3章 その12
十年前。
僕が小学校に入る直前のことだ
僕たち兄妹は親父の実家近くにある小高い山で遊んでいた。
「あっ、お兄ちゃん、綺麗な白いお花」
妃織が花の方に駆け寄る。
「妃織、そっちは崖だから行っちゃダメだよ」
「知ってるよ、お兄ちゃん。気をつけるから大丈夫よ」
何度も来た場所だった。確かにそっちは崖だと妃織も知っていたのだろう。しかしその白い花の横は崖が手前に切れ込んでいて、しかも周囲は草に隠れていた。
「あっ!」
突然足許が滑り崖に落ちる妃織。
「妃織っ!」
僕は全力で駆け寄った。
幸い妃織は自分の身長くらい下にあった狭い足場で止まっていた。
僕は妃織の手を握り必死で引き上げようとした。が、子供の力では引き上げることが出来ない。周囲の草木も僕の動きの邪魔をした。
「お兄ちゃん!」
妃織は片手を僕の手に、片手で崖の縁に手を掛け必死に登ろうとする。しかし、その足許は少しずつ崩れているのか妃織の表情は恐怖と焦りの色でいっぱいだった。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
目を見開き助けを求める妃織。でも僕の力では彼女を引き上げきれない。
ふと見ると妃織が落ちている切れ込みのすぐ横に、僕の背丈の半分くらい下に足許になる場所を発見した。
「もう少し頑張れ妃織! ちょっとだけ手を離すからこの枝を握って!」
僕は急いで妃織の腰のあたりにある崖の足許に降りると、しゃがんで彼女の躰を抱きしめた。そしてそのまま力一杯上へ持ち上げる。
「あっ、はっ……たっ…… 助かった…… ありがとうお兄ちゃん……」
と、その声を聞いたと同時だった。僕の足許が崩れ落ちる。
「うわっ…………」
「お兄ちゃ~ん!」
命に別状はなかったが骨折していた僕は生まれて初めて救急車と言うものに乗せられた。
***
鼻血を出し、上半身をさらけ出した間抜けな姿の僕の目の前で、その時の僕の古傷を凝視する妃織。
やがて彼女の端正な顔が一瞬歪んだかと思うとその大きな瞳からみるみる涙が溢れ始めた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい!」
妃織の瞳から溢れる涙は綺麗な大粒の滴となりはらはらと幾つも幾つも落ちていく。
「お兄ちゃん、ごめんなさい。わたし、わたし」
溢れる涙をそのままに拭おうともしない妃織。
「許してください! お兄ちゃん許してください!」
何かを堪えながら、それでも妃織の涙は溢れ続ける。
「……」
僕はゆっくりと妃織の肩に右手をおいた。
「今更何を言っているんだい、こんな古傷もう痛くとも何ともないんだよ」
「違います。妃織はまた、きっとまた、お兄ちゃんを苦しめてしまいました!」
「…………」
「あの時も、お兄ちゃんはわたしのことだけ考えてくれて。わたしが悪いのにわたしの身代わりになってくれて。わたしの命の恩人なのに。それなのに……」
「大げさだな。あの崖はそんなに高くなかったんだ。もし妃織が落ちていたとしても死にはしない。僕がドジだっただけだよ」
「違います。そうじゃないんです。お兄ちゃんはいつも優しくて、いつもわたしのことだけを考えくれて。今日だってきっと、お兄ちゃんはわたしのことだけを考えてくれたのに……」
「……」
「でも、そんなお兄ちゃんを、わたしは、わたしの我が儘で、我が儘で……」
「……そんなことはないよ。何だか知らないけど、妃織はいつものように一生懸命に頑張っていたんじゃないかな? そんな頑張り屋の妃織はとっても素敵だよ」
「うわあっ!」
妃織は堪えることをやめたのか、遂に声を上げて泣き始めた。
「妃織……」
妃織はその細い腕を僕の体に回して泣き続けた。
十分ほど泣き続けたのだろうか。妃織は僕から少し離れるとその大きな瞳の涙を拭いながら口を開いた。
「ご……ごめんなさい。わたし……お兄ちゃんとの……約束、破って、いますね」
「ああ、あのことか。いや、妃織は僕との約束をいつも立派に守ってくれているよ」
妃織の言う『約束』。
それは別に約束でも何でもない。
きっと彼女が言っているのは手術後の病室での話。
術後、僕の傍らで、目を真っ赤にして泣き続ける妃織に僕が言った言葉。
妃織はまだ顔を伏せたまま、しかし少しだけ表情を和ませて言葉を紡ぎ出す。
「お兄ちゃんは言いましたよね。僕は妃織の泣いた顔を見たくて助けたんじゃない。妃織の笑顔が見たいからなんだ。って」
「ああ、そうだな。そんなことも言ったかな。けどね。もし手術後に妃織がヘラヘラ笑いながら病室に現れていたら、多分ぶん殴っていたと思うけどね」
「ふふっ。それもそうですね」
やがて、ゆっくりと僕から離れる妃織。
「お兄ちゃん、今日はごめんなさい……」
「妃織は悪いことなんか何もしてないよ」
「いいえ、今日は、ごめんなさい……」
「……」
「でも、妃織の作戦は全て失敗でしたね」
チラリと僕を見る妃織。
「全て失敗? 朝の僕の部屋の事も……」
「朝のお兄ちゃんのお部屋? わたしの必死のチャイナドレス姿をお兄ちゃんは一言も褒めてくれなかったですね。わたしとっても恥ずかしかったのに」
「じゃあ、気づいてなかったんだ」
「気づく…… 何を?」
「いや、何でもない、何でもない」
きょとん顔の妃織はやがてゆっくり微笑んだ。
「まあ、いいです。わたしはお兄ちゃんと、こんなに仲良しで、嬉しい……です……」
その泣き笑いのような彼女の瞳から最後の一滴の涙が滴り落ちた。
3章 完




