『バーコードのない私をお持ち帰りして――深夜のコンビニ、年下男子と「汝、星のごとく」』
自動ドアが開くたび、街の湿った夜気が、きんと冷えた店内の空気に溶け込んでいく。レジのそばからは、温かいおでん出汁の匂いがふわりと漂っていた。
時計の針は午前零時を少し回っている。
文芸書フロアの平台を担当している私——二十三歳の志乃は、今夜のささやかな宴のために、近所のコンビニの棚の間を真剣な面持ちでうろうろと彷徨っていた。
理由はひとつ。
大好きな凪良ゆう先生の『汝、星のごとく』の映画化が、今朝のニュースで正式に発表されたからだ。
本屋大賞を受賞したときもボロボロ泣いたけれど、あの瀬戸内の光と影、櫂と暁海が互いの魂を削り合うようにして愛し抜いた物語が銀幕になるのだと思うと、一日中レジ打ちをしていても胸の奥がずっと熱かった。
今夜は一人でお祝いだ。
おめでたいからお赤飯のおにぎりを買って、香ばしい烏賊の七味焼きをつまんで、熱々のたこ焼きを頬張りながら、ちょっと高めの限定缶チューハイをあける——そう心に決めて売り場に駆け込んだのだ。
ところが。
「……ない」
おにぎりコーナーのお赤飯は跡形もなく売り切れ。
お惣菜の棚を二往復しても、烏賊の七味焼きの姿はない。
最後の頼みの綱だった冷凍食品のたこ焼きまで、綺麗さっぱり誰かのカゴに吸い込まれたあとだった。
カゴの底には、寂しげに転がる缶チューハイとプレミアムアイスがひとつ。
お腹はぺこぺこだし、狙っていたご馳走はひとつもゲットできないし、けれど胸の奥のお祝い気分だけは行き場を失ってふわふわと空回りしている。
半分やけっぱちのまま、私はレジへと向かった。
夜勤のシフトに入っていたのは、蓮くんだった。
近所の大学に通う二十歳。くしゃっとした黒髪に、少し伏し目がちな涼しい目元。制服の青いストライプシャツがよく似合う彼とは、深夜の静かな時間帯、品出しの手を止めて何分もお喋りの相手をしてもらう間柄だった。
私にとって、一日の終わりにほっと息をつける、ひそかな癒やしの時間。
けれど今夜の私は、映画化の興奮とお目当てをことごとく逃した脱力感で、完全にネジが何本か吹き飛んでいた。
レジ台に缶とアイスを置いた瞬間、悪戯心という名のやけくそが跳ねた。
私はカウンターに両手をちょこんと乗せ、少し上目遣いで、自分でも信じられない言葉を口走ってしまったのだ。
「お赤飯も、烏賊の七味焼きも、たこ焼きもなかったの。……だから、これ、お持ち帰りする」
私は、レジの向こうに立つ蓮くんを指差した。
言った瞬間、頭の奥でけたたましいサイレンが鳴り響いた。
(……待って、私、いま何言った!?)
二十三歳、社会人二年目。職場の書店では落ち着いた「棚担当」として通っているはずの私が、深夜の空腹とハイテンションに呑まれて、二十歳の男の子にとんでもないナンパ台詞を投下してしまった。お赤飯がないからって店員をお持ち帰りしようとする女がどこにいるのか。
血の気がサーッと引いて、頬が一気に沸騰していく。
蓮くんの手が、ぴたりと止まった。
彼はレジ袋の束からゆっくりと顔を上げ、黒い瞳でじっと私を見た。
一秒。二秒。三秒。
死ぬほど長い沈黙の後、蓮くんは表情を一切崩さず、手元のハンディスキャナーをくるりと自分の胸元に向けた。
ピッ、と赤い光が彼の青いストライプシャツをかすめる。
「……バーコードがついてないんで、無理っすね」
淡々とした、低めの声。
「っ……!」
「合計、四百九十二円になります」
噴き出すでもなく、嫌がるでもなく、ただ平熱のまま返された切れ味抜群のツッコミに、私は言葉を失った。顔から火が出るどころか、体ごと灰になりそうだった。
「ご、ごめんなさい調子に乗りました! 冗談です、お腹すきすぎて変なこと言いました本当にごめんなさい……!」
震える手で小銭をトレイにぶちまけ、冷や汗を拭いながら商品をひったくるように抱えた私を、蓮くんがふと呼び止めた。
「志乃さん」
いつものように穏やかに名前を呼ばれて心臓が跳ね上がると、彼は私のトートバッグの隙間から覗いていた文庫本——『汝、星のごとく』の背表紙に視線を落としていた。
「それ、映画化決まりましたね」
「……え?」
「朝のニュースで見ました。志乃さん、前にその本買いながら泣きそうな顔してたから。さっきからずっと嬉しそうなの、そのせいですか」
見ていたのか。いつもの他愛のないお喋りの中で、私がぽろりとこぼした熱量を、彼はちゃんと覚えていてくれたのだ。
「あ……うん。そうなの。すごく好きで……なんか、今日一日ずっと嬉しくて、お祝いしようと思ったのにお赤飯も烏賊もなくて、浮かれすぎて……本当に変なこと言ってごめんなさい」
両手で顔を覆って縮こまる私に、蓮くんはふっと、この店で初めて見るような柔らかい笑みを浮かべた。
「別に怒ってないです。ただ、お赤飯とたこ焼きの代わりが自分なのは、ちょっと意味わかんないですけど」
「ううっ……」
「でも」
蓮くんはバーコードリーダーを台に戻しながら、ぽつりと呟いた。
「『自分の人生を生きることを、他の誰かに許されたいの?』」
耳を疑った。
それは、あの小説の中で、生きづらさに藻掻く主人公たちの背中を容赦なく、けれど誰よりも温かく蹴飛ばした、大切な台詞だった。
「……読んでくれたの?」
「志乃さんが書いた平台のポップ、熱量がすごかったから。気になって買って読みました。……すごく、よかったです」
蓮くんは少し照れくさそうに首の後ろを掻いた。いつもの涼しいコンビニ店員から、年相応の青年の顔が零れ落ちる。
「だから、お持ち帰りされるのは困るけど……そのアイスが溶けない距離なら、話くらい聞きますよ。上がり、あと十分なんで」
「え……?」
「お祝い、したかったんですよね。お赤飯はないけど、話相手くらいならなります」
店の自動ドアの外では、秋の夜風が心地よく街路樹を揺らしていた。
金木犀の香りが、どこからかふわりと夜気に混じって漂ってくる。
バーコードのない私の心臓は、さっきの失敗の恥ずかしさとは全く違うリズムで、トクン、と大きく跳ね上がっていた。




