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2章 その5

「いらっしゃいませ~」


 古びた木のドアを引き開けるとレジに立っていた若い女性の声が出迎えてくれた。


「ふたりだけど」

「はい、お好きな席へどうぞ」


 四人掛けのテーブル席が五つに八人ほど座れるカウンターがあるだけの小さな洋食屋。

 カウンターの中には細長く重厚な鉄板が卵と肉を載せて、じゅうじゅうと焼ける音と匂いが僕の空腹を刺激する。

 今日は妃織の提案で駅前にあるこの店で晩ご飯を食べることにした。

 夕食時には少し早いのかお客さんはまばらで、僕らは窓際のテーブル席に座った。


「いらっしゃい」

 白い前掛けをした四十歳くらいの少しがっしりとした男性がメニューを脇に持ちテーブルにお冷やを並べてくれる。


「こんばんは。久しぶりにご馳走になりにきました」

「おっ、直弥君じゃないか。こちらは、妃織ちゃん?」

「あっ、こんばんは。ご馳走なになります」

 妃織は慌てて眼鏡を外し前髪を掻き上げる。

「あれっ。眼鏡で分からなかったよ妃織ちゃん。普段は眼鏡掛けてるの」

「はい、一年くらい前から、です」

「ふうん。でもその眼鏡はちょっと残念だ。折角の別嬪さんが台無しだ」


 歯に衣を着せない事を言いつつニヤリと笑うこの男性がこの店のマスターだ。同時に料理長でもある。この店は父や母に連れられてよく来ていた店だ。二年ほど前までは月に一度は来ていただろう。料理は間違いなく美味しいし値段もそんなに高くない。僕は密かにこの駅前一帯で一番美味しいお店はこの店だと思っている。


「それじゃあ注文決まったら呼んでくれな」

 マスターがメニューを置いてカウンターの中へ戻っていく。僕らは各々にメニューを広げた。


「今日のAセットはポークカツレツでBセットはハンバーグとエビフライか……。僕はAセットにするよ」

「じゃあ私はBセットで」

「妃織はこの店のカツレツ大好物だったんじゃないか?」

「大丈夫です。お兄ちゃんと交換して食べますから」

「また勝手に決めてるな。まあその方が色々楽しめるからいいけど」

「はい。そっちの方が楽しいですよね」

 前髪を纏めながら妃織が愉快そうにこちらを見つめる。


「マスター、AセットとBセットひとつずつ」

「はいよっ」

 人の良さそうなマスターからの返事を聞くと、僕は頬杖をついて妃織に尋ねた。

「でも倹約家の妃織が外食に誘うなんて珍しいね」

「人を守銭奴みたいに言わないでください」

 少し心外そうにそう言うと妃織はお冷やに口を付けた。

「ん…… ここのお冷やは軽くレモンの味がして美味しいですね」

「そうだね。昔からだよね」


「実は、ですね。今日考古学部でお話しした内容に関係するんですけど」

「今日の話って卑弥呼喫茶の話か」

「そうです。お兄ちゃん知ってますか、このお店のお隣が何のお店か」

「何のお店って、店に入る前に見たから分かるよ。メイド喫茶だろ」

「そうです。メイド喫茶です。今日考古学部でお話ししたメイド喫茶ってこのお隣なんです」

「そうか。じゃあ、うちにあるメイド服ってこの隣の店のものなのか」

「ええ、そうです。ところでお兄ちゃんはお隣に入ったことがありますか?」

「ないよ。断じてない。絶対ない。神に誓ってない」

「何度も否定するところが少し怪しいですが、まあいいです。ではここで問題です。お隣のメイド喫茶の店長は誰でしょう?」

「誰でしょうって行ったことないから知らないよ」

「じゃあ、ヒントそのいち。お兄ちゃんが知ってる人です」

「僕が知っている?」

「はい、知らないとは言わせません」


 知ってる人でこの店の隣の店の店長となると、普通に考えると、ある推論が成立する。

「……もしかして……ここのマスターとか」

「さすがお兄ちゃん、大正解です。そうなんです。ここのマスターがお隣も経営してるんですよ」

「と言うことは……」

「はい、マスターにメイド喫茶のお誘いをうけたことあるんですよ。多分、冗談だったと思いますけど」

 嬉しそうに笑う妃織。


「じゃあ家にあるメイド服はマスターに頼んで買ったの?」

「ん~、それはちょっと違います。バラされる前に白状しますね。あっ、絶対怒っちゃ嫌ですよ」

「わかった。怒らないよ」

「絶対?」

「多分」

「じゃあ、この話は隠し通します」

「分かったよ。絶対怒らない」

「さすがはお兄ちゃん、物分かりがいいです。実は…… 先週土曜日、帰りが遅かったでしょう」

「ああ、妃織が友達の阿笠あがささんと出かけるって言ってた日だね」


 阿笠さんのフルネームは阿笠くりす。妃織の幼なじみで今でも仲がいい友達だ。

 僕は勝手にミステリー小説が趣味かと思っていたが、妃織の話によると彼女はBLもの命で『BLの女王』と呼ばれているそうだ。BLとは勿論ボーイズラブのこと。僕には全く縁のない分野だ。


「はい、実はあの日一緒にお昼をここで食べたんですけど、マスターに頼まれたんです」

「もしかして、まさか……」

「はい、そのまさかです。メイド喫茶のバイトの娘が三人も同時に来れなくなって店が回らないらしくって。それで一日だけって事で、くりっちと一緒に店を手伝ったんです。結構楽しかったですよ」

「お前なあ……」

「怒らない約束でしたよね」

「……分かってる」

「で、マスターがその時使った衣装、と言うか制服を持って帰っていいって。いつでもバイトに来てくれてOKだからって」

「それでメイド服が家にあった訳か……」

「あの、お兄ちゃん。怒りましたか……」

「いや。妃織はその時のバイト代があるから外食しようって言い出したんだろう」

「結構図星です」

「じゃあ、怒るどころか感謝しないとね。ごちそうさま」

「はい」

 妃織は少し安心したように小さく息を吐いた。


「はい、お待ちどおさま。Aセットは直弥君だったね」

 マスターが料理を運んできた。

「本当に仲がいい兄妹だよね」

 マスターは笑いながら僕の前にポークカツレツとライスを並べる。

「しかも妃織ちゃんはお母さんそっくりで直弥君はお父さんそっくりときたもんだ」

「そんなに似てますか?」

「そりゃもう。妃織ちゃんのその笑い方なんて亡くなったお母さんそのものだ」

 妃織は嬉しそうに、はにかんだ。


「それはそうと……」

 マスターがハンバーグとエビフライを置きながらチラッと妃織を見る。

「あっ、先週の話なら大丈夫ですよ。兄も知ってますから」

「そうかいそうかい。そりゃよかった。でね妃織ちゃん、大評判だったよ。あの後妃織ちゃんの次のシフトは何時かって聞いて来るお客さんが多くてね。一回だけの臨時メイドだって言うとみんな残念がってさ」

「マスター、まさか妃織が過剰サービスしてたとか……」

「ないない。大丈夫だよ直弥君。うちはそんな店じゃないから。妃織ちゃんは可愛いし機転が利くし話は面白いしですごぶる評判よかったんだよ。本当はバイトに来て欲しいんだけど、まあ勉強とか家の仕事とか大変だよね。じゃ、ゆっくり食べていってね」


 他のお客さんが待っているらしいマスターは慌ててカウンターに戻っていった。

「マスターってお世辞が上手ですね。さあご飯いただきましょう、お兄ちゃん」

 そう言うと美味しそうにハンバーグを頬張る妃織。僕は少し複雑な気持ちでフォークを手に取った。



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