第十五話 第一次川中島の戦い
■天文22年(1553年)4月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田信廉
「おい、太郎」
「あっ、叔父上。お帰りになられたのですか」
俺が声を掛けると太郎は笑顔で振り向いて俺に返事を返してきた。ちっ、どうもコイツだけは騙されてくれない。皆、俺を兄上と勘違いしてくれるというのに……からかい甲斐の無い奴だ。
「葛尾城での戦いは如何でしたか?」
「ああ、村上義清は当家に抗戦を続けてきたが、この頃は配下の国衆が当家に降り勢威を衰えさせていたからな。九日の総攻撃で葛尾城は自落したよ」
そう、落城はした。だが当の義清が武田勢の攻撃前に既に越後の長尾景虎を頼って落ちた。火種は残ったと言えるだろう。そんな事を考えていると、太郎の横に居た宗四郎、いやもう元服して三枝昌貞であったな、昌貞が話しかけてきた。
「そうですか。刑部少輔様(武田信廉の事)、ではいよいよ信濃の平定も目前ですね」
「ああ、そうなるな」
「うわー、早くそれがしも戦場に立ちたいです。ねっ、若君もそう思うでしょ」
「……あ、ああ。そうだな」
昌貞が目を輝かせている。ただ、その横で太郎が思案顔をしている、返事も上の空だ。
「どうした? 太郎」
「いえ、聞いた所によれば村上義清は落ち延びたのですよね」
「ああ、直前に城から抜け出たようだからな」
俺が応えると、更に太郎は思案に暮れて黙り込んだ。何か懸念でも有るのか?
■天文22年(1553年)4月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田義信
やばいな、村上義清が逃げたか。捕らえるなり、討ち果たすなりされれば良かったんだがな。
確か某ゲームでの村上義清のステータスって『ザ・猛将』だったよな。それを取り逃がしたとなると後々厄介な事になるんじゃないかな。
俺には村上義清が歴史の上でどう生きたなんて知識は無いからよく分からんが、よりにもよって越後の謙信の下に逃げたって所が気になるな。あの戦闘ジャンキーの謙信の下に猛将の義清が付いたら……ああ、嫌な予感しかしないよ。多分苦労するだろうな、親父様。
俺? 俺は知らんよ、俺のモットーは『戦嫌い! 平和一番』だもん、エッヘン。
あー、でも嫌だな。もう元服も具足始もしたから何時でも出陣できる俺だけど、初陣の相手が謙信と義清、それに屈強な越後家臣団……。考えただけで鬱になる。まあ、救いは何度か真田幸隆に依頼して越後に謀略を仕掛けたお陰で謙信が動員できる兵を抑える事が出来そうって事ぐらいだな。
そんな事を考えていると、俺が思考の海に潜っていた事で訝しんだ叔父上と昌貞が不思議なものでも見るような顔をして俺に話し掛けてきた。
「どうしたのだ、太郎?」
「そうですよ、太郎様が恐い顔をしているなんて珍しいですよ」
失礼な! 俺だって真面目な時だってあるぞ(キリッ。まあ、それよりも二人ともまだ気付いていないようだな。まあ仕方が無い事ではある、誰も謙信の下に降った義清が脅威になるなんて考えないよな。
俺だってそうだ。何も知らなければ敗軍の将である義清に何が出来るって普通は考えてしまうだろう。だが、降った先が問題なんだ。
「越後に降ったんですよね、義清は。間違い有りませんか、叔父上?」
「ああ、透破の報せで義清が越後方面に向かったと聞いておる」
「そうですか……」
「どうしたのじゃ、太郎?」
「厄介なんですよ、越後は……」
越後の龍が動きだすのか……。俺の座右の銘は『寝た子は起こすな』なんだけどなあ、ハア。
■天文22年(1553年)4月 越後 春日山城 村上義清
「お頼み申す。何卒、武田の奴輩を信濃から追い出すため、助勢願います」
「……」
俺は今、越後の春日山城にて城主である長尾景虎に謁見している。目的は勿論、信濃の領地奪還の助勢を頼むためだ。悔しいが今の俺ではどう逆立ちしても武田晴信に勝てない。今の助勢の懇願をしていても武田家に対する憤怒の念が沸々と沸いてくる。
「この義清、今後は長尾家の為、実城様の為に粉骨働く所存ゆえ、何卒……」
「……」
「景虎殿、この高梨政頼からもお頼み申す」
「……」
中々儂の要請に対して良い返事を返してくれない景虎殿に対して業を煮やしたのか、儂の横に座る高梨政頼も景虎殿に対して懇願してくれた。だが、いまだに景虎殿は首を縦に振ってくれぬ。
しかしこの場に政頼殿が居てくれて助かったわい。長尾氏は高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、景虎の父長尾為景の実母は高梨家出身である。更に言えば政頼殿の妻は景虎殿の叔母でもある。縁者からの要請となれば流石の景虎殿も重い腰をあげざるを得ないはず。
「景虎殿!」
「……分かった。兵四千を貸し与えるゆえ、北信濃にある村上方の諸城を奪い返すが良かろう」
「ははっ」
景虎殿自身の出兵は認められなかったが、兵四千があれば武田晴信の奴輩に対抗できよう。見ておれ、晴信め!
■天文22年(1553年)9月 信濃 川中島 長尾景虎
五月に村上義清は北信濃の国人衆と俺からの支援の兵を併せた五千を率いて反攻し、八幡で武田に勝利した。
その報せを聞いても何も感慨は湧いてこなかった。五千の兵があれば勝って当たり前だ。
だが武田晴信は一筋縄ではいかなかった。武田勢は一旦兵を引いた事で村上義清が葛尾城奪回に成功するが、七月、武田軍は再び北信濃に侵攻した。そして村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城(現 長野県上田市前山)を攻めたのだ。これにより、八月には村上義清は再度、城を捨てて越後国へ逃れてきた。全く、使えぬ男じゃ!
そして今、俺は川中島に陣を敷いている。
今月始めに自ら兵を率いて北信濃へ出陣し、布施の戦いで武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現 長野県千曲市大字上山田(城山史跡公園))を落とした余勢を駆って青柳城(現 長野県東筑摩郡坂北村)を攻めた。すると武田勢は、荒砥城に夜襲をしかけ、当方の軍勢の退路を断とうとしたため、八幡まで兵を退かねばならなくなった。俺は一旦は兵を塩田城に向け直したが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたてきた。
「……一定の戦果を挙げた。越後へ引き揚げる」
「「ははっ」」
村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態は防ぐ事には成功したはずじゃ。
しかし武田晴信か……珍しく戦の機微が分かる奴が居るものじゃ。ふふっ、面白くなってきおったわい。此度は明確な大儀が無かったゆえ不本意な戦であったが、春日山城に戻ったら早速、叙位任官の御礼言上のため上洛して私敵治罰の綸旨を得るとしよう。そうなれば俺に敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得る事ができる。
フフフッ、楽しくなってきたわい!
■天文22年(1553年)9月 信濃 川中島 武田晴信
ふん、長尾の当主も戦が出来る男であったか、村上の馬鹿とは雲泥の差だな。まあ良い、善光寺平の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していた為、思うような戦が出来ず善光寺平進出は阻まれたものの、小県は勿論の事、村上氏の本領埴科郡を完全に掌握できたのじゃ。相応の成果を得たと言えよう。
「どうやら、長尾の当主は戦をせぬようじゃ。先方の退陣を見てから甲斐に帰参する」
「「ははっ」」
俺が退却の下知を下すと、馬場美濃守信春と秋山伯耆守信友が近づいてきた。
「御館様、越後の当主も中々。一気呵成に攻めてくるかと思われましたが、戦の流れを良く読んでおりまするな」
「うむ、これからこの北信濃を平定する為には越後の動きが一層大事になるであろう」
「当家が北信濃に出張るたびに長尾勢が援軍として出てこられては堪りませぬな」
「ああ」
信春も俺と同じ考えのようだ。全く、厄介な相手が出てきたものだ。
すると信友が感嘆の言葉を発した。
「しかし、長尾勢の猛攻は敵ながら見事でございましたな」
「そうだな、当家も負けぬように当家の兵馬を精強なものにせねばならぬ」
「はっ」
信春も信友も、いや二人だけではない。当家には戦巧者が数多居る。此方が下手を打たねば負ける事はあるまい。長尾景虎か……奴に勝つも負けるも俺の采配次第という事か。俺自身も一層励まねばなるまい。
「勘助、真田弾正! 近こう」
「ははっ」
俺が呼ぶと二人は直ぐに俺の前に現れた。二人には存分に働いて貰わねばなるまい。
「真田弾正、そなたは一層北信濃の調略に励め。村上に組する者共を減らし、越後が出張ってくる口実を無くさねばならぬ」
「ははっ」
「勘助も今川との外交が一段落した今、真田弾正を補佐しつつ今後この地で戦をする際の陣場の見立てをせよ。何処が攻め易く、何処が攻め難いか、何時が攻め時かをしかと見定めよ」
「はっ」
必ず長尾景虎とは再戦する。俺には分かる、いずれ雌雄を決する時が来る事を……。
■天文22年(1553年)10月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田義信
親父様達の軍勢が帰ってきた。
早速、此度の戦の論功行賞が行なわれ、それが済むと酒宴となった。皆さん酒好きだね、俺は呑まないけどね。
ふと酒宴の席で部屋を見渡すと勘助と幸隆が居ない事に気付いた。あれ? 二人に今回の戦の詳細を聞こうと思っていたんだけどな。二人の所在を知りたかったので横に座っている信廉に聞く事にした。
「叔父上、勘助と真田弾正の姿が見えませぬが、二人は此度の酒宴に来られないのでしょうか」
「ああ、兄上に特命を下されたゆえな。二人の論功行賞は現地で行なわれ、引き続き北信濃の調略に向かったぞ」
成程ね、それで二人が居ないのか。それにしても親父様も人使いが荒いね、何時かストレスが溜まって爆発しないと良いけど……。
じゃあ、別の人にって事で叔父さんに今回の戦の詳細を聞くとしよう。
「叔父上、此度の戦は如何な流れで運んだのです?」
「ああ、最初は村上勢が優勢に事を進めたのだが、兄上の機転で逆に村上義清は再度、城を捨てて越後の長尾景虎に泣きついてな。最後は重い腰を上げた景虎と対陣して、両軍睨み合って終わったわい」
「……左様ですか」
おかしい! おかしいぞ、これ! 謙信と対決したのに皆がケロッとしている。あれ? 俺の記憶違いか? 俺でも川中島の戦いぐらいは知っている。そして両軍が激突して……確か信繁や勘助が戦死した事も。
俺が不思議に思って苦悶していると、信繁が笑いながら話し掛けてきた。
「ハハハッ、どうした太郎。まさか当家が負けるとでも思っていたのではあるまいな」
「い、いえ、そのような事は……」
俺が口篭って答えると、今度は真顔になって信繁が顔を近づけて話してくれた。
「恐らく越後の長尾家はこれからも北信濃に出張ってくるであろう。間違いなく兄上はそうお考えじゃ、その為の勘助と真田弾正の調略という事じゃ」
「な、成程」
うーん、謙信とは今後も戦うって事ですか。嫌だな、なんか最近、俺の初陣がどうとか話が聞こえてくる。ヤダー! 戦馬鹿の謙信となんて戦ったら、こっちの命が幾つ有っても足りないぞ!
そんな事を考えていると、真顔だった信繁の顔が青くなった。
「太郎」
「……な、なんでしょう」
「…………………ゥィ…ヒック……オロオロオロろろ…ビシャ…」
吐いた。見事に吐いたね。そして、俺も……。
「ぉ………おオボロオロろロロオロロ…」
そう、もらいゲロというやつだ。この酸味の効いたこの匂いにつられて催したのだ。今回、俺、酒……呑まなかったのに……。
青春って酸味が利いてますね、オボロロロ……。