第一六話 『試験艦隊』7
ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイもシャツのボタンもゆるめて、執務用のシートにどっかりと腰を下ろす。
自動で形態を変えるクッションに、まるで優しく包み込まれるような安らぎを感じつつ、アヅマは深く息を吐いた。
二宙戦に着任するまでは勤務終了と同時にさっさと自室へ引っ込んでいたアヅマだったが、ここのところ、執務を終えたあとはこうしてゆったりするのが日課のようになっている。
つい先日まではやるべきこと、考える事の多さにぐったりしていただけなのだが、ここ数日はそうでもなかった。
そうする理由がある。
「入るよ、アヅマ」
気軽な挨拶と共に、執務室へとニーナが入ってくる。ここ数日、アヅマの執務終了とほぼ同時、計ったようなタイミングで訪ねてきていたのだ。
「おつかれ、ニーナ」
軽く上体を起こしたアヅマが適当に挨拶を返す。ニーナは片手に持ったボトルを軽く掲げてみせると、一本をアヅマへと渡して慣れた様子でシートを引っ張り出した。
ニーナは毎回、こうして差し入れの飲料を持ってくる。どうやら料理長の試作品のテスターをしているようで、持ってくるのは毎回毎回違うドリンクだ。差し入れというよりも、ほとんど実験台である。ではあるが、これはこれでちょっとしたイベントのようでもあり、気分転換にはいいかな、と思うアヅマであった。
「今日はどんなものだい?」
問う声も期待が半分、といった程度の気楽なものだ。
「今日は栄養ドリンクだね。料理長の自信作みたいで、『これを『川内汁』と名付けて売り出そう!』って息巻いてた。なんでも、これ一本で三日三晩戦い続けられるって」
「うん、すぐお茶淹れるから置いておこうか」
気分転換の度を超えている。平時にそんなものを飲ませて、いったいなにをさせようというのか。ニーナもニーナで、毒されてやしないか。と、妙な危機感に襲われるアヅマであったが、
「ううん……いいと思うんだけどなぁ、栄養ドリンク」
――毒されたのではなく、変わっていないだけか。
ぼやきつつ首をひねるニーナの姿に、懐かしさが半分。あとの半分、残念に思う気持ちはさっと振り切って、アヅマはシートから立ち上がった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
カップから立ち上る香りを、湯気ごと胸いっぱいに吸い込む。そして一口含むと、アヅマはぽつりと呟いた。
「まあまあ、かな」
闇色とでも言うべきか、装甲板の外にはるか広がる宇宙空間のような、黒々とした液体。湯気をたてるブラックコーヒーを脇に置くと、アヅマは満足のため息をつく。先日までの緊張もどこへやら、今は疲れこそ残っているものの、リラックスしている。
ニーナはというと、こちらも穏やかな表情で、熱々のカップを両手で包むようにして持っていた。
「それにしても、アヅマ、驚いたよ。まさかアンナ一人で、ここまで変わるとはね」
二人がともに苦悩から解放されたような顔をしているのは、問題が解決した、少なくとも順調に消化しつつあるからだ。
アンナを香奈の下につけるというアヅマの策は、大当たりだった。
「まあ、アンナはそれだけが取り得だからね。運動神経も人格も壊滅的なかわりに、情報処理に関しては有数の能力を持っている。代替天才ってやつかな?」
「あはは、妙な説得力があるね」
功労者に対して二人ともひどいことを言っているが、私生活における被害者としての仲間意識がそうさせるのだろうか。
「実を言うと、最初は香奈の負担が多少は減るかな、ってくらいであまり期待してなかったんだけどね」
手に持ったコーヒーへちらりと一瞥を投げかけながら、ニーナが独白する。
「でも、期待以上だった。データリンクを維持しながら片手間で引き波の計算をするなんて、ちょっと考えられないな」
引き波とは、ざっくり言えば船が航行する際に出来る波のことだ。宇宙では推進器の放つエネルギーのことを指す。
宇宙船は後部からエネルギーを噴射した反動で進む。それが最大戦速での加速となれば必然、撒き散らすエネルギー量も莫大なものになる。
艦隊としての大きな課題のひとつに、その引き波があった。
「突撃をかけるにあたって、一番安全――被弾面積を減らせるのは距離をつめた単縦陣。でも距離をつめれば当然、引き波の影響が無視出来なくなる」
初日の演習――『川内』と『電』との衝突を思い出して、思わず苦い顔になるアヅマ。あれは極端な例だが、引き波が艦の挙動に与える影響を端的にあらわす事例とも言えた。
アヅマの様子に苦笑を浮かべて、ニーナが後を引き継ぐ。
「ただでさえエネルギー濃度の高いところへ最大戦速の引き波が想定外の渦を巻いてしまっては、速度を維持するのは難しい。逆に言えば、流れがわかってさえいれば対処も可能なんだ。それを艦隊分、正確に予測して計算してしまうんだから。アンナはすごいね」
「あれは量子コンピュータありきだけどね」
「それでも、だよ。どれだけ高性能な道具があっても、使いこなせなければね。それはすごいことさ」
手放しでほめているようなニーナだったが、その顔に一瞬、複雑そうな表情がかすかに過ぎる。それをアヅマは見咎めた。
「……やっぱり、浅田少佐との間に問題が?」
すぐさま思い当たったのは、人間関係だ。香奈からしてみれば、仕事を横から奪われた形である。それも自分が苦労していたものを、しゃしゃり出てきた奴があっさりと使いこなしているのだ。それはおもしろくないだろう。
それが起爆剤となり、士気の向上や更なるスキルアップへと繋がればいい。だが、それは楽観的な話だ。反発してギクシャクしたり、摩擦や軋轢を生み出す可能性もある。そうなれば士気にも連携にも差し支える、大問題だ。
だが、答えるニーナは実にあっけらかんとしたものだった。
「いや、問題はないよ。香奈もアンナも仕事はきっちりしてるし、それ以上に馬が合ったみたいでね。毎日二人で、効率化や運用の幅を広げようと試行錯誤しているよ」
問題がないどころか、その話が本当なら最上の結果だと言えよう。強いて問題点を挙げるとするならば、そのせいでアンナの副官としての任務に支障が出ていることくらいか。ここのところ、本来なら副官に任せるような些細な処理も、アヅマ自身が行うことがたびたびあった。
だがそれゆえに、アヅマは困惑した。ならば、先ほどのニーナの表情はなんだったのか、と。
「……ここのところ副官の仕事をさぼってると思ったら、そういうことだったのか」
仕事の増えた形になるアヅマを気遣ったのか、それとも本来の職務を怠慢する形になっているアンナに呆れてみせたのか。探りを入れてみるも、それは空振りに終わった。
「……しようのない奴だね」
ニーナはまるで今知ったとばかりに、深く嘆息してみせる。ますます怪訝な表情になるアヅマに、ニーナもまた疑問符を浮かべていた。
「……ニーナ。さっき一瞬、妙な顔をしてたと思うけど」
結局、正面から訊ねてみることにしたアヅマ。ニーナは「妙な顔って、それは女性に言う言葉じゃないよアヅマ」などと呆れてみせるが、その目が一瞬泳いだのをアヅマは見逃さなかった。
嘆息をこらえ、真剣な表情を浮かべる。
「ニーナ。私は司令官だ。艦隊の全将兵に対して責任を負っている。それが旗艦の指令所要員ともなればなおさらだ。なにか問題があるなら、話して欲しい」
真摯に語りかけるアヅマに、ニーナは言葉を詰まらせた。視線をそらし、かすかにうめき声を上げる。そして、しばらく悩むような素振りを見せたあと、大きく息を吐いた。
「すまない、アヅマ。心配させるつもりはなかった。本当に問題はないんだ。ただ……」
真面目な顔で再びアヅマに向き直ったニーナだったが、またすぐに言いよどんで視線を外してしまう。それほどに言いにくいことなのか、と、ニーナの言葉とは裏腹に警戒を強めるアヅマ。辛抱強く続く言葉を待っていると、やがて「……笑うなよ」と観念したように釘を刺してから、ニーナが口を開いた。
「香奈とは私が艦長職に就いてからすぐ知り合ってね。その頃から部下と上司だったけど、昔の私にも良くしてくれて。それからまあ、人間的な部分での師っていうか、年の近い姉というか……化粧なんかも香奈から教わったし……」
視線は結局逸らしたまま。段々と声が小さくなりながらもなんとか打ち明けるニーナだったが、ふと気づいて見上げると、アヅマはぽかんとした顔で固まっていた。
「……つまり、アンナに浅田少佐を取られたような気になった、と」
やがて、ぽつりと呟いたアヅマの顔がゆっくりと変化しだす。おだやかな、優しい微笑の形に。
「笑うなって言ったじゃないか!」
ニーナは真っ赤になって怒鳴りつけるも、「笑ってないさ」と返すアヅマは微笑みを絶やさない。いたたまれなくなり、アヅマから完全に顔を背けてしまう。
そして視線を巡らし、両手で持ったままのカップに気づくと、自棄のように一気に煽る。
「ッ!?」
闇よりもなお暗い、深炒り豆をふんだんに使ったブラックコーヒーの苦さに、ニーナは飛び上がって盛大に顔をしかめた。
見守るアヅマは変わらず、菩薩のような笑みを湛えている。
そして、ニーナが「もう寝る、おやすみ!」と逃げるように飛び出していった後。アヅマの脳裏に、短距離通信の着信を知らせる電子音が鳴り響いた。