2章 その3
その日は妃織と二人で下校した。
「ところで妃織、あんな事言って何か秘策でもあるのかい」
「いいえ、実は何も考えてません」
「えっ、凄く自信ありげに宣言してたけど」
「気がついたら言い切ってました。けれど何も考えてません。わたしって馬鹿ですよね。お馬鹿さんよね~」
少し俯きながら妃織が続ける。
「でも、ああ言うしかないって思ったんです。言ったからには何とかします」
「お前はホント無鉄砲だな」
「はい。無鉄砲です。鉄砲は持ちません。でも四十六㎝砲を三基搭載していますから破壊力では世界最強です」
「君は戦艦大和か!」
ふふふっ、と軽やかに笑う妃織。能転気さが鮮やかすぎてこれっぽっちも憎めない。
「ところでお兄ちゃん、わたし駅前の本屋さんに寄って帰りたいです。構いませんか」
「勿論。僕も一緒に寄ろうかな」
「嬉しいです。一緒に行きましょ」
二人で立ち寄った駅前の本屋はこの付近では一番品揃えが充実している店だ。妃織は何やら古代文明だの歴史書だのの本を眺めては小一時間ほど唸っていた。きっと何か解決策のヒントを見つけようとしているのだろう。そう言う僕も今日ばかりはお決まりの漫画や雑誌のコーナーを尻目に古代遺跡の本を立ち読みしていた。ちょっとだけ、ほんの5分だけ、妃織の目を気にしながら麗しい写真集を見ていた以外は。
一時間後、本屋を出ると雨が降っていた。
そう言えば予報によると天気は下り坂で夜には雨が降ると言っていた。でも僕は傘を持っていない。持ち歩くのは好きではないし、少々濡れても気にしない性分だから予報が雨でも持たずに出ることがしばしばなのだ。
妃織が自分の傘を僕の頭上に差し出してくる。
「今日予報知ってましたよね。どうしてお兄ちゃんはいつも傘を持っていかないんですか?」
「忘れると嫌だし」
「それじゃ傘の意味がありませんよ。失敗を恐れる前に失敗を覚悟しても前進する勇気が必要です」
その口調は決して怒ったり責め立てたりする感じではなく、まるで幼子の可愛い悪戯をたしなめるような軽やかな響きだった。
ひとつの傘の下、雨の中をふたりで歩く。
「ところでお兄ちゃん。白銀さんと金条寺さんのこと、少し教えてくれませんか。趣味とか特技とか好きな食べ物とか、何でもいいですから」
「金条寺さんと白銀さんのこと? スリーサイズは知らないよ」
「そんなことは聞いてません! 真面目に答えてください」
妃織が何故そんな事を聞いて来るのかは分からないが僕は知っていることを彼女に伝えた。趣味や好きな食べ物など自己紹介で言っていた程度の、通り一遍な内容ではあるが。
「そうですか。白銀さんは和菓子が好きで食べることが趣味、金条寺さんはお寿司が好きで趣味は和歌と日本舞踊と大相撲鑑賞……ですか」
そう言うと妃織はパズルの解答を閃いたかのように晴れやかに微笑むと、すっと雨を降らせる天を見上げた。
「わたし、お兄ちゃんと一緒だと、いつもいい考えが浮かぶようです」
「何か考えついたのか」
「ええ。多分これで大丈夫です。きっとうまくいきますよ」
「さすがは妃織だね」
「いえ、お兄ちゃんのお陰ですよ。あ、ちょっとだけ傘を持っててくれませんか」
「うん」
僕が傘を受け取ると妃織はそれまで掛けていた黒縁の眼鏡を外し、鞄から緑色のチューリップの髪留めを取り出して前髪を右耳の上で纏めた。
「しかし、これって相合傘みたい、ですよね。お兄ちゃん」
僕が持つ傘の柄に手を伸ばして、無言で傘を受け取る妃織。
「みたい、じゃなくってそのものズバリじゃないかな。僕は濡れても平気だから傘は妃織が使ってくれ」
「ダメです。濡れて風邪でもひいたらどうするんです。それともわたしと相合傘は嫌ですか?」
妃織がわざとらしく拗ねたような表情を作り、上目遣いで見上げてくる。
「別に嫌じゃないけど。それに僕らは兄妹だから相合傘じゃなくって単なる相傘だしね」
「お兄ちゃんがシスコンでわたしがブラコンだったら兄妹でも相合傘は成立すると思いますよ」
「いや、ないない。そんなのアニメとか漫画の世界だけだよ。血の繋がった実の妹に欲情とかしちゃダメだろう、色んな意味で」
「お兄ちゃんは浅野先輩みたいに真面目でお堅いんですね。知ってましたけど」
妃織は前を向いたまま語り続ける。
「じゃあ、もしもわたしが突然極度のブラコンになって毎晩お兄ちゃんの布団の中に潜んで待ち構えていたらどうします? お兄ちゃんも世界一のシスコンになって毎晩わたしの布団の中で待ち構えてくれますか?」
「お互い相手の布団で待っていたら結局何も起きないよね」
「いいんです。気持ちの問題ですから。物理的に体が合体するかどうかより、お互い同じ気持ちで愛し合えるかどうかが重要なんです」
いや妃織。それは単なるバカだと思うぞ。
「でも、きっとお兄ちゃんは、根がとっても真面目だから常識や世間体と言う鉄仮面を脱ぎ去らないのでしょうね」
「何を言ってるんだい。兄妹じゃあ法的にも結婚出来ないじゃないか」
「そうですね、結婚は出来ませんよね。でも真実の愛が成立しないと言う根拠もありませんよね」
「愛は障害が多い方が燃え上がるとか、禁断の愛の方が心ときめくとか?」
「いえちょっと違います。好きになるのに理由や条件は関係ないって事です。あ、ごめんなさい。また変なこと力説しちゃいましたね」
同じ傘の下、妃織が上目遣いでチラリと僕を見る。
目の前に三角公園が見えてきた。我が家はもうすぐだ。
本当はこうして妃織と相傘で歩いていると胸が灼ける奇妙な感覚を覚えてくる。
しかし僕は努めて平静に歩を進めた。
妹と一緒に、誰も待っていない我が家まで。