、信長と交渉して義父の首級と引き換えに開城し、駿河に帰したようだ。
あと、大高城を守っていた家康は合戦直後にちゃっかり岡崎城に入城したらしい。
当家においても報せが来た時に偶然部屋に居た春ちゃんは気を失うし、虎昌を始めとする上原城に詰めていた家臣達は酷く動揺している。俺だって動揺したい、でもそんな暇はないのだ。俺にとって死活問題だから、早々に手を打たんとアカン。
「虎昌、急ぎ馬の用意をせよ」
「は? この一大事にどちらに行かれるので」
「甲斐府中の父上の所に決まってるだろ!」
「な、何をされに府中まで……」
ああもう、こうして話している時間も勿体無い。
「兎に角、急ぎ馬の手配! 急いで、早くして」
「は、ははっ」
俺が手を叩いて急かして漸く虎昌が重い腰を上げてくれた。全く、歳をとるにつれて腰に鉛でも入れ始めたんじゃなかろうか。昔はもっと颯爽としてたように覚えている。
俺もこうしてはいられない。早速、筆を取った。手ぶらで親父に会いに行くほど俺も酔狂じゃない。そうこうしていると、家臣に馬の指示を終えた虎昌が部屋に戻ってきた。
「若君……? 何をなされております。馬の手配がもう直ぐ……」
「誓詞だ」
「ハァ?」
とうとう惚けたかコイツ! 義父の死がどう影響するのか理解していないようだ。全く武辺者にも困ったものだ。
「義父が死んだのだぞ」
「はあ、はい」
「なれば今川家の屋台骨が砕けたと見て良い。そんな時に府中に居る我が父がのんびりしていると思うか?」
「……」
虎昌が黙り込む。これを絶句していると見るべきか……。いや、ただ話について来れずに思考停止しただけだろう。コイツとは長い付き合いだから俺には分かる。
「父上は間違いなく駿河に攻め込む」
「そ、そんな事は……」
「ある! あの親父だぞ、この戦国の世を生き抜く猛者が弱った敵を討たぬはずが無い」
「敵……。相手は盟約を結んだ家ですぞ! まさか……。それに御前様(春ちゃんの事)は若君の……」
漸く半信半疑ながらも考えが廻りだしたようだ。コイツにはまだまだ働いて貰わんといかんからな。惚けるんじゃありませんよ、虎昌くん。
「そこまで来れば話は見えてこよう。駿河侵攻には俺が邪魔になる可能性がある。だから邪魔をしないという誓約が必要なんだ」
「……」
理解したのか今度こそ絶句する虎昌。こうしてはいられない、急いで誓詞を書かなければ! 俺が誓詞をカキカキしていると真剣な顔で虎昌が問い質してきた。
「御館様による駿河侵攻をお認めになるのですね?」
「そうだ」
「盟約よりも己の命を取るのですね?」
「……そうだ」
「御前様に申せますか!?」
「申す! って言うか婚礼の際に既に申してある。『盟約を結んだとしても何時手切れとなるやもしれぬ。そうなれば俺は武田家を取るゆえ心しておいてくれ』とな」
「……」
俺が虎昌の目を見て宣言すると、虎昌が肝の据わった武士の顔になった。やっと事の重大さを理解すると共に決意ができたか……。
「取り敢えずお主も誓詞を書け、今すぐ!」
「はっ」
やっと虎昌が承知してくれた。早く書いてくれ!
―――― 一刻後、血判の為に切った親指を舐めながら俺は急いで甲斐府中に馬を走らせていた ――――




