年度末の金曜日
あれから2年以上の月日が過ぎましたが、ずっと書かなければいけないと思いながら書けずにいました。
連載という形で少しずつですが、自分が体験したことを書いていきたいと思います。記録として残しておかなければならないことだと自覚しているので。
平成23(2011)年3月11日。年度末の金曜日は以外にも静かに過ぎていた。
神奈川市役所福祉部介護事業課に異動して2年目の太田大紀は、たまりにたまった年度末期限の補助金支出業務にうんざりしつつ、文書管理システムの画面を紙を繰るように操作していた。紙決裁が電子決裁に代わって5年。書類が乱雑に積まれたデスクで、決裁簿がどこにいったか分からなくなる心配はなくなったが、未だにパソコンの画面上で起案するのには慣れない。パソコンの画面ではまるで実感がわかないのだ。やっと支出の起案が2つ出来上がったところでちょうど昼休みを告げる鐘が鳴った。何の曲だか分からないが相変わらず特徴的なチャイムだ。市庁舎すぐ近くに位置するJRの駅前広場にもこのチャイムは流れ、見ず知らずの通行人にさえ休息の時間を告げる。
朝、市庁舎地下のコンビニで買ってきておいたおにぎりをほおばりながら、大紀は妻の美沙希のことを考えていた。共働きでまだ子どもはいないのだが、昨夜急に体調を崩した美沙希は今日の仕事を休んで家で安静にしている。普段なら美沙希手作りの弁当を持参し、両隣の同僚、独身男性の二人をうらやましがらせていたが、この日の昼食は既製品に甘んじていた。味気ないがたまにはコンビニも美味い。
うっかりデスクに落とした海苔の小さな一片を、ウエットティッシュで大紀は拭った。海苔は素直に拭き取られず、水気を含んでデスクマットに張り付く。何度も何度も力づくでこすり、ようやく拭き取った。湿り気で黒を広げる海苔の残骸が、ウエットティッシュに無残に染み込んでいた。
介護指導課は課長1名、係長2名、係員10名の計13名。その内、女性職員の一人が旅行で休暇、男性職員の一人が午後から休みを取っていた。女性職員、加納さんという40代半ばの独身だが、仙台あたりに旅行に行っているそうだ。まだまだ東北は寒そうだなと思いつつ、大紀は美沙希にメールを打とうとして、ちょうどその時あの独特なチャイムが休憩の終わりを告げた。大紀はスマートフォンをデスクの端、法律や厚生労働省令をしまっている場所に斜めに立てかけ、午後の業務に取り掛かった。あと4時間と少しすれば今週も終わりだ。金曜日は定時退庁日だからすぐに帰ろう。美沙希はベッドで寝ているだろう。たまにはメシでも作ってやろうか。鍋がいいか。身体が温まるし栄養もある。
白菜。長ネギ。キノコ。豆腐。鶏肉。大紀の脳裏には食材がいくつも浮かび上がった。たまにしか料理をしない彼でも、鍋くらいは作れる。味付けは醤油がいいだろう。美沙希が好きなチゲは、香辛料の刺激が強すぎるから。
大紀は左手の腕時計に目をやった。気づけば二時四十分を過ぎていた。