第八話 『再会』8
――厄日だ。
錯覚でもなんでもなく、頭が痛む。胃の辺りにも、キリキリと絞られるような感覚があるような気さえする。
家主である自分でも聞き覚えのない妙な効果音と共に、ホームコンピューターからの信号でオーバーライドされた視界には、アヅマ邸玄関――観葉植物の置かれた広い廊下で、ピョンピョンと跳ねる赤いものが映っていた。
このタイミングで、なぜよりによってこいつが……悪態の一つもつきたくなるアヅマだったが、状況は切羽詰っている。
この招かれざる訪問者はしつこい。居留守を使っても無駄だろう。
「と、なれば、だ」
「アヅマ?」
困惑して立ち尽くすニーナに説明する時間も惜しみ、玄関周りのセキュリティを最大強度で設定していく。
――これで時間は稼げるはずだ。
念のための防護措置ではあるが、返事がないとなれば、あいつの事だ、強行突破を図りかねない。出来るなら物理的なバリケードすら設置したいところではあったが、それでは時間がかかりすぎる。
ここはひとまず電子的な防壁で満足するべきところだろう。
ひとつ頷いて、ニーナへと向き直る。
彼女はといえば、突然の異音、さきほどまで情けない姿を見せていたアヅマの豹変に、ただおろおろと戸惑うばかり――でもなく。
「アヅマ、指示を」
平静を取り戻し、すぐに動けるよう臨戦態勢で待機していた。
この辺りは、さすがだとアヅマも思う。いついかなる時でも、非常の事態に対して切り替えが早い。
それは彼自身にも言えることだったが――そうした賛辞を首肯に込め、事態に対処するべく動き出す。
「緊急事態だ。事は一刻を争う。ニーナ、君はまず服を着るんだ」
そうして下された指示に、ニーナはきょとんとした顔で応じた。
「……服?」
いまアヅマは、緊急事態だと言った。一刻を争うとも。であるのに、服を着ろ――正確には着替えろと言う。
そんな悠長なことを言っている場合じゃないだろう。
――どこか具合でも悪いのか?
思い返せば、アヅマは退院して間もない、言わば病み上がりの身である。さきほども顔をしかめながら額に手を当てていたし、いまも――本人は気づいていなさそうだが――胃の辺りをさすっている。
たかが体調不良で判断を誤るアヅマとも思えなかったが、火急の事態において突拍子もない――少なくとも自分はそう感じた――指示を下す合理的な理由に、ニーナは思い当たらなかった。
ニーナの不審にアヅマも気づいたのだろう。察しの悪い彼女に対して、焦りからくる苛立ちがふつと湧き上がる。
が、自覚のない人間からしてみれば、確かに自分の指示は適当なものではなかったのだろう。臨戦態勢になったニーナは、自身の格好を意識の内から追いやっている。彼女はそういう人間であり、そうと知っていながら危機感を煽った自分の判断が下策だっただけだ。
「いいから、ニーナ。この場合、君の格好が一番の問題なん――」
気を取り直して足りない言葉を付け足そうとしたアヅマだったが、その言葉は最後まで続かなかった。
ピピッ
玄関の方から、かすかな電子音が響いてきた。
慌ててセキュリティに意識を向けると、強固に設定されていたものが、すべてアンロックされていた。
――いくらなんでも早すぎる!
一瞬の自失に陥るアヅマだったが、続いてドタドタという足音がリビングへ向けて急接近してくるのに気づき、慌てて我に返る。
「くっ」
せめて『この』ニーナは隠そうと、悪あがきにすぎないとはわかっていても彼女へ飛び掛るアヅマを、
「アヅマっ」
いまだ『勘違い』したままのニーナはするりと躱し、無法な闖入者からアヅマをかばう形で、その前へと立ちふさがる。
そして。
「せんぱーいっ!」
赤い弾丸が、リビングへと踊りこんできた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ひどいじゃないですかせんぱーいっ、このあたしを締め出そうだなんてどういうつも……およ?」
騒々しく騒ぎながら現れたのは、少女だった。
宇宙軍士官用の開襟シャツを身にまとい、燃えるような赤い髪を頭の両側、高い位置でくくっている。華奢と言って差し支えの無い細い体に幼さの残る顔立ちは、明るい――もっと言えば落ち着きのない雰囲気と相まって、十代前半にも見える。
その少女は目的の人物――アヅマを探してきょろきょろと室内を見まわしていたが見付けられず、やがて正面に立ち尽くすニーナへと顔を向けた。
きょとんと首をかしげた少女と、驚愕を顔に貼りつけ固まっているニーナが、互いに見つめ合う。
しばし無言の間が流れ、そして。
「せんぱいが女になった!?」
少女が素っ頓狂な声をあげた。
「「ねーよ!」」
奇声にフリーズから復帰を果たしたニーナと、ソファの陰から身を起こした――勢い余って転んでいたのだ――アヅマのツッコミが、綺麗にハモる。
「あ、せんぱいはっけーん」
アヅマの姿を認めた少女が、「やっほー」と室内にもかかわらず伸び上がって大きく手を振る。そして、げんなりしているアヅマと、やや引き気味のニーナとをきょろきょろと見比べて、
「ところでせんぱい」
「……なんだ」
爆弾を投下した。
「おたのしみの邪魔しちゃいました?」
「……言うと思った」
しかし、アヅマにとって想定の範囲に収まる攻撃だった。ゆえに動揺することもなく、呆れの多分に混じったため息を吐き出すだけだ。
だが、ニーナが大人しい。
気になってそちらを見やってみると、彼女は顔を真っ赤にして閉口していた。 いや、なにやらもごもごと言ってはいるのだが、言葉になっていない。
――ああ、そういう方面に免疫なかったのね。
今日一日で随分と大胆なところを見せたニーナではあったが、それはただ単に無防備すぎたということなのだろう。ちょっと心配になるくらいに。その実は男女の事には不慣れな、いっそ、うぶと言ってもいいくらいの少女だった。
これが他人事であったなら、そんな彼女をほっこりと見守っているのも良かったが……だが、ここでそういうリアクションはまずい。非常にまずい。
アヅマの危惧を裏づけるかのように、赤髪の少女が、にやりと口の端をゆがめる。そして、どこか猫科の動物を思わせるその顔をアヅマへ向けると、にやぁりと、背筋に悪寒が走るくらいの満面の笑みを浮かべた。
「なーんだー、そういうことなら言ってくれればよかったのにー」
「……違うから。そういうことじゃないから」
第一、もし仮に万が一そういうことだったとしても、それで言って聞くような人間ならここまで警戒はしない。
いまもアヅマの否定の言葉を聞き流して、いっそう笑みを深くする少女の姿に、アヅマは悪魔の尻尾を幻視した。
「まぁーたまたぁー」
もはやにやにやが止まらないといった様子の少女が、ニーナへとことこと歩み寄りながら、更なる爆弾を投下する。
「そういうことならあれですね、あたしも混ざるよー!」
しゅたっ、と元気よく挙手しながらの発言に、圧倒されたニーナは「ま、まざっ!?」などと目を白黒させている。少女が何を言っているのかわかってないのか、理解した上で理解したくないのか……この際どちらでもいい。
――とにかく、なんとかこの場を鎮めなければ。
頭痛が加速していくのを意識の隅に追いやりつつ、アヅマは少女へ向かって口を開く。
「落ち着け、アンナ・カーリン。彼女はニーナだ」
その言に、アンナと呼ばれた少女が一瞬動きを止めた。
そして、素早い動きでしゅばっとニーナの目の前まで走り寄ると、じろじろと遠慮のない――最初から遠慮などとは無縁の少女だったが――視線で、ニーナの顔や銀の髪などを観察する。
「ひ、久しぶりだね、アンナ。士官学校以来かな」
無言でかつ近距離からじろじろと見られるのは居心地が悪いのだろう。はっきりと一歩後ずさりながら発せられた、アヅマの言を肯定する言葉に、アンナの目が見開かれる。
「え、うそ、あのニーナちゃん!?」
「あ、ああ。たぶんその、ニーナ・アレクセエヴナ・トルスタヤだ」
「……えーっ!?」
びっくり仰天、を全身で表現するアンナに、アヅマは内心で共感を覚えた。
七年前のニーナと現在のニーナとでは、まるで別人のようである。成長期を控えた一〇代にとっての七年は、それほどまでに長いのだ。
なんてことをしみじみと考えていると、
「きゃーっ!」
感極まったのかアンナがニーナに飛びつき、二人もつれ合って床に倒れこんだ。