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2 正しい事をしたい

3月9日 土曜日




『じゃあ、コウタ、ワムくん、教えてくれ、何だこれは、何が起こったんだ。』


中学校の教室くらいの広さの事務所の中は、事務机3つと応接セット、空っぽの上部がガラス張りの書類棚、窓際に寄せられたパーテーションが6枚、それだけ残っていて、汚れた床にまとめて隅に寄せてある不用品とゴミが、もう使われていない部屋だと言っていた。


『ワム、まだ出来たんだ。』


『う〜ん。』


暴漢は事務所の中に引き摺り入れて、ナベが車から取って来たロープでかっちゃんの言う通りに身動き出来ない様に縛って、応接セットのソファーに寝かせてある。

厚手の黒いパーカー風の上着と黒いキャップと靴下とベルトを剥いだり、脱がせたりして、黒のロンTにブラックジーンズ姿だ。

ハンカチで猿ぐつわもかませてある。

鼻で息をしているが、意識はない。


『コイツ、昨日、他の人間たちとここに来て事務所を閉鎖した時に、少し顔を出してすぐに帰った佐伯のところの2人のうちの 1人だ、まぁ、俺を的にしたんだろうな、嫌んなるな。』


『はい、驚きました。』

一番驚いたのは俺だと思う。


『かっちゃん、変な事が起きる時があるんだ、ワムは。』


『このナイフを見てみろよ、折りたたみじゃないだろ、おまけに両刃でダガーときた、刺されても切られても痛いぞぉ〜、破壊力が全然違うからなぁ、参るよな全く。』


ナイフはシースに入れて携帯するタイプの大型の両刃のナイフで全長30cmくらいだ。

ミルスペックナイロン素材のシースは、上着の下に付けていたボディバッグのベルトに留めてあったので、今はボディバッグから外して、ナイフをシースに入れて、ボディバッグと一緒に、かっちゃんが座っている事務机の上にある。

俺たちは隙間のないコの字にくっついている3つの事務机の椅子に座っていて、事務机2つを合わせて対面に座っている俺とナベがかっちゃんの方に向いている。


『ワム、良いだろ、かっちゃんには。』

これは仕方ないよなぁ。


『うん。』


ナベが学生時代の話をした。

かっちゃんはじっと聞きながら、何も言わないで、時々頷くだけだ。


『でも、あれから随分経ってるし、もう無いのかと思ってたよ、ワム、俺は。』


『そうかぁ、ワムくんが触っただけで伸びちゃうのか、何が起こったのか、わからなかった筈だな。』

俺も反射的に左手を伸ばしただけなので良くはわからないのだけど、かっちゃんの言う事はわかる。

何も起こらないと言う事が起こったのだ。


『と言う事は、コイツも何が起こったか分かってねぇな。』


『えっ、かっちゃん、どう言う事。』


『コイツ、須藤 亘かぁ、コイツは俺に向かって来た途端に気を失っているぞ、だろ?』

かっちゃんは、須藤がフード付きのダウンジャケットの中に掛けていたボデイバッグから出した財布の中の免許証を見ながら言う。


『そうだろうね、回復するまで見てた事ないからわかんないけど、なぁ、ワム。』


『子供の頃も、その辺りの事は殆ど覚えてません。』


『痴漢の時も、人だかりがあって時間の感覚はあんまり無いけど、そんなに長くは無かったような覚えがあるくらいだなぁ、そうだよな、ワム。』


『うん、多分。』


『うん、わかった、よっしゃ、とりあえず、鍵を付けてくれ、コイツは起きてもそのままにしてほっといて良いから、ちょっと、考えるわ。』


ナベとドアの鍵を付ける準備を始めると、


『ちょっと、電話して来るわ。』


かっちゃんが部屋を出てエレベーターと反対側の通路の突き当たりでボソボソ話して、すぐに戻って来た。


『コイツ運ぶからな。』

え、何処へ?


『かっちゃん、何処へ?』

ナベもそう思うよな。


『違う、違う、人を呼んだから、そいつらに運ばせる、まだ起きてないか?』


『うん、まだ。』


両足首と両手首をそれぞれぎっちり縛ってから、腰の後ろで緩めにロープで繋げて余った部分のロープを首に緩く回してある。

これじゃあ、起きたら大パニックだ。


『かっちゃんおじさん、俺たちは•••』


『ここにいて良いよ、飯喰いに行こうぜ。』

あらららっ、参った、帰りたい。


『心配するな、手荒な事にはならないから。』

かっちゃんがどんどん遠い人に思えてくる。


仕方ないから鍵を付けて、ドアを拭いて小綺麗にし終わったら、ノックの音がして到着した。


ドアを開けると、白衣の上下にマスクの3人の男が白っぽい帆布のトートバッグを乗せた車椅子を押して入って来た。


『コイツだ。』

かっちゃんが言うと、白衣の上からでも筋肉の盛り上がりが分かる2人の大男が、まだ意識が戻っていない須藤の縛ってあるロープを外しながら、自分達が持って来たバッグの中から50cmくらいの両端にバンドが付いた鉄パイプ状の物を2本出して、1本は両足首をバンドで留めて、もう一本には万歳した状態にして両手首をバンドで留めて動かなくした。

大きな裁ち鋏で須藤のジーンズの両外側をジャキジャキ腰から裾まで切って、ズボンを剥ぎ取り、下着も同じように剥ぎ取った。

露わになった下腹部を大きな紙おむつで包むと腰の両脇をテープでしっかり留めて、両腕を前に持ってきて、細紐でまるで梱包でもするかの様に、縛ったり、包んだりした後に、白いシーツを被せて、口には猿ぐつわのハンカチを外して気道を確保する様な器具を嵌めてから、目元だけ出した須藤を、車椅子に乗せて出て行った。

須藤は、

まだ目覚めて無い様だ。

残ったもう1人の中肉中背の男も、後片付けをして、ナイフや須藤の持ち物を全部入れたバッグを持って、

『届けたら、連絡します、失礼します。』

そのまま出て行った。

かっちゃんは頷いただけだった。

俺とナベは、ただ突っ立ってその様子を見ていた。



ポカ〜んって、こんな状態なんだなぁ。



『ワム、アイツ、ブーメランパンツだったな、履いてる奴、初めて見た。』

俺もそう思ったよ、ナベ。


『それに、オムツも。』

手際、良過ぎだろ。


『まぁ、途中でアイツが漏らしたら、漏らした方も、漏らされた方も、お互いに気まずいだろ、それに、宇宙飛行士もしてるらしいぞ、アハハハッ!』

かっちゃんが当たり前のことだろ、と言う感じで笑いながら言った。

『よし、行くぞ。』

えっ、何処へ? あぁ、そうか、飯か。


俺はナベと一緒に、かっちゃんの後を、オムツを着けた宇宙飛行士の事を思いながら、黙ってついて行く。

5分くらいで焼肉屋に着いた。


『コウタ、車ここに止めとけよ。』


お店の横に6台止められる駐車スペースがあって、2台分空いていた。


『ワムくんは、ここでコウタが来るまで番しててくれ、俺は中にいるから。』


そのままかっちゃんは店内に入った。


『おい、おい、ナベ、俺、帰りたくなっちゃったよ。』

小っちゃい声で言ってみた。


『そう言うなよ、待ってろよ、すぐ来るから。』


紺のピーコートを着たナベの後ろ姿をみながら、

『寒いなぁ、嫌んなるなぁ。』

思わず、つぶやいた。


焼肉屋はまだ新しく見える2階建てで、建物は駐車スペース以外を殆ど占めている。

店の構えはシンプルな打ちっぱなしのコンクリートの壁に黒地に白い店名が入った小振りの金属のプレートが入り口の横にあるだけだが、足元には黒い御影石が敷き詰めてあって、高級感を漂わせている。

店内に入って上下左右真っ赤に塗られた明るい通路を通って案内されたのは、小さな個室だ。

テーブルの真ん中に切れ込みがあって、七輪が置いてあり、その上に金色の網が乗せてあって、網の上30cmに排煙フードが下がっている。

テーブルには3人分の食事セットが置いてある。

壁の一面は剥き出しのクローゼットの様にバーが通してあって、ハンガーが掛かっている。

かっちゃんのムートンジャケットもかけてある。

俺達も上着を脱いで、ハンガーを使った。

かっちゃんは、青っぽい無地のシャツ姿だ、ナベは白地にプリントのトレーナーで、俺はダンガリーシャツを着て来た。


『あの部屋は本当に寒かったのが今になってわかったよ。』

かっちゃんは楽しそうにニヤニヤしている。


『それどころじゃ無かったもんね。』

ナベもほっとした様に見える。


『おう、それでな、ここで喰ったら俺だけでアイツの様子を見てくるから、もうこの話は無しで、平和にのんびり肉喰って、ノンアル飲もう、ハハハハっ。』

かっちゃんは気を遣ってくれてるなぁ。

あ〜、よかったぁ、空気が緩んできた。

ナベのほっとした顔を見ていると、きっと俺もそんな顔してんだろうなぁ。




お肉をいっぱい喰って、俺とナベはサウナに来た。

時間を潰す事になって、思いついたのがここだ。

サウナと言っても大浴場に3室あるサウナスペース、大きな休憩室、広いパウダールームも併設してあるからちょっとした温泉ランドくらいの施設だ。

利用客はこの時間はまだ少ない。

夕方、また、かっちゃんと会う。

かっちゃんは須藤の様子を見てから、俺達も当事者なんだからどうなっているか話してくれるそうだ。

サウナは久しぶりだが、嫌いじゃないので、2、3時間なら1人でも間が持つ。

それに、ナベといるから楽ちんだし。


『肉の一枚一枚が、大きかったねぇ〜、ナベ、あんな肉、俺、喰った事ないよ。』


『俺もだけど、今日喰ったから、もう有るぞ、へへへっ。』


食事の後のサウナはいい感じにリラックス出来る。


『ナベ、あの須藤って男、見覚えないか?』

サウナから出て水風呂に入って、バスローブ姿で休憩スペースで足を伸ばせる1人用のリクライニングチェアーに並んで座って、少しウトウトしてるナベに聞いてみた。


『えっ、う〜ん、ない、知らない。』


『俺、3回目なんだよ』


『えっ、何よ、何時よ、何処よ、誰よ?』

目が覚めたみたいだ、周りには誰もいない。


『ナベにこの前、頼まれた紙袋持って行った時。』


『あぁ〜、問題なかったんだろ。』


『まあ、問題なかったんだけど、あの時、佐伯が出て来たら袋をただ渡してくれって言ってたろ。』


『うん、それだけだな。』


『それが、ビルから3人出て来て、佐伯ともう1人の男が一緒に歩いて行っちゃたのよ、それでビルに戻ってったアイツの後を追いかけて、アイツがエレベーターに乗ったから、アイツより早く4階に行くのに、非常階段を急いで駆け上ってた時、思い出したんだよ。』


『思い出した?』


『外車の吸い殻男。』


『えっ、そうなのか!』


『そう、だから、先に4階に上がって待ち伏せて、触っちゃった。』


『えー、マジか!』


『袋渡して帰るだけじゃ、イカン、と思ったんだよね、それにちゃんと元気にしてたんだって分かって安心したし、悪い事してそうだなぁ、とも思ったんだよ、触ってフニャ〜となった須藤を急いで後ろから脇の下に手を突っ込んで抱く様にして、部屋の中に引き摺って入れて、ソファーに乗せて、袋をソファーの前のテーブルの上に置いて撤収したのよ。』


『よくやったなぁ!』


『何も起こんなきゃそのまま袋渡して逃げてくれば良いし、って。』


『そしたら。』


『そう、フニャ〜、って言うか、グニャ〜、って、言うか、そうかぁ、こうなるのか、って思った。』


『俺は知らなくて良かった、よく言わないでいてくれてた、感謝だ、ワム。』


『まあ、何でも共有するもんじゃない、って前から決めてたろ、それでだよ。』


『ああ、それはかっちゃんの受け売りなのよ、共有すればするほど、何かの時に芋づるになって、却って友達や仲間に迷惑かかる事がある、って。』


『でも、今日のかっちゃんの様子だと、共有が発生しそうだなぁ。』


『まあな、俺達も当事者って言ってたからなぁ。』


『今、何時だろ?』


『16時40分です。』

休憩室の出入り口の先に見える掛時計を見て答えた。


『じゃあ、出るか、ワム、そろそろ。』


『そうするか。』




サウナのビルの1・2階にある昔ながらのゆったりスペースをとった喫茶店に入って、かっちゃんからの連絡を待つ。

ここも今はまだ4割くらいしか席が埋まってないから、両脇のテーブルは空いている。


『でも、良く憶えてたな、アイツの顔。』


『あ〜、それは忘れない、ずっと気になってたし。』


『そっかぁ、ちょっと面倒だなぁ。』


『でも、いつも思い出す訳じゃないよ、見た瞬間に、あっ、コイツだ、ってなったんだよ。』


『それなら良いけど、しょっちゅう思い出してたら嫌だもんなぁ。』


『あ〜、そうゆうのは無いよ、無い、無い。』


ブー、ナベのスマホが動いた。

ナベが外に出て行った。

戻って来て、

『今日は中止、明日の朝、あの事務所に10時だって、ワム来れる?』


『ああ、良いよ、大丈夫。』


『よかったぁ、かっちゃんが、ワムによろしく言っておいてくれって、命の恩人だから、って。』


『いや、いや、とんでも無いよ。』


『いやぁ〜、俺もその通りだと思うよ、それと念の為に、盗聴発見機持って来いってさ。』


『あらま、何だろうね、何処で使うんだろ。』


『あの事務所の中を調べるだけらしいよ、これからやるよ、って言ったら、明日やらなきゃ意味ない、って。』


『そっか、わかった、なぁ、ナベ、車戻して、軽く居酒屋でも行かないか?』


『そうだな、中途半端な時間だしな、ミキちゃんは、いいのか?』


『家族旅行で温泉に行ってらっしゃいます、問題有りません。』


『そっか、良かった、じゃあ行こう。』



居酒屋は混み始める時間帯なのかテーブル席は殆ど埋まっていて、俺達は調理場が見える低いカウンターに座って、ツマミを多めに頼んで飲み始めた、今日もビールだ。


『かっちゃん、って不思議だよなぁ。』


『ワム、不思議ってもんじゃ無いぞ、アレは。』


『今でも、実家に部屋有るの?』


『有るよ、有るけど、かっちゃん、寄っても全然泊まった事ないよ。』


『ふ〜ん。』


『でもね、部屋はずっとそのまま無くならない。』


『そうなんだ。』


『そう、あの部屋は母ちゃんが、無くさない。』


『おばさんが?』


『そう、母ちゃんの感謝の印だから。』


『へぇ〜。』


『母ちゃんの方のじいちゃんが亡くなった時、真っ先にばあちゃんをウチの実家に呼んで住んで貰おうって言ったのは、かっちゃんだから。』


『あっ、そうなんだ。』


『母ちゃんは物凄く感謝してるんだよ、かっちゃんの事は、ばあちゃんの命の恩人だ、って言ってるくらいだから。』

ふ〜ん、そうなのかぁ。

『それに、かっちゃんと父ちゃんの両親と、母ちゃんの方のばあちゃんを仲良くさせたのもかっちゃんだからね、3人を一緒に旅行に行かせたり、食事やカラオケやなんかも一緒に行かせたり、ばあちゃんが来たばかりの時は相当気を使ってたからね、だから、今は3人でセットみたいに何時も一緒だ。』


『へぇ〜、かっちゃん優しいんだねぇ。』


『そう、母ちゃんは情に厚い、ん?、情が厚い、まぁ、そんな事を言ってるよ。』

そうかぁ〜。


『何だか、カッコ良いなぁ。』


『そうなんだよ、そこなんだよ。』

ナベは、分かってくれたか、みたいな感じで満面の笑みになって、下を向いた。




3月10日 日曜日




今日も冷たい空気の寒い朝だ。


天気は良いので、缶詰のスープを温めて飲んでから、走ってきた。


帰宅して風呂に入って、軽く食事して、洗濯乾燥機を動かして、掃除機を使って、少しのんびりしてから出かけた。

昨日はナベとダラダラ喋って、帰宅したのが、9時半くらいだったのに、すぐに眠くなって、そのまま歯だけ磨いて寝てしまった。

あまりそんな事は無いのだが、昨日は色々あって疲れていたのだろう。


昨日よりも遅めの9時45分くらいに着いたら、ナベがもう来ていて、早速部屋の中をウロウロしてチェックしていた。


『おはよう、ナベ、早いね。』


『よお、ワム、昨日はすぐに寝ちゃってさぁ、早く起きたんだよ。』


『あららっ、あの後、どっか行ったのかと思ってたよ、元気に見えたから。』


『それがさぁ、お前と別れて歩ってたら、何だかダルくなって、どっと疲れが出た感じになってさ。』


『あ〜、わかるわ、俺もそうだったもん。』


『まったく、痺れちゃうよ、参ったよ。』


『ハハハっ、かっちゃんは?』


『一緒に来て、昨日の喫茶店で降りて、終わったら来いって。』


『あっ、そお、俺、何する?』


『もうこっちは終わる、電波はそこら辺じゅうで飛んでるけど、この部屋の中は飛んで無いよ、コンセントの奥と、天井裏はこれからだ、ファイバースコープでぐるっと見るくらいで良い、って、かっちゃん言ってたよ、今日の用事はこれがメインじゃ無いから、って。』


『そうか、わかった。』

その後、40分くらいガタゴトやってから、2人で歩いて喫茶店に向かった。


『今日はタクシーで来たから車ないんだ。』

昨日と同じ服装で大きな紺色のショルダーバッグ姿のナベと、昨日と同じ格好の俺は何故か早足で歩いている。


『何が起こってるのかなぁ?』


『わかんねぇよ〜、まぁ、俺達が考えてもどうしようも無いよ。』

まぁ、そうなんだけどなぁ。


今日のかっちゃんは、脱色でもした様な白いスエードのジャンパーに黒い細身のパンツで黒いローファーを履いて、薄いグレーの革のキャップを被っている。

スマホを見ている。


『おはようございます、かっちゃんおじさん。』


『おお、昨日はありがとな、命拾いしたよ、アハハっ。』

スマホをテーブル置いてニコニコしている。


『いや、とんでも無いです、たまたまです。』


『その、たまたまに助けられたよ、ワムくんいなかったら、なぁ、コウタ。』


『そうだよ、ワム、俺もそう思うよ。』


『はぁ〜、どうも。』


『まぁ、とりあえず、何か頼めよ。』


かっちゃんが座ってたのは、昨日と違って結構混んでる店の入り口を入ってから一番奥の隅っこのテーブルで、周りのテーブルからは少し離れてる。

かっちゃんはココアをケーキセットで頼んでいたみたいなので、俺達もコーヒーでケーキセットを頼んだ。

かっちゃんは飲み終えて、食べ終えていたので、追加でコーヒーを頼んだ。

届いたコーヒーを一口飲んでから、ちょっと黙ってると


『昨日、あれからな•••』

ゆっくりと小さめの声で話し始めた。


昨日、須藤が連れて行かれた場所はどんな所か話してくれないが、病室と診察室があるらしく、モニター室で須藤と白衣の関係者のやり取りを見聞きしていたそうだ。

須藤は何が起こっているか分かっておらず、おまけに目覚めたのはそこに到着して30分以上も後だった。

目覚めた時には甚平タイプの患者衣にオムツでベッドに寝ていた。

そこに看護師の服を着たマスク姿の女性と、医師の服装のマスク姿の男性が登場して、色々質問したり、話したり、問診したり、と言う事だった。

かっちゃんとしては質問の材料が無いので、まずは医療行為名目で聞き出したいらしい。

但し、上手くいかなければ他のやり方で厳しくする事も考えているらしい。


『簡単にはいかないかもな。』

かっちゃんは当たり前の様に言って笑ってた。


『かっちゃん、ワムはさぁ、須藤と会ったの初めてじゃなくて、今回で3回目なんだって•••』

とナベが説明してくれた。


『ふ〜ん、だからか、記憶が飛んだ事があるって物凄く真剣に言ってたよ、それか、納得だ。』


『そうですか。』

やっぱりそうなるかぁ。


『まぁ、本人にしてみれば、堪らんだろうなぁ。』


『堪らんて、言うと?』

ナベは少し前のめりになった。


『なぁ、コウタよ、考えてもみろ、気を失って起きた時の不安を、飲んだり、眠気があった訳でも無く、また今回みたいに、目覚めた場所が病室で着替えさせられていて、医者までいる、それに、今の話を加えると、車から出た筈なのに反対側の助手席に顔から倒れた状態で、目覚める、もうひとつは事務所に入ろうとしてたのに、事務所の中のソファーに座って目の前に見た事ない紙袋が置いてある、記憶が飛んだと思って納得するしかないだろう、だけどその理由が自分の体の変調なのか気になってくるし、外傷がないのも確認した筈だから、どんどん負のスパイラルに落ちていくぞ。』


『そんなに悩むかなぁ。』


『コウタ、お前は夜寝る時、眠る瞬間の意識が無くなる時の事は分からないだろう、その少し前の事もなんとなく思い出せるかってくらいだろ、俺達がアイツが気を失った事を知っている前提で想像しても、アイツの気持ちは分かりようが無いんだよ、これから気を失ってもらいます、って言われて身構えて気を失った訳じゃ無いんだからな。』


『そうなのかぁ、ワム、そんな事、思った事あるか?』


『いや、俺はその後でどう思うんだろう、とかは考えたけど。』

まぁ、気にはなっていた。


『ワムくんも、ビックリして誰にも内緒にしていたと言うのは、意識して無くても、その気を失う恐怖をワムくんの方で感じていたからかもしれないな、ちょっと電話してくる。』


かっちゃんは外に出て行った。


『ワム、俺にはピンとこないよ。』


『それは、俺もだよ。』


ケーキを食べていたら、かっちゃんが戻って来た。


『アイツはもう少し今の状態のままで、記憶が飛んだ時の話を出来る限り詳しく思い出させることにしたよ、俺も行ってアイツの様子をモニターで覗いてみるわ。』

かっちゃんは少し興奮して見える。

『それでワムくん、その特技を使ってみようと思った事は無いのか?』


『無いです、自分では良い事だとは思えないので。』


『ふ〜ん、そうかぁ、勿体無いなぁ。』


『はぁ。』


そこでナベが俺達2人の正しい事をしたいと言う思いを話した。


『何か、考えたり、やったりしてんのか?』


世の中の為になる事をしたい。

困っている人を助けたい。

災害ボランティアを積極的にやりたいが、休日を利用してだと、受け入れ先によっては条件が厳しくなってきているので、最近はもっぱら募金程度。

ナベの会社に防犯グッズの相談に来て、困ってるけどあんまり大事にしたくない人もいる。

そんな人には内緒で俺達が勝手にちょっとした手助けをして、撃退するとか、警察に通報するとか、俺達だけで出来る小さな善行と思ってる事をしている。

でも、依頼されてる訳では無いので報告はしない。

たまに説得して一緒に警察に相談に行く事もある。

自己満足の行動しか、今は出来ていない。


ナベの話を聞いたかっちゃんは、

『そうか、お前は小さい頃からそんな事をよく話してたもんなぁ。』


『そんな事って?』


『正義の味方の事よ。』


『まぁ、子供っぽい、って言うのは分かってるよ、ただねぇ、黙って見過ごせな時もあるから、そんな時はやれる範囲でやろうって、ワムとは大学の時から話してて、気が合ったんだよ、な、ワム。』


『はい、そうです、かっちゃんおじさん。』


『そうか、じゃあ、俺が困ったら、どうだ?助けてくれるか?』

えっ、何を仰ってるの?


びっくりしてナベと顔を見合わせた。


『ハハハっ、じゃあ、俺は行くわ、これでここ払っといてくれ。』

そう言うと薄い筋入封筒をテーブルに置いて行ってしまった。


『あららっ、行っちゃったよ。』


『だなぁ〜。』

少しホッとして気が抜けた。


『何だか、学生時代のバイトの面接みたいだったな。』


『それに、他の事を考えてるみたいだったな、途中からは。』


『考えてみれば、昨日はかっちゃんが襲われたんだもんなぁ。』


『そうだよ、俺達、今、須藤が被害者みたいな感覚になっちゃってるけど、かっちゃんが被害者なんだよ、ナベ、何だか面倒臭いなぁ、わからない事も多過ぎるし。』


『多いけど、今日はもういい、いっぱいいっぱいだわ、考えたく無いよ。』

本当だ、須藤は何でかっちゃんを襲ったのか、単独なのか、指示されたのか、あんな物騒なナイフは一体何処で手に入るのか、考えると幾らでも出てくる。


『腹減らないか、ナベ、お昼だよ。』


『何か食べに行くか、ここじゃ無いだろ、あらっ、これだけ有れば、この後飯喰ってもお釣りがくる、よし、出ようよ。』

かっちゃんが置いていった封筒の中身を俺に見せてから、ナベが伝票を持って立ち上がった。



昨日は肉を喰ったので、今日はお寿司だぁ〜、という事で回転寿司に行った。

日曜日はさすがに混んでいるので30分くらいは呼ばれるまで待って席に着いた。

ナベは車じゃ無いので、お疲れビールを頼んで、腹も減ってたので、じゃんじゃん食べた。

店には1時間くらいいたが、2人ともしばらくは寿司はいいと思えるくらいは喰った。

お互い、この2日間は疲れたなと言って別れて帰宅した。



ミキに連絡すると、夕方帰るから家で待っててね、と返事がきた。

夕方って何時だ、と思ったが、時間はあるから少し昼寝した。


いつ寝たかわからなかった。

起きた時に、これか、かっちゃんが言ったのは、そう思った。


ミキん家に6時に着いたら、もう帰ってた。

今日は遅いとか言われなかった。


『発表してきました。』

ソファーに座っているスエット姿のミキの隣に座ってスッピンの頬にキスした。

温泉帰りだからか肌がピチピチしてる。

いつも機嫌は良いが、今日は更にご機嫌で、ニコニコしてる。


『発表しましたか、婚約。』


『そうなの、婚約発表か、って言われた、何で分かったの?』


『いや、俺もこれはそう言う事なのかなぁ、って思ったんだよ。』


『そっかぁ、それでね、ワムくん家の家族とウチの家族全員で顔合わせしなくちゃね、ってお母さんが。』


『うん、そうなるよなぁ、当たり前の事だな。』


『それで、なるたけ早く、みんなで食事会しようって。』


『分かった、いつにする?』


『土曜の夜か、日曜日ならお昼でも夜でもOK、何処かホテルの中のお店の個室が良いと思う、ワムのお父さんとお母さんに都合を聞いてよ。』


『分かった、じゃあ、先に会場を探さないとなぁ、これから当たるか。』


『え〜、今日は2人でゆっくりしようよぉ〜、明日にして下さい。』


『わかった、じゃあ、ゆっくりしようか、出前でも取って。』


『そうしよう、もう出たく無い、今日は。』


そのまま泊まることにした。

婚約披露かぁ、何か良い言葉だなぁ。




3月11日 月曜日




寝ているミキに『帰る。』って言って、むにゃむにゃ何か言われて、まだ暗い時間に帰宅した。

ウチの実家は6時半ごろ朝食だから、その前にと思って6時に電話して母親に手短かに話して、会場が決まったらまた連絡する事にした。

さぁ、これで早いとこ会場決めなきゃな。

出勤して午後の外回りの合間にずっと探した。

ところがホテルでは今月中の予約は無理そうだ。

甘い考えだった。

何件か確認して、返事待ちもしたが、全滅。

3月だし、当月に申し込んでも無理かぁ。

ミキにホテルは無理そうだから、ホテル以外で探すと連絡した。

和食の店が良いと言うことになったので、日本料理の店で探す事にした。

帰宅して、出前でピザを取って、連絡し続けたが、それなりのお店だと全然見つからない。

仕方ないからナベに電話して、相談した。


『ホテルは無理そうだから、ホテル以外で探しているけど無くてなぁ。』


『そりゃあ、3月に直前予約は厳しいだろ、ちょっと実家で聞いてみてもらうよ。』


『ありがとう、恩に着るよ。』


『まだ、どうなるか分からないから、ワムの方でも当たっててくれよ、難しいと思うから。』


『分かった、じゃあ、もし俺が見つけられたらすぐに知らせる。』


『うん、そうしてくれ、こっちもそうするから。』

そう言って、電話が切れた。


さぁ、またやるか。

でも厳しそうだなぁ。




3月13日 水曜日




『来週の土曜日、3時半から6時半だったら長浜樓が受けてくれるって。』

ナベからお昼過ぎに連絡があった。

長浜樓と言えば老舗の日本料理屋だ、この前行った動物園の近くで敷地も広くて日本庭園も有名だ。

ナベん家とは古い付き合いらしくて、ダメ元で聞いて見たら、この時間であれば受けて貰える事になった。

助かった。

ホテルを諦めた時に既に聞いていたが、その時は丁寧に断られていたから、ナベに頼んで良かったぁ。

すぐにミキとウチの実家に連絡して、都合の返事を待つ事にした、ナベには今日の夕方には返事くれって言われていた。

ミキの家族もうちの実家も大丈夫だと分かって、ナベに連絡して予約を入れて貰った。

これで一安心だ、良かったぁ〜。


『お父さんも来るよ、ワム、会った事あるよね。』

ミキが電話で言ってた。


『あるよ、去年のお正月に会った。』


『多分あれ以来だよ、お父さんこっちに来るの。』


『ちょっと緊張するな、しっかり挨拶しないとな。』


『そうねぇ、ぎこちなかったもんねぇ。』


『そりゃあ、そうなるよ、男親とはなぁ。』


『私、ワムのお母さん達とは仲良いから、そんなのわかんないなあ。』


『ああ、ミキの場合は初対面の時の印象が最悪だったみたいだから、後は上がるだけだからな。』

初めて会って、自己紹介でホステスしてます、って聞かれる前から言ってたからなぁ。

あの時はまるで氷の世界の中にいる様だったなぁ。

ミキは平気そうだったけど。


『でも、その後からは会う度に良くして貰ったから。』


『そうだな、飾らないし、隠し事もしない良い子だ、って言ってるよ。』


『そうでしょう、私ワムのお母さんに聞かれた事、誤魔化さないで全部応えてるもん。』

だろうなぁ、母親に、あんた達の事は何でも聞いてるわよ、って言われてビビったもんなぁ。


『ミキのお父さんとは中々そうはいかないかもな。』


『男同士は面倒ね、ハハっ、じゃあね、バイバイ。』

ほんと、面倒だよ。




3月15日 金曜日




長浜樓のお礼がてらナベを食事に誘って軽く飲んでお喋りだ。

午後になって外回りに出て連絡するとすぐに連絡がきて

『山賊で6時半で予約しておきました、ごっちゃんです。』

返事がきた。


曇っていて今にも雨になりそうな金曜日なので、暇かなぁ、と思ったが大間違いだ。

殆どの席は埋まっているか、予約プレートが置いてあり、4人席が1卓だけしか残ってない。

予約してて正解だ、ナベ。

いつもの山賊用のスーツの上にダウン姿で早めに行って、注文だけしていると、

『ちょっとだけ遅れる、7時には着きます。』

いつも10分、15分は平気で遅れて来るのに、今日は自分で予約したからか、いつに無くちゃんと連絡して来た。

今日は終わりの時間は気にしなくて良いので、店長さんに30分遅れて始めます、と伝えて待った。


『やあ、やあ、ワムくん、どうよ、調子?』


6時58分、7時前だ。

ナベが登場したが、山賊用のスーツじゃ無いので、

『出先から来たんだぁ、忙しかったの?』


ジーンズにピーコート姿のナベがコートを脱いで、壁のフックにハンガーを使って掛けながら

『かっちゃんとあの後で会ってたんだよ。』


『じゃあ、今まで?』


『そう、今さっき迄ずっとだよ、もう注文はしてあるんだろう、すみませ〜ん、生2つくださ〜い、あ〜、これで、落ち着くわ。』


『ハハハっ、みたいだな。』


『笑い事じゃ無いのよ、ワム、お前の事も話に出たんだよ。』


『えっ、何それ、参るなぁ〜。』


『とりあえず喰おう、話はその後。』


『気になるよぉ〜。』


『気になっても後の方が良い、それに俺は超腹減ってるし、なっ。』


そのままビール飲んで、肉喰って、今度の俺とミキの婚約披露食事会の話と、長浜樓の件の感謝を伝えた。ナベは俺もいつかそんな日が来るのかなぁ、と今の彼女との話をしてくれた。

まだまだ、結婚なんてとても考えられないらしい。

特にナベの3つ年上の姉ちゃんの旦那さん見てると、大変そうだなぁ、って思うらしい。

俺もそうなるのか、どうだろ。





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