第二話 出稼ぎと築城
■天文11年(1542年)7月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田太郎
「戦勝の儀、滞りなく……」
「うむ」
信濃諏訪の攻略から帰ってきた親父様が母上様と会話をしている。ウチの親父様の出稼ぎ……ゴホンっ、信濃への侵攻が一段落したみたいだ。
はっきり言って某シミュレーションゲームでは既に信濃支配の段階からゲーム開始だったので、当面のイベントは良く分からん。いや、当面といわず、信虎もゲーム開始時には今川家に居たからなあ。
正直、ゲームのイベント発生条件ぐらいしか史実を知らん俺にとって、はっきり言って未知の領域と言えなくも無い。まあ良い、当面は飯富兵部少輔虎昌辺りが画策した謀反イベントさえ回避出来ればそれで良いのさ、ハハハッ。
今回の出兵は前回天文十年六月に我が信虎を追放した親父様が家督を継ぐと、信濃の国衆が武田氏から離反し始めたのが事の発端だ。そうした中、今年に入って親父様の異母妹を室に迎えていた諏訪上大社大祝の諏訪頼重とその弟頼高を上原城(現 長野県茅野市茅野上原)にて当家が攻撃した。
このとき諏訪一族の高遠城主高遠頼継や諏訪下大社の金刺義政が親父様に呼応したため、頼重・頼高兄弟は居城であった上原城を支える事が出来ず、城に火をかけ、支城の桑原城に退いた。
そして今日七月三日、上原城から桑原城(現 長野県諏訪市大字四賀桑原)に逃れた諏訪頼重を包囲すると、翌四日、頼重は一命を助けられるという条件で和睦に応じて降伏開城した。しかし、親父様はそれで済まさなかった。親父様は約束を違え、頼重を甲斐府中(甲府)に連行して幽閉すると、東光寺で自刃を命じたのである。
頼重に嫁いでいた異母妹との間に生まれていた寅王丸を擁して諏訪支配に乗り出し、その拠点となった上原城には家臣の板垣信方をおくというあっさりした戦いとなった。
戦利品は諏訪頼重の娘である諏訪御料人……ゴホンっ、諏訪御料人は別としても、親父様の信濃侵攻のやり方ははどうかと思う。だって敵を倒す事で新たな敵を増やしている節があるからだ。これでは何時まで経っても信濃が安定しないのではないかと思えてしまう。寅王丸は俺にとって従兄弟にあたるから仲良くなれたら良いな。
で、俺はと言うと猛勉強中だったりする。傅役の虎昌は武門一辺倒だし、戦となれば親父様に付き従い出陣する。だから結論から言えば自主勉強となる。では何を勉強しているのかと言えば、この時代の日本語……古文や漢文の読み書きである。
ただ、読み書きを勉強しても仕方が無いので親父様が出陣中に便所から拝借した貞観政要で勉強している。貞観政要は古来から帝王学の教科書として用いられてきた書物だから読んで損はないはずだ。俺はどうやら親父様に嫌われているようなので、多分次期当主にはなれそうもないけど、武田家の一家臣としては平均点以上の能力を有していないと何時首を撥ねられるかわからないからなあ。
別にチート武将に成ろうとかそんな恐れ多い事を考えている訳ではない。何度でも言うが俺のモットーはこの乱世を生き残る事、その為にはフラグをへし折り続けなければならないのだ。まだまだ幼子の体だから戦働きの得手不得手はどうなるか分からないが、内政関連に関しては日々の積み重ねがものを言うだろうから今から勉強して損は無いだろう。
まあ、書物から学んでも実践出来るかは別問題だが知識が無ければ活用のしようも無い。幸い甲斐や信濃は山国の為、余り農業が盛んでないので棚田などでの新田開発をやってみるのも良いだろう。また治水に関しては親父様という生きた教科書があるから、近い将来、馬乗りを理由に治水工事の模様を見るのも良いだろう。
おっと、いけない。そろそろ未の刻(14時頃)だから、太助や五平や茜ちゃん達とまた遊ぶ約束をしていたんだった。それでは、今日も母上様に気付かれない内に館から消えるとしよう、さらばじゃ。
■天文11年(1542年)8月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田信繁
先月の桑原城の戦いで諏訪一族高遠頼継とともに諏訪頼重を滅ぼした当家は、頼重の遺領である諏訪領を頼継と折半した。なのにどうしてこうなった? 問題は、諏訪総領家の家督を継いで諏訪郡一円を支配下におこうとする頼継が武田に反旗を翻してきたのだ。くそっ、あの業突く張りの高遠頼継めえ!
頼継が反旗を翻したとの報が届くとすぐに評定となった。
「ここは一気呵成に頼継を倒し、逆に諏訪郡一円を武田が得ましょうぞ!」
「そうじゃ、そうじゃ」
そこかしこで家臣達が気勢を発している。なんでこうウチの家臣団は短絡的なんだ、もう少し戦略や戦術的な話は出来んのか!? これだから戦は嫌なんだ、おのれ高遠頼継め、無情にあの阿呆に腹が立ってきた。
「ええい、ただ闇雲に攻めると言うだけなら赤子でも言える。問題はどのように攻めるかじゃ!」
「しかし、信繁様! ここは早々に攻めねば諏訪郡一円を頼継に奪われてしまいますぞ」
「だから急ぐにしてもどう攻めるかを問うておるのじゃ!」
「……」
ふう、やっと家臣達が静かになったわい。じゃが問題の解決にはなっておらぬ、此処は兄上の意見を聞くべきだ。
「兄上、して当方の領地に攻め入って参った頼継をどの様に攻めまするか?」
「ふむ……」
暫しの沈黙が評定の間を包んだ。皆、兄上の下知を待っているのだ。
「寅王丸を擁して出陣する。大儀は此方に有る事を周囲に知らしめ、正面から戦に望む事とする」
「成程、それは名案でございますな」
家臣達から歓声とも納得ともとれる言葉がでる。成程、確かに名案だ。寅王丸は名目とはいえ諏訪棟梁家の跡取りとも言える。これを総大将とすれば頼継は『本家から諏訪の領地を奪う賊』という事になる。
討議が纏まったのを見計らって、兄上が後ろに席を変えた。
「御旗、楯無も御照覧あれ」
「「ははっ!」」
武田家に伝わる源義家が使っていた御旗と義家の弟である義光が使っていた鎧・楯無に誓った事で、家臣達はそれ以上の議論は止めなければならない。
またこの御旗と楯無の前で誓ったことで、兄上の下知には死を持っても守らねばならない。これで、勝つも負けるも兄上の采配次第ということか……。
■天文11年(1542年)9月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田太郎
父上達が凱旋して帰ってきた。戦自体は九月二十五日に宮川を挟んで頼継と衝突したらしい。この戦いで高遠勢七百余が討ち取られたというから凄い! また頼継は敗走した事によって、武田家による諏訪一円の支配が確立したらしい。
流石は戦国時代の十指に入るチート武将なだけあるね、親父様。ただ問題は高遠頼継が逃げちゃった事だろうな。こう言った場合、負けた方は死ぬまで根に持つから何時かまた挑んできそうな予感がする。人の予感……特に悪い予感は良く当たるというから、多分当たるんだろうなあ。あと、幼子の寅王丸を戦場の連れて行って大丈夫だろうか。トラウマとか心労とかにならなければ良いけど……。
まあ、そんな殺伐とした話は斜め横に置いといて、最近やっと漢文と古文が読めるようになってきた、俺も五歳になったからね。それに伴い貞観政要の内容を勉強しているのだが……。唐の太宗って人は良い事を言うね、全く。
この書物では家臣との政治問答が書かれているのだが、『自身が臣下を監督し、指導するだけでなく、臣下の直言や諫言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力しよう』と言っている。普通の主君じゃないね、主君としてはチート・オブ・チートの称号を与えたいよ。某ゲームで『土佐のダメ主君』と言われている一条兼定にはぜひ熟読してもらいたい書物だね、これ。
あと貞観政要には『臣下の忠告や諫言を得るために、進言しやすい状態を作るために常に温顔で接して臣下の意見を聞くべし』とか『上に立つ者は質素倹約を奨励すべし』だとか書かれている。今は君道篇ってのを読んでいるんだけど『帝王の業で、創業と守成のどちらが困難と考えるか?』の問いに対して『天下が乱れ、各地に群雄が競い立っている状況下では、これを攻め破り、従わせ、戦に勝ち抜かなければならない。そのことから創業の方が難しい』と返しているところなんて、今の戦国時代に大いに生かせる話が書かれている。
それと時々朱子語類も読んでいうんだけど、これはどうも俺には合わない。まず構文には齟齬があったり、尻切れ状態のものも見受けられたりするのが許せない。そして何よりも朱子学という学問は小難しい事を述べていて、なんか洗脳でもされそうな学問な気がしてならない。色々な考えを持った人の集まりがあって当たり前なのに『自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており……』とか訳の判らん事を言っている。まあ、そういう考えも有って良いんじゃないのって位にしか読んでいないのが実情だ。
そう、時は戦国時代なんだ! 生きるか死ぬか、もしかしたら明日死ぬかもしれない時代に生きているからには、それに適した知識を習得しなければならない。特にウチの場合は、あの親父様だから何時俺の首が飛ぶか分かったもんじゃないからね。だから、『コイツは役に立つ』と思わせる人間にならないといけないと思うんだよ、うん。
今日は真面目に勉強しよう、但し机に向かって本を読むんじゃない。実地での教育としよう。俺は漸く馬……と言っても子馬だが、に乗れるようになったので笛吹川と釜無川を、更に御勅使川と釜無川との合流地点を見ようと思っている。そして、どういう訳か傅役の飯富虎昌まで着いてきている、はっきり言ってウザイ。
「ふむ、あれが最近父上がおやりになった『聖牛』というものか……」
「……いえ若君、あれは『霞堤(後の信玄堤)』と呼ばれるモノにございます」
俺の後ろから糞真面目に訂正してくる虎昌、正直ウザイ。気を取り直して俺は組まれた木とその上に無数に置かれた石の簡易的な堤防が何か分からなかったので、それを指して訊ねる事にした。
「でっ、ではあれは何じゃ」
「あれこそが『聖牛(川倉とも言うらしい)』でございます」
成程ね、今工事をしているこの堀のようなモノが霞堤で、あれが聖牛な訳ね。
霞堤は何となくその仕組みが分かる。不連続の堤防を設ける事で洪水時の増水による堤への一方的負荷を軽減させ、水位が下がり始めれば逆にその切れ目から速やかに排水が行われる事で、川の増水による氾濫を治めるのだろう。また。洪水で運ばれる土砂は、もともと上流の山林で形成された肥沃な土壌であり、それをそのまま下流に流すことなく営農区域に蓄積しする機能も有しているのだろう。
だけど聖牛がよく分からん。あんなモンが洪水時に役に立つのか? よし、ここはしたり顔の虎昌に聞いてみよう。
「兵部(虎昌の事)、聖牛とはどの様な働きをするのじゃ」
「はあ、詳しい事は拙者にも分かりませぬが、なんでも川の流れを変えるために用いられる物のでございます」
「ふーん」
よく分からん、全く持って分からん。今度、親父様の機嫌の良い時にでも詳しい仕組みを聞いてみる事にしよう。
「よし兵部、帰るぞ。余り長居をしては工事中の人夫たちの邪魔になる」
「ははっ」
あとは山本勘助に築城術を学びたいんだけどな、勘助っていつ当家に仕官してくるんだっけ? それから真田幸隆から謀略のイロハを伝授して貰いたいな、幸隆もいつ当家に仕官してくれるんだろう?
■天文11年(1542年)8月 信濃 上原城 板垣信方
桑原城での戦いの後、諏訪支配の拠点としてこの上原城の城代に内定しているけど、城主って何をやれば良いんだ? 周りは敵だらけだからおちおち遠出も出来ないじゃないか! これはあれか、俺に死んで来いって事ですか、御館様? 一応、俺にも武田家家臣団の筆頭格としての自負はあるが、齢50を超えてそろそろ隠居を考えている身にこの激務は身体に堪えるわい。
まず上原城を整備、これが問題だ。七月の戦いで大きくは解されているため、その補修をしなければならない。更には土塁や城郭、堀の整備もしなければならない。城兵千五百人余に対して『城の周囲に堀を作れ、堀の深さは一間とせよ』、『堀で掘削した土を盛って土塁を築け』ぐらいの指示を出した。
一番の問題は城郭……つまり曲輪だ。どう築いて良いのかさっぱり判らん。武田家家中には築城に精通したものもおらぬから相談しようにも出来ないし、困ったわい。上原城は山城ゆえ土砂を削って平地とし、本丸と二の丸、出丸を築けば良いのだが、では『本丸はどの程度の規模でどの様な屋代とすれば良いのか』とか分からん事が多過ぎる。御館様に書状で問い合わせても余り有益な回答は返ってこない。恐らく御館様自身も築城に関する知識をそれ程有していないのだろう。
困った、本当に困ったわい。城兵も守備の薄い城で、いつ敵が襲ってくるかもしれない状況では安心して職務が出来ないだろう。そんな事を考えていると家臣が一人駆け込んできた。
「板垣様、浪人が一人目通りを求めております」
「ふむ」
そういえば最近、武田家の伸張に期待して召抱えられたい浪人が増えているな。多分、今回も同様の理由だろう。そう思っていると家臣は口篭りながら進言してきた。
「しかし……その者の容姿なのですが……足が悪く、更に隻眼でございまする」
「何っ……まあ良い。此方に通せ」
「ははっ」
暫くすると足を引きずった隻眼の中年男が現れた。
「その方、名を何と言う」
「はっ、山本勘助晴幸と申します」
「して、目通りの用件は何じゃ?」
「はい、武田家に仕官したく当主晴信様に推挙をお願いしたいと思い参りました」
うーん、身なりはみすぼらしいがし、身障者か……いかんな、人を身なりで判断しては駄目だ。
「その方は何が出来る?」
「は、はあ……この十年余の間、諸国を遍歴しておりまして城取り(築城術)や陣取り(戦法)には多少の自負がございます」
「なっ……しっ、城取りとな」
「はい」
今欲しい人材が此処に来た。これも天の采配! いや、日頃の儂の行ないが善い所以だ! だが、仕官の前に聞いておかなければならぬ事がある。
「しかし何ゆえ当家なのじゃ」
「はあ、当初は駿河国主今川治部大輔(義元の事)殿に仕官せんと欲したのですが……何分、この異形ゆえ……治部大輔殿は召抱えてはくださらず……」
まあそうだろう、治部大輔殿は京雅を好むと聞こえてくるゆえ……。
「……良かろう、当面は儂の下で働け。先ずはこの上原城の築城じゃ、それが成れば御館様への目通りを仲介してやるわ」
「はっ、あっ、有難うございます」
ふふふっ、良い拾い物をしたものよ。今宵は久しぶりに旨い酒が飲めそうじゃ。