第十九話 第三次川中島の戦い
■弘治3年(1557年)3月 信濃 川中島 武田義信
流石、『物欲と領土欲にまみれた親父様』は仕事が早いねえ。
正月に謙信が更科八幡宮に願文を捧げて武田討滅の祈願をすると、親父様はすかさず二月には長尾勢が出陣する前に長尾方の前進拠点であった水内郡葛山城(現 長野県長野市茂管)を落とし落合氏を滅ぼした。そして今、武田勢はその勢いで高梨政頼の居城である飯山城(現 長野県飯山市大字飯山)に迫ろうとしている。
「若君、御館様が着陣にございます」
「んうお、ああ分かった」
使い番が親父の到着を報せてきた。怒られる前に陣場に行かねばなるまい。
「此度の働き、ご苦労であった」
「「ははっ」」
俺が陣場に入ると、そこでは既に北信国衆への論功行賞が行われていた。
はてね、まだ謙信が来てないから今回の戦は終わってませんが、論功行賞をしちゃって問題無いの?
そんな俺の考えは次の親父様からの言葉で杞憂に終わった。
「越後の長尾が信濃にまたぞろ出張ってくるとの報せがきておる。よって引き続き北信の国衆には当家と共に戦ってもらう」
「「はっ」」
成程ね、先に論功行賞で褒美を与えておく事で味方に引き入れたって訳だ。流石です、疑ったりして御免なさい、親父様。
■弘治3年(1557年)4月 信濃 川中島 長尾景虎
おのれ武田め、この景虎様が来たからにはもう勝手は許さぬぞ。まずは武田方の諸城を落して善光寺を拠点にするとしようか。
それにしても当家の家臣達も馬鹿揃いよ、俺の下知があっても中々兵を集められぬとは! 兵は神速を尊ぶのじゃ、だらだらと駆けつけおってからに! この戦が終わったら必ずや折檻してくれる、俺を待たすなど言語道断じゃ。
そうこうしている内に、やっと家臣共が駆けつけてきおった。
「ハア、ハア……実城様、まだ兵が集まらぬ内に、ハア、ハア……出陣されては、ハア、ハア……困ります」
「遅い! これより直ちに武田方の諸城を奪うぞ」
「なっ、ハア、ハア……お待ち下され。兵達が疲れておりますれば、力を発揮する為にも休息を……」
「ええい、ならば勝手にせよ」
ええい、俺について来れぬとは軟弱者めが!
■弘治3年(1557年)9月 信濃 川中島 武田義信
暇です。暇で悶絶しそうです。
四月から六月に掛けて謙信が北信濃の諸城を荒らし回っている間、武田勢は長尾勢の動きに翻弄されまくり、結果的に何もしていない。だって景虎が現れたって報せを受けて駆けつけると、もう謙信居ないんだもん。全く、慌てんぼさんなんだから、プンプン。
そんな空振りも北条からの加勢である北条綱成勢が上田に到着すると一変した。兵の多寡を見た謙信が尼飾城の攻略を諦めて飯山城へ撤退したからだ。流石は綱成、伊達に地黄八幡なんて渾名で呼ばれてないね。今度、我が愛読書『素敵な文の書き方』を進呈してあげよう。
やっと謙信が大人しくなったので、武田勢は七月に安積郡小谷城を攻略すると川中島へと侵攻しましたよ。そして今、両軍が上野原で睨みあっている訳です。まあ睨み合いも暇な時間も良いですよ、安全だから。だけどさあ、いい加減帰れよ、謙信。俺も早く帰って愛しの春姫とイチャラブしたいのだよ。
「おお、長尾勢が引き上げていくぞ」
「ふん、景虎も所詮は我等が御館様に恐れを成したのじゃ」
横で当家の兵達が発した声が聞こえてきたので、長尾勢を見てみると陣旗が北に移動していくのが分かった。ふう、やっと帰れる。それにしても当家の兵達の間にまた慢心が生じているんじゃなかろうか……。
■永禄元年(1558年)1月 越後 春日山城 長尾景虎
ちっ、晴信め。また俺との戦を避けおってからに、次回こそ叩きのめしてやるわ!
それにしても大樹(将軍の事)も大樹じゃ。いくら俺の上洛を熱望しているからといって和睦を勧告する御内書を送るとは! 図に乗った晴信を信濃守護に、倅の義信を准三管領に補任するとは何事ぞ! これでは武田の信濃支配を正当化するだけではないか!
おのれぇ、これでは当家の有力な盟友である高梨氏は本拠地を失って弱体化するではないか。仕方が無い、今残っている長尾方の北信国衆への支配を更に強化して実質的な家臣とするように進める他あるまい。
「誰ぞ、酒を持て!」
「はっ」
ええい、忌々しい。酒でも呑まねばこの憤りを納められぬわ!
■永禄元年(1558年)1月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田義信
「新年、明けましておめでとうございます」
「「おめでとうございます」」
「うむ、昨年は皆の働きに大いに満足している。今年も頼む」
「「ははっ」」
信繁の言葉を皮切りに武田家家臣一同が一斉に親父様に年賀の挨拶をすると、親父様が労いの言葉を皆に掛けた。
挨拶が終わると早速、酒宴の場と化した。どんだけ酒好きなんだ、この一家。
そして無礼講と化した大広間において、順次上座に鎮座している親父様に家臣団が酒を注ぎに行くと、信廉が感慨深げに親父様に話しかけた。……よく見ると本当に瓜二つな兄弟だね。
「兄上が信濃守護に、そして太郎は准三管領に補任去れた由、誠に祝着に存じます」
「うむ、まさか大樹が儂からの要求を飲むとは思わなんだ。やはり、幕府の威光も落日の一途を辿っておるのやも知れぬ」
「左様、まさか大樹が長尾に泣き付く日が来るとは……、世も末でござるな」
あー、駄目だ。末端家臣だけでなく親父様を始めとする全員から慢心の匂いがプンプン臭ってくる。困るんだよ、相手はあの戦闘ジャンキーの謙信なんだよ! 慢心、絶対駄目! 多分、次は『車懸りの陣じゃー』って大型台風並みの破壊力で迫ってくるはずだ。
しかし、そんな俺の嘆きを神は見逃さなかった。
末席から一同に向けて諫言する人が現れたからだ! 怒声を発したのは当家の生き字引である原美濃守虎胤だった。
「恐れながら、次の相手は越後! これまで三度景虎と合間見えましたが、次こそは雌雄を決する事となりましょう。それなのにこの緩みきった宴はなんですか! 上田原での、そして砥石城での敗戦をもうお忘れか!」
「……」
「今のそなた等を板垣殿や甘利殿、初鹿野殿、横田高松が見たら何と申すか! おい越前守(小山田信茂の事)、そなたの家臣達が砥石崩れでどれだけ戦死したか忘れたとは言わせぬぞ!」
「……」
皆が虎胤御大の言葉によって静まり返った。
偉いぜ、虎胤……おっと、今は剃髪して清岩と号していたんだっけ。まあそんな事はどうでも良い、今は貫禄のある人物から一喝があった事が重大なんだ。
「あのー」
「何じゃ! 若君」
「いや、それがしも虎胤の言葉が胸に刺さった。ゴホンッ、清岩、良う申した。この義信、そなたの今の金言決して忘れぬぞ」
「そうじゃ、清岩。皆も今を楽しめておるのは命を賭して我等を守った先人がおる事、肝に銘じよ」
「「はっ」」
俺が清岩爺ちゃんの言葉に謝辞を述べると、すかさず親父様が追従してきた。
うーん、貫禄を横取りされた気分でちょっぴり残念です。でも、他の家臣団がこの年賀の酒宴で気を引き締めてくれれば、この一年は大丈夫だろう。
そんな事を考えていると、内藤修理亮昌豊が清岩爺ちゃんに疑問をぶつけた。
「それより清岩殿。先程、『次の相手は越後』と申しておったが、信濃が当家に組み込まれたからには上野や美濃も視野に入れても良いのではござらぬか?」
「いや、いくら当家の軍勢がつわもの揃いでも、長野業正が居る限り上野は落ちぬよ。更に申せば北条家が関東一円に目を向けておる故、余計な手出しは両家の為にならぬじゃろう」
「……」
「更に美濃については、道三が死すとも信濃との境にある岩村城(現 岐阜県恵那市岩村町)が蓋をしておる。これをどうにかせねば美濃に足を入れるのは難しかろう」
「……」
昌豊のオッサンは何時も北条家との同盟に難色を示していたからなあ、やはり上野攻めをさり気なく皆の居る場で進言してきた。でも何が正邪かを見極める老眼の男・清岩爺ちゃんはピシャリと跳ね返した。皆さん、お年寄りだからって甘く見たらアカンよ。
「なれば清岩殿。我等は越後一本に狙いを絞るしかないという事でござるか?」
「そうとも限らぬ」
俺が『これからは年寄りを大事にしよう、ウンウン』なんて思っていると、次に馬場美濃守信春が訝しげに清岩爺ちゃんに聞いてきた。皆さんも年寄りを馬鹿せず、聞く耳を持ち始めたのね。だがしかし、清岩爺ちゃんが口を開く前に親父様が話に割って入った。話の主導権を奪おうとしただけなんて、セコイ事は考えてないよね、父ちゃん?
「勿論、越後が敵となるなら相手をする。しかし越後だけが領土ではない、山を越えれば越中にも飛騨にも目を向けよう」
流石は親父! 締めるところはちゃんと見極めているね。……だが真顔だった親父の顔が青くなった。嫌な予感がする……。
「……太郎」
「……な、なんでしょう」
「……………ゥィ……オエッ……オロオロおろおロオロオロろろr…ビシャ…」
吐いた。武田家当主様が俺の足元に吐いた! そして、俺も……。
「ぉ………おオボロオロろロロオロr……」
そう、もらいゲロというやつだ。またやってしまった……。気付くと廻りでももらいゲロの連鎖が続き、広間は酸味がかった空気を醸し出していた。
■永禄元年(1558年)3月 信濃 上原城城下の屋敷 一条信龍
「ふう、疲れたよ」
「ご苦労さん、大変だったみたいだね、美濃は」
「ああ、何度死ぬかと思った事か。十を数えた後は忘れたよ」
俺の言葉に義信が労いの言葉を掛けてくれた。それにしても長かった……。
この六年近く美濃の斎藤家に厄介になっていたが、道三公が死してからは本当に針のむしろだったからなあ。
当初は兄上に一目置いていた道三公が居た事で悠々自適に美濃を検分できたのだが、斎藤家の跡目争いで道三公が憤死すると俺の立場は一転して脆弱なものになった。
まあ、当たり前といえばそれまでだが、跡を継いだ斎藤義龍が阿呆だった。止せば良いのに俺に刺客を差し向けてきやがったのだ、まあ返り討ちにしてやったけどね。
しかし、そうなれば俺も斎藤家に居候してはいられない。道三公が死してからの二年近く、美濃を転々としながら美濃の地形や諸城の城割り、人間関係を調べ続けていた。生活ははっきり言って浮浪者と同じようなものだった。
「何時戻るんだい、躑躅ヶ崎館へ」
「流石に足腰が痛いから、一晩この屋敷に止めてくれ。明日には甲斐に入るから」
「分かった。ゆっくりと風呂に浸かって身体を休ませてくれ」
「ああ、そうさせて貰う」
それにしても、俺の前に座って終始微笑んでいるこの男は何なんだ! 俺を美濃に行かせた影の張本人が何時の間にか上原城の城代で、嫁まで貰っているなんて! 理不尽だ、全くもって理不尽だ!
「おい、太郎」
「なんだい、竹松」
俺が義信の幼名で話し掛けると、コイツも俺を幼名で呼んだ。そして太郎は相変わらず微笑を浮かべている。
「俺との約束を忘れていないよな!」
「どうやら竹松には一条家の名跡を継がせるような事を父上が言っていたはずだ」
「俺との約束を忘れていないよな!」
「今、この上原城城下で鉄砲を製造しようと思っているんだ。これからは鉄砲を多数保有している本願寺や松永久秀といった畿内勢力との外交を担当してくれると助かるんだけど」
「俺との約束を忘れていないよな!」
「なんか竹松には四郎の後見人をって話も聞いたような気がするよ」
「俺との約束を忘れていないよな!」
「……ハア、分かったよ。確か戦場で返すのと……」
「嫁の紹介だっ!」
「ああ、我が愛妻の春とともに良い女子を吟味して……父上に進言しておくよ」
「絶対だからな! 嫁が来るまで俺が知り得た斎藤家の武力の多寡、地形や風土は教えないからな!」
ムフウー、早く来い、我が美人の嫁(仮)よ!
―――― 一ヵ月後、鼻息の荒い信龍は無事に甘利虎泰の孫娘と婚礼を済ませた ――――




