第26話 それぞれの夜
俺は、レナとディナータイムの仕込みをしていた。
アマンは子ども達と、川辺で遊んでいる。
夕方のオレンジとアマンが楽しそうに遊ぶ声。
レナから聞く、彼女の優しい視点の話。
そのシーンが、忙しい時間を癒し、
時間の密度を上げていく。
新しい子たちは積極的に手伝ってくれ、食堂の効率化した結果、ディナーも始められると判断した。……あいつらに夕飯も食わせたいしな。
鍋の中で、スープが静かに沸いている。
野菜の甘い匂いが厨房に広がっていた。
ドアベルが、荒々しく音をたてる。
「——助けて、お兄ちゃん」
振り返ると、サリーが立っていた。
息を切らして、肩が上下している。
「サリー、どうした。何かあったのか?」
俺は、鍋をレナに任せ、サリーに水を渡す。
「トラが……」
サリーが息を整える。
「孤児院に——走って……」
彼女はそう言うとしゃがみ込む。
皆が心配しだす。
俺はエプロンを外した。
「レナ! あとは頼んだ」
奥からレナが顔を出す。俺は目で合図した。
彼女は静かにうなずいた。
「サリーはどうする」
彼女はうつむき答えなかった。
——俺は走り出した。
エヴェラ:左。次の角を右。あの子、無茶しているでしょうね。
夜の石畳を踏む音と、エヴェラのため息だけが響く。
暗い路地を彼女のナビが導いていく。
孤児院が近づくにつれ、
遠くから怒鳴り声が聞こえた。
◇
正門の前に、トラがいた。
「うるせー、はなせよ!」
警備の職員の胸倉をつかんでいる。足が浮いている職員が必死に押し返しているが、トラは今にも殴りそうだ。
俺はエヴェラに依頼する。
エヴェラ:距離は約百メートル。遠距離ピンメッセージは、いつもよりMP多いからね?
ピンメッセージを飛ばした。
「——トラ。止まれ」
——次の瞬間、
普段の何倍もMPが削れる感覚がした。
遠ければ遠いほど、消費が跳ね上がるとはいえ、多いな。
トラの視線が俺たちに向く。
襟首を持ち、釣り上げていた警備員を落とす。
俺は早足で近づく。
距離が縮まるにつれ、トラの横顔が見えてきた。
彼の両目が、闇の中、琥珀に光っていた。
開いた口には、小さいが立派な牙が見えた。
いつものトラじゃない。
笑顔も、無邪気さも、全部消えている。
顔の一部が獣のように変形し、その表情に殺意が宿る。グルルと喉が鳴る。
下を見ると怯える職員の首元に、
うっすらと血がにじんでいた。
俺はトラの肩を掴む。
その瞬間、腕を振り払われかけた。
俺と目が合う。
抵抗しようとした身体が、動きを止める。
そのまま、強く抱きしめた。
トラは動かなかった。
俺の胸の中で、ただ息をしていた。
耳元で、静かに言う。
「今じゃない」
しばらく、沈黙があった。
トラの肩が、ゆっくりと下がった。
張り詰めていた何かが、少しずつほどけていく。
目の光が、消えた。
「……わかった」
小さな声だった。
頭を上げたトラの顔は、すねた子どもの顔に戻っていた。
職員がこちらを見ている。
俺はぺこりと頭を下げた。
「すみません、弟が。失礼しました」
職員は何か言いたそうだったが、
俺たちの背中を見送った。
◇
帰り道。
俺たちは並んで歩いた。
何も言わなかった。
手を繋いでいた。
彼が服を引っ張るので、
手に変えてもらったのだ。
石畳の継ぎ目を避けながら、
トラの足音が俺の隣で続いていた。
角を曲がると、川沿いの道に出た。
遠くに、食堂のランタンが見えた。
「サリーのこと聞いたのか?」
「うん」
「ちゃんとやるからさ、待っててくれよ」
「うん」
少しだけ、声が震えていた。
オレンジ色の小さな灯り。
夜の中に、ぽつんと揺れている。
俺たちはその灯りに向かって歩いた。
◇
翌日。
昼過ぎの川沿いは静かだった。
乾いた世界が、白く見えた。
彼女は食堂を出て、川沿いをぶらぶらと歩いていた。昨夜のことが、まだ頭に残っている。
トラと顔を合わせると、何か言わなければならない気がした。だから、外に出た。
見通しの良い、白い砂利の続く一本道だ。
誰もいないはずだった。
——ぽん。
肩を叩かれた。
サリーは即座に小剣に手をかけ、振り返る。
誰もいない。
いや。
一歩後ろに、男が立っていた。
気配がなかった。
いつ、そこに来たのか。
顔はマスクで隠れている。
ただ黒いだけの、穴もないマスク。
だが、その声を聞いた瞬間。
遠い記憶が、浮かんだ。
孤児院の最初の日。
荷物ひとつで連れていかれた、あの日。
門の前で、扉を開けてくれた男。
両親の同僚だと言っていた。
「……サリー」
低い声だった。
静かで、落ち着いていた。
サリーは小剣を抜かなかった。
抜けなかった。
男は黒いマスクをゆっくりと外した。
あの日より、少し老けている。
「探していた」
◇
サリーを安心させるためか、それとも、ここで働く事を知っていると宣言するためか。
男は食堂に入ることを提案した。
サリーは警戒しながらも、後に続いた。
ランチタイムは終わっており、店内には誰もいない。
レナが気を使う。
お茶を置いて、地下へ降りていった。
向かいに座った男は、サリー見つめ、
静かに話し始める。
その内容にサリーは驚き、
涙をうかべ聞いていた。
父のこと。母のこと。
もう二度と、聞けないと思っていたから。
サリーが知らなかった村での暮らし。
影の一族の掟と、その中でのふたりの生き方。
母と父が若く、美しく青春を謳歌した話に、サリーの心はほどけていった。
「お前の両親は、優秀だった」
男はそう言って、一度目を伏せた。
「だから、あの任務に選ばれた」
サリーは黙って聞いていた。
ふたりの話を聞けることが……嬉しかった。
彼の話がサリーへの問いに変わった。
彼女の顔が、警戒するものに戻る。
「サリー、なぜここにいる。孤児院はどうした?」
サリーの手が、膝の上で印章を握りしめた。
家族には話せた。
だけどこの人は、家族だろうか。
父と母の話を、誰よりも詳しく知っていた。
もう、温もりしか思い出せない母のことも——
掟を無視し、自分のため、
顔まで見せてくれた。
あの孤児院に入れたのはこの男だ。
知る権利と義務は、あるのかもしれない。
サリーは全てを話した。
——新しい家族との出会いも。
「そうか」
男は少し間を置いた。
「俺が調べる。証拠を集めて、お前に渡す」
サリーは顔を上げた。
「どうして」
「俺の責任だ。それにお前の父親には、借りが沢山あってな」
男はマスクをつけながら続けた。
「それから、一つ教えておく」
声が、少し低くなった。
「俺の任務は今——」
一瞬、言葉を切る。
「……あいつの監視だ」
サリーの呼吸が止まった。
「司祭の指示だ」
静寂。
キッチンで水が流れる音がした。
男は立ち上がった。
「——気をつけろ」
それだけ言って、扉を開けた。
男の姿は、夕闇に溶けるように、
掻き消えた。
あるいは最初から
そこに誰もいなかったかのように。
サリーはしばらく、動けなかった。
膝の上の手が、震えていた。
——お兄ちゃんに、言わなくちゃ。
サリーは、立ち上がった。




