あの世で、また逢いましょう
朝露をまとった野の草が、陽の光を吸い込むように微かに輝いていた。あたりは静寂に包まれ、湿った田の面が白い靄を抱いて遥かへと延びている。その先、ぽつりと山のふもとに立つ赤いポスト──くすんだ塗装にはところどころ錆が浮き、鳥の爪痕が古傷のように刻まれていた。
璃子はその前にしゃがみ込むと、そっと目を閉じた。指にはすでに一通の手紙。差し入れ口に半ば挿されたまま、微かな風が頬をすべっていく。その一瞬、手がふるふると震えた。
「遼……元気にしてる? そっちは……あたたかい?」
声にならない囁きを乗せて、手紙を押し込む。投函と同時に、胸の奥で何かがきゅっと音を立てた。草を揺らす風、空を滑る雲。馬鹿だな、と思った。ありえない噂に縋るなんて。死者に届く手紙など、信じる歳じゃないはずなのに。
――それでも、一度でいい。遼と、もう一度だけ話がしたかった。
三日後、新聞社の私書箱に紛れて届いた、見慣れぬ封筒。宛名は、震えるような毛筆の文字。そして、見覚えのある筆跡──遼の、あの頃そのままの手だった。封を切った瞬間、肺が息を止めた。
「璃子へ。新聞記者になったんだな。夢、ちゃんと叶えてて、えらいじゃん。」
胸が軋む。まるで古びた記憶が、ひとかけらずつ甦ってくる。だが同時に、疑念が爪を立てる。誰かの悪戯か? ……それでも、遼しか知り得ないことが次々と記されていた。
「最後に渡せなかった誕生日のネックレス、あれ、結局ポケットに入れたままだった。ごめんな。」
「璃子はカレーにうるさいからな。今もきっと、レストラン選びで文句言ってるんだろ。」
紙を握る手に汗がにじむ。十八年が経った今でも、あの笑顔は霧の中で、確かに手を伸ばしてきた。
*
それから璃子は、取材の合間に手紙を重ねた。遼に。あのポストに。手紙の紙には、いつもかすかに枯れた花の香りと、土のにおいが沁みついていた。それはどこか懐かしく、遠い日の夕暮れに似ていた。
夜になると、ベランダに腰をおろし、赤ワインを傍らに手紙を書く。過去と向き合う静かな時間。誰にも邪魔されたくない、唯一無二の私だけの場所。
遼からの返事には、諦念も詮索もなかった。ただ、まっすぐな言葉が毎回、こちらをまっすぐに受け止めてくれた。
──けれど、一通の手紙に書かれていた、ひとつの掟。
「一度でも、嘘を書いたら、すべてが消える。」
その一文を見たとき、心の裏側をなぞるような寒気に襲われた。教室で悪さがばれたときの、あの居たたまれない気配。
「嘘なんて、書かないわよ。」
ぽつりと、ひとりごとめいて呟いた。誰も聞いていない部屋の中で。なのに、その夜届くはずの返事は、二日遅れた。
*
初夏の匂いが街に満ち始めたころ。璃子の隣に、ひとりの男の存在が自然と寄り添うようになっていた。同期の航平。飾らず、誠実で、気がつけば暮らしの中に溶け込んでいた。
「俺と一緒に暮らさないか」
そう告げられた夜。璃子は例のポストの前で逡巡した。手紙を書く手が止まる。
――航平のことは、書かないほうがいい。あれはもう、別の話だから。
翌朝も、その翌日も、遼からの返事はなかった。風さえも、様子を窺うように静まっていた。
七日が過ぎ、十日、二週間。空白だけが積みあがる。
ある夜、璃子はもう一度、ポストの前に立った。震える指で手紙を綴る。
「……ごめんなさい。本当は言わなきゃいけなかったの。嘘をつきました。好きな人ができそうだったの。それで……書かなかった……」
そっと投函し、その足で自宅に戻ると、ポストに一通の封筒が届いていた。山吹色の、静かに時間を宿した紙。差出人の名はない。
開封すると、そこには誰の名前もなく、ただ一行だけ。
「さよなら、璃子。嘘をつけるほど、君が幸福になってる証だ。ありがとう。」
その瞬間、空気がぱちんと切り替わった気がした。部屋の明かりが、いつもより少しだけ柔らかく見えた。何気なく進む時計の針。なのに世界は、確かに一歩、前へ進んでいた。
*
その後、璃子は航平と共に暮らし始めた。日々は静かで、穏やかで、特別ではないけれど、大切だった。食卓のコーヒーの余熱や、一緒に眠る夜のぬくもり。それらが、遼との文通の日々をそっと包み込み、やさしく過去をあたため直してくれた。
遼からの返事は、あれきり届かなかった。
けれどある朝、駅へ向かう坂道、ふと目をやると──あの赤いポストが、靄の中に浮かび上がっていた。錆びた鉄肌が朝陽を浴びて、金色に溶けている。
璃子は足を止め、スマートフォンを取り出した。音を立てぬよう、カメラを向ける。シャッター。画面の隅に、誰もいるはずのない影がわずかに映った。
その人影は、どこか懐かしくて、胸の奥を静かに締めつけるようだった。
「……遼?」
風が、梢をなでるように通り過ぎてゆく。冷たくもなく、あたたかくもない、その風だけが──ぽつりと答えてくれた。
璃子は微笑み、スマホをそっと仕舞った。
「じゃあね。あの世で、また逢いましょう。」
踏み出した足が、朝の光に溶けていく。誰にも知られない、静かな別れを、世界がやさしく受け止めた。




