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さかさまになった男

 ある日突然“さかさま”になった男がいた。

 男が言うには、「道を歩いていたら急に重力が反転したみたいだった。足の方が軽くなって、頭の方がこれ以上なく重く感じた」との事だ。

 重力が反転したみたいだった、とは言うが、そんな時、本などによくあるシチュエーションのように、空へ『落ちていく』ことはなかった。ただ、足が頭の位置に、頭が足の位置になった。

 突然さかさまになった男に道行く人はもちろん驚いていたが、彼はそんなざわめきよりももっと重大な問題を叫んだ。

「頭が痛い! 助けてくれ!」

 さかさまになった男は、今や頭で彼の全体重を支えていた。

 足をバタバタ動かしても全く地面につくことはなく、ただその振動で頭がゴリゴリとこすれるだけだ。

 人々は最初、遠巻きに男を見ていたが、やがてバタバタと足を動かす男の顔が赤く、そして紫になってくると、さすがに手を貸す者があらわれた。壮年の眼鏡をかけた男性と、背の高い若者が、なんとか男の足を地面に下ろそうとした。その間に何人かは救急車と、そして警察を呼んだ。他の者は「大丈夫かな」と言いつつ無遠慮に見つめ、「どうしたんですか」と言いつつ歩き去り、あるいはただただ、さかさまになった男を撮影した。

 結局警察が来て救急車が来るまで、男の足は二人によって地面に押さえつけられていた。

 そうしておかないと、足が頭になろうとするからだ。


 病院に行き、医者が男を診たが、「何も異常はありません」と診断結果を男に告げた。

「いや、さかさまになってるんですから何も異常はないという事はないんですが、しかしこれは、えーとですね、医学的な観点から申しますと異常は見つからないんですよ」

「頭が痛いんですが」

「ああそれはそうですよ、急にさかさまになったんですから血液がそっちに集中してますし、それにあなた暴れたでしょう、じきに治りますよ」

「あの、さかさまは?」

 ベッドにベルトで括りつけられている男を見て、医者は気の毒そうに、しかしお手上げだという顔で言った。

「原因が分かりませんから……このままの可能性が高いかと……。その、まぁ、じきに慣れますよ」


 もはやこれは医学の領分ではない、と、病院側は物理学者に協力を求めた。

 物理学者はこんな例は見た事がない、と、数学者に協力を求めた。

 数学者は生物学者に、生物学者は量子力学者に、量子力学者は精神科医に協力を求め、結局さかさまの男は病院に通う事になった。

 そうしている間にも、男のもとには記者がおしかけ、報道がされ、特集が組まれ、どこぞの何とかの権威だという人がコメントをし、そしてやがて風化していった。

 みんな、彼の話題に飽きてしまったのだ。


 周りが盛り上がろうと飽きようと、さかさまの男はさかさまのままだったので彼はさかさまのままで生活し、そして段々その事に慣れていった。

 たまに好奇の目で見られはするが、周りの反応はそれぐらいだった。

 彼の事はみんなが何かしらの情報媒体で見知っており、もうみんなにとっての知人といってもいいくらいで、取り立てて騒ぐ者はいなかったのだ。

 けれど一つ、とても困ることがあった。

 男はさかさまの状態なので、ポケットや鞄に入れた物を落としてしまうのだ。

 そんな彼の為に様々な器具が作られたけれど、それは日常的に使うにはとても面倒なもので、結局さかさまの男は今まで通りに生活することにした。


 ペン、名刺、ハンカチ、鞄、あらゆる物を落とした。

 毎日何かを落とすため、さかさまの男はそれに慣れていった。

 しかしあるものだけは、絶対に落とさないようにしていた。


 さかさま状態になり、報道され、議論され、そうして好奇の目さえもなくなってから暫くして、男はある日道を歩いていた人に声を掛けられた。

「ああ、あなたがあの“さかさまの男”でしょう?」

 そんな風に“さかさま”について声を掛けられたのは、本当に久しぶりだった彼は、その相手の反応を懐かしく思いながらこたえた。

「ええ、そうです」

「いやあ、本当にさかさまなんですね。大変じゃないですか?」

 さかさまの男は特に考えずにこたえた。

「もう慣れましたよ」


 男がそう言った瞬間、何かがひらりと地面に落ちた。

 するとふいにさかさまの男の頭が地面から離れ、彼の足はどんどん空へ近づき、そして彼はそのまま『空に落ちていった』。


 地面に落ちたものは、さかさまの男が、絶対に落とさないようにしていたものだった。

 誰かがそれを拾う。それは一枚の写真だった。

 彼が“さかさま”になった時、遠巻きに見ていた者の、その中の一人がただただ撮影していた、顔が紫色になっているさかさまの男の写真だった。

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