第十三話 尻に火が付く
■天文21年(1552年)1月 甲斐 躑躅ヶ崎館 春日虎綱
「おい、尻弾正」
「……(くっ、耐えろ! すーはーすーはー、良し俺は大人だ)」
深呼吸して少し落ち着いた。よし、俺は大人だ。
振り向かなくても分かっている、この春日弾正忠虎綱を呼ぶ声で……。
「飛騨守、最近の尻小姓は官位を貰うと偉そうだね。振り向いて僕達を見てもくれない」
「でもその官位も所詮は御館様に貰っただけで、朝廷から正式に認められた訳じゃないから通称だろ? 偉くはない、偉そうなだけだな」
「まあ、太郎の『飛騨守』もそうだけどね、ハハハッ」
「やーい、しりだんじょうー」
振り向くと、やはりいつもの御仁達が不敵な笑みを携えながら……居た。どうやらいつもの二人に加えて四郎様まで付いて来たようだ、ハア。
「若君、もう具足始もなされた身なのですぞ。いつもまでも童のような遊びはお止め下さい」
「何を言うかと思いきや……ハア~」
私の苦言に対して若君が大きな溜息をつくと、口角を吊り上げて反論してきた。
「聞いたぞ、父上が他の小姓に色目を使ったとかで、また疑っていたそうだな」
「それがしも聞いたぞ、それによって兄上はそなたに詫び状まで出したそうではないか」
「ぐっ、お二方は何を根拠に……ゴニョゴニョ」
若君がさも知っているぞと胸を張って言い放つと、信龍様までが追従してきた。そ、そのような事実は……。
俺が口篭っていると、信龍様が懐から一枚の紙を取り出しヒラヒラとかざしてきた。
「これが証拠だ!」
「な、何ですか、それは!?」
「父上がそなたに宛てた詫び状だ」
「な、何故それを若君達が持って、って、どこからそれを……」
何故だ、あの書状は大事に家に保管してあったはず……。
「ふん、先程そなたの屋敷に偶然伺ったら奥方が渡してくれたんだ」
「うんうん、怒り心頭だったね、奥方殿」
「頭から煙が出てたよー」
若君、信龍様、四郎様の順で書状を手にした経緯を教えてくれた。おのれ、妻まで手懐けるとは……。
俺が妻に対して沸々と怒りが沸いてきているところに、若君が俺の肩に手を乗せて、さも心配そうに話し掛けてきた。
「なあ弾正、最近はあまり練兵をしていないと聞くぞ」
「うんうん、いつも馬場美濃守からの誘いをすり抜けているってもっぱらの噂だね」
「やーい、逃げ弾正」
「うっ、それは……」
若君の言葉に対して信龍様が更に追い討ちを掛けてきた。
確かに馬場殿からの誘いからは逃げている。俺は兵を傷つけたくないし、指揮もあまり上手とはいえない。御館様の前で恥を掻きたくないのだ。
そんな俺に若君が更に話し掛けてきた。今度は真剣な表情に移っている。
「弾正、練兵で負けるのは恥ではないぞ。一番の恥は戦場で負ける事、それも無様にな」
「……」
「今しがた、四郎が『逃げ弾正』とそなたに言ったな」
「……はい」
くっ、何気に六歳の童にまで馬鹿にされるとは、情けない。
「弾正、戦場では勝ち戦ばかりではあるまい。時には撤退戦をする場合もあろう」
「……はい」
「その際、そなたが退きの妙を披露できれば、きっと『逃げ弾正』も立派な渾名となろう」
「……分かりました」
ふっ、まさか十五歳の若造に諭されるとは、俺も焼きがまわったな。
これからは一軍の将として恥じない武士となるべく精進しよう。
■天文21年(1552年)2月 越後 春日山城 長尾景虎
関東管領の上杉憲政様が相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城(現 群馬県藤岡市西平井)を棄て儂を頼って越後国へ逃亡してきた。
「景虎殿、お頼み申す。どうか上野を、関東の静謐を守って下され」
「ははっ」
憲政様が平伏して俺に懇願してくる。本来であれば管領職を有する憲政様は、俺に命令できる程のお方。それがこの様に気弱になられるとは……。
「この景虎、必ずや管領様の御期待に添えるよう、越後の全力をもって北条を討ち滅ぼして差し上げます」
「おお、おお、なんと心強いお言葉。関東の事、頼みましたぞ」
憲政様が涙を流し、俺の手を握って応えてくる。
信濃の守護職にある小笠原長時殿も再三に渡って儂に文を送ってくる。内容は『信濃に侵攻してきた武田を打ち負かしたい。その際の援軍をお願いしたい』との事だ。
おのれ、北条に武田め! 天下の静謐を乱す輩はこの景虎が討ち滅ぼしてくれよう!
■天文21年(1552年)4月 駿河 今川館 太原雪斎
「ふう、やっと尾張の三河守(信長の父、織田信秀の事)との戦も一段落しましたですじゃ」
「……左様か」
御館様はどこか上の空で儂の話を聞いている。はて、何を考えておられる。
「やはり松平竹千代(後の徳川家康)の人質交換で落ち着いたか」
「はい、落ち着いたからかもしれませぬが、それも三河守の急死の一因かと……」
「成程な、気が抜けて死におったという事か」
三河情勢の話をしているのだが、一向に御館様は上の空だ。御館様とは長年付き合いだから儂には分かる。一体何をお考えであろう。
「御館様」
「何じゃ」
ご自身の思考を遮られたからだろう、幾分苛立った御館様は声を発した。
「何を考えておられます?」
「法度じゃ」
はて、法度ならばお父君(氏親の事)が『今川仮名目録』を制定されたはずでは。
「既に当家には分国法がございます。何故、今この時に法度など……」
「今だからこそじゃ。亡父の定めた今川仮名目録に追加法を加えて、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての当家と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切るのじゃ」
「な、なんと、それでは……」
「そうじゃ、滅びゆく幕府にいつまでもしがみ付かれては敵わぬゆえな」
御館様は天下を目指すつもりじゃ! その為の分国法であり……、恐らく三家の同盟もその布石という事か! 尾張も三河守が死去して大人しくなるだろう。
暫くは国力を蓄えつつ、御館様の下知を待つとしよう、ハッハハハッ。
■天文21年(1552年)5月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田義信
ああ、平和だ。
表面だけを見れば平和そのものだ。信濃の平定戦も膠着状態に入ったし、駿河から入ってくる情報では三河でも小康状態が続いているようだ。近くで合戦をしているのは北条家ぐらいのものだ。
だが俺は知っている。暫くしたら越後の長尾家と信濃の外れで決戦する事を、駿河の今川家が着々と尾張に攻め込む準備をしている事を。それ位は中学校で習ったから知っている。
今のこの平穏は、そうまるで嵐の前の静けさといった言葉がピッタリ当てはまる。
ただなー、俺ってまだ実績が無いから発言力が皆無なんだよね。だから親父様に『北信濃なんてほっといて美濃に進みましょう』って言っても聞く耳を持って貰えないだろうなあ。
そんな事を考えながら甲斐府中を散策していると、後ろから声を掛けられた。
「若君、このような所で何をやっているのでござるか」
「うおっ、虎昌ではないか。そなたこそ、この様な所で何をしておる」
話し掛けてきたのは上原城の城代であるはずの虎昌だった。
「して、何をされているのです?」
「いや、平和だなと思ってな。日々の務めも一段落したところだったので気分転換の散歩じゃ。それよりそなたこそ何故ここに居る?」
逆に俺が問い質すと虎昌は苦笑しながら応えてきた。
「いやー、それがしも暇でございましてな。故に久しぶりに若君の顔を見に来たのです」
「ハア、そなたは上原城の城代ぞ。職務を投げだして何をやっておるのだ」
全く、溜息しか出てこない。なんでこんなヤツが城代なんだ、城代ってそんなに軽い職なの?
「何を仰いますか! 城代の職務は滞りなく行なっております。ただ……」
「ただ、何だ」
虎昌が困った顔をする。髭面の中年親父が可愛い子振るな、ただ気持ち悪いだけだぞ。
「ただ、若君の事が心配なのです」
「何だ、何が心配なのじゃ」
虎昌が今度は恥ずかしそうな顔をする。頬を染めるな、気色悪い!
「いくら職を解かれたからと言って、儂はいつまでも若君の傅役のつもりでおります」
「……」
「ですから、今も若君が己の鍛錬に励んでいるかをこの目で確認せねば落ち着かぬのです」
「そなたから授かった『己を厳しく律する心』は今も我が家宝だ。だから安心せよ。それに俺ももう大人の一員だ、つまり虎昌の同僚という訳だからいつまでも過保護でどうする」
「それはそうですが……」
俺が諭しても虎昌は一向に考えを変えようとしない。
後ろで俺のお目付け役が溜息を吐いた。……俺も溜息を吐きたい……。誰かこいつにも城代職に縛り付けておくよう見張りを付けておけ!
―――― 二日後、虎昌の徘徊を聞きつけた上原城の家臣が虎昌を連れ戻しに来てくれた ――――