第二十一話 出家と隠居と金儲け
■永禄2年(1559年)2月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田義信
今、親父が頭を剃っている。所謂、出家ってヤツだ。
この時代にはシェービングクリームなんて無いから、水で湿らせて剃る訳だけど……ヒリヒリして痛そうだな、あれ。
出家に際して、導師には長禅寺住職の岐秀元伯の爺ちゃんがなった。
ウチは岐秀爺ちゃんには色々と世話になっている。まず、若かりし頃から親父の養育に貢献したし、天文二十一年(1552年)には長禅寺で大井夫人の葬儀を行い、天文二十三年には三回忌の導師も務めて貰っている。だから天文二十四年に、長禅寺は城下町として整備されていた甲府に移す事を許された訳でござるよ。
勿論、俺個人も世話になった。童の頃によく寺に遊びに言っては教えを説いて貰ったり、時には悪戯に対して叱責を受けたり……。
まあ竹松と行った数々の悪戯の悪辣さが増したのは一重に岐秀爺ちゃんからの教えの賜物だろう。
「なあ、竹松。此度の出家って意味あるの?」
「何だい、太郎は知らなかったのか。今回、兄上が出家するのはなあ、武田家の繁栄を願っての事なんだってさ」
俺が出家の意味を小声で聞くと、竹松から更に意味不明な回答が小声で返ってきた。出家しても戦を止めない親父が何を今更、武田家の繁栄? 冗談も顔だけにしろっての。
「うーん、更に分かんないや。出家と武田家の繁栄とどう繋がるんだ?」
「ハア、よく考えろよ。出家するって事は家督を次代……四郎に譲るって事だ。つまりこれからも武田家は続きますよって事を内外に宣伝する意味を込めているんだよ」
へー、成程ね。そんな思惑が絡んでの出家だったんだ。じゃあ、もっと疑問があるから聞いちゃえ。
「じゃあさ、何で隠居じゃなくって出家なんだ? 隠居でも家督継承はできるだろうに」
「馬鹿だなあ、隠居じゃ戦にでれないじゃないか」
「坊主になっても戦に出るのか? それじゃあ、殺生坊主じゃないか」
「……そんな、身も蓋も無い……。まあ、それが兄上の兄上足る所以って事だよ」
「ふーん」
よく分からんが何故か説得力あるな、親父なら……。それにこれからも謙信に対抗して貰わんとあかんのも事実だもんな。
「親父が『徳栄軒信玄』って法名を号するのは何となく分かったけど、何で勘助まで出家して『道鬼斎』なんて名になるんだ?」
「それは……知らん!」
「では真田弾正が『一徳斎』と名乗って出家したのは?」
「……」
なんだよ、此処まで俺を馬鹿にしておいて竹松自身が知らん事は放置かよ。俺は放置プレーは嫌いなんだけどなあ。
まあ後で真田の源太くん(信綱の事)にでも聞いてみようかな。きっと親父繋がりで知っているはずだから……。
それにしても見事なツルッ禿だな。あの頭でジンギスカンを焼いたら……。駄目だな、頭の毒で食中毒を引き起こすだろう……。
■永禄2年(1559年)3月 駿河 府中の屋敷 松平元信(後の徳川家康)
とうとう俺も人の親か……。
竹千代(後の松平信康)が産まれた。正直、他人事のようで実感が湧かない。母親は関口義広の娘で今川義元の姪の瀬名(後の築山殿)だが、将来は安祥松平家七代当主となる予定の子だ。
「殿、抱いてやって下さいませ」
「う、うむ」
瀬名が俺に竹千代を抱かせようとする。どう持てば良いものか力加減が分からぬ。そう思っていると案の定、竹千代がぐずり出した。
「オギャア、オギャア」
ほれ、言わん事じゃない。俺に子守は無理なのじゃ。
「あらあら、どうしたのじゃ。竹千代、お父様ですよ」
「……もう良い」
竹千代を瀬名に預けると俺は書斎に籠もった。この部屋だけが素の俺でいられる。
それにしても武田家には驚かされた。まさか嫡男の義信が廃嫡されるとは……。一時はこの今川家でも騒然となった。
何と言っても実の娘である春姫を嫁がせているのだから、当然、次期当主の奥方となると思われていたのだから。
その算段が見事に反故にされたのだ。直前に姫が産まれて喜び勇んでいた矢先だったから、尚更、今川家中での怒りは並大抵のものではなかった。一部の過激な家臣からは『春姫様を返してもらおう』などという諫言がなされたほどだ。
その陳謝の為に武田家から山本なる者が出向いてきて、今川家からの質問に対して一つ一つ、義信夫婦は今も円満である事、別段、信玄との間に不和がある訳ではない事が説明された。
流石は雪斎和尚と外交戦を交えてきただけの事は有る。怒り心頭だった今川家中からの口撃を見事にすり抜けたのだから。松平家にもあのように弁の立つ男が居れば、そう思わずにはいられなかった。
その様な男が当家に居れば、今頃は俺は既に三河に帰っていられたであろう……。
■永禄2年(1559年)4月 相模 小田原城 北条氏康
それにしても武田家も思い切った事をしでかすものよ。まさか義信殿を廃嫡し、更に晴信殿に至っては出家しようとは……。
一時は当家でも問題となったが、引き続き武田家から来た氏政の嫁は手元に居るため、当家に仇なす事は無いと結論が出た。
問題視したのは義信殿を廃嫡によって今川家がどう動くかだったが、実質的に人質として送り込んだ実子の氏規、更には氏規にとっては外祖母にあたる寿桂尼からの文により、盟約を反故にする事は無いと分かった。
これで漸く背後の駿河が固まった事で、武田家と軍事的連携を強化して関東での戦いに専念する事が出来そうだわい。それにしても家督か……待てよ、そうだ、家督だ!
「誰ぞ、氏政を呼べ」
「はっ」
暫くすると氏政が書斎に入ってきた。着ている物からして鷹狩りにでも行っておったか? まあ良い、今はその様な些細な事に構っている時ではない。
「氏政、近う寄れ」
「はい」
「のう氏政、儂は隠居する事に決めた。そなた、家督を継げ」
「えっ、あ、でも」
うむ、予想通りの反応だな。たまには儂の予想に反する行動を取って貰いたいものじゃ。まあ無理か、コヤツは根が小心者ゆえ、虚勢を晴れても本気の勝負が出来ぬ男じゃ。
「案ずるでない。何も儂が政の一切から手を引くと言っておる訳ではない」
「はあ」
「今年は領内で未曾有の大飢饉が発生しておる事は存じておるな」
「はい」
「なればじゃ、代替わりによる徳政令の実施して家臣領民を助けようと思う」
「しかし、だからと言って隠居とは……」
「だから案ずるでないと申しておろう。引き続き儂が政においても軍事においてもそなたを後見してやる」
「……分かりました」
全く、儂が後見してやるというのにビクつきおって。もし今、儂が身罷ったら……北条家は終わるな、まあそれも良かろう。
■永禄2年(1559年)5月 信濃 上原城城下の屋敷 武田義信
「ふーん、じゃあ美濃は当主と家臣団で不和があるんだな」
「ああ、特に西美濃三人衆と呼ばれている稲葉右京亮良通、安藤日向守守就、氏家 常陸介直元は主君である斎藤義龍とその子龍興に愛想を尽かしているってもっぱらの噂だった」
「へー」
俺は今、信龍から美濃の情勢を聞いている。本当であれば去年の内に聞き出したかったのだが、信龍も俺も何かと忙しくて今日に至ってしまった。
「じゃあ、もしその西美濃三人衆が当家に内応してくれれば、東西から稲葉山城(現 岐阜県岐阜市千畳敷下)に迫れそうだな」
「うん、理想を言えばそうなるね」
俺は考える、俺がこの乱世で生き残る為にはどうすれば良いかを。
謙信? そんな奴は親父に任せておけば良いんだよ。
今川? 虎昌が馬鹿な事を考えなければ手の打ちようはある。
では誰が一番の難敵か……信長だ。奴さえ抑えれば俺が討たれる事は有るまい! では、どう奴を抑えるかだが、結論は奴が侵攻する前に奴が狙っている領地を掠め取る、だ。
俺のうろ覚えだが、確か信長は桶狭間の戦いの後に美濃に手を出していたはずだ。そして美濃を手に入れた事で百万石の大大名になり天下への道が開かれた。
だったら、答えは簡単だ。奴が美濃を平定する前に俺が美濃を手に入れる。奴が伊勢平定に目を向ければ、留守の尾張へ押し入るのみ!
俺が思考の海で泳いでいると信龍が話し掛けてきた。
「問題はどうやって西美濃三人衆を此方に引き入れるか、だね」
「……あ、ああ、そうだな。それなりの利が必要だし、大儀も欲しいな」
「うん、そこが問題なんだよなー」
美濃を手に入れる道筋は見えた。後は最初の一手をどうするか、それが難解なのだ。
そんな俺の思考を相変わらず無視する信龍が城下の事を聞いてきた。全く、話を変えるのが上手い男だ。
「それより太郎、最近じゃあこの上原城城下も結構栄えてきたね」
「ん、ああ、楽市楽座を取り入れたからね」
「楽市楽座?」
「ああ、既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ市座、問屋などを排除して自由に取り引きできる市場を作って、座を解散させたんだ」
「へー、結構抵抗されたんじゃない? 市座、問屋にさ」
「うん、当初はね。でも規制が緩和されれば商人の出入りが増えるだろ」
「うんうん」
「実際、今年は北条家の領地を中心に……まあ当家でもそうだが、飢饉に見舞われて物流が滞っている訳だから商人にとっては苦境と言って良い」
「ふむふむ」
「だから、その溢れた商人をこの城下に呼び込めたお陰で、って訳さ」
「へー、太郎も考えてるんだね」
「ハハッ、楽市楽座自体は近江六角家の観音寺城城下で既に行われているから、それの受け売りだよ」
ハハハッ、まさか信長の政の先取りとは言えねえ。
まあ良いさ、これで当家が少しでも潤えば、甲州碁石金に頼らない国造りに移行できるってもんよ。
でも当家には海が無いからなあ、海運が出来ればもっと金回りが良くなるんだけどこればかりは仕方が無い。逆に太平洋と日本海を結ぶ販路を開拓すれば良いだけの話さ、ハハハッ。
「ところで竹松は何時畿内に赴くんだい」
「……来月だ」
そう、信龍は畿内に行く事が決定している。役目は鉄砲を多数保有している本願寺や松永久秀との交渉だ。
「じゃあ、鉄砲の手配は宜しく頼むよ。金に糸目はつけないから、出来るだけ大量に仕入れて欲しい」
「……ああ」
「将来的には当家で鉄砲鍛冶を興して自主生産したいから、堺だけでなく紀伊の雑賀や根来、近江の国友から職人を連れてきてくれると助かるなあ」
「……見返りは?」
「はあ?」
「見返りはなんだと聞いている?」
「だから賃金は弾むって……」
「俺に対する見返りだ!」
ハア、相変わらずの強欲だな。少しは『無償の奉仕』って言葉の意味を知りやがれ! この銭ゲバめっ!
―――― 半刻ほどの口論と肉体言語を駆使した末、竹松に多額の報奨をする事を約束させられた俺が居た ――――




