第八十話 フェレットと地下道
なぜか、一時間ほど前の会話が思い出された。頭にふと浮かんできた。どうせ、カミヤの気まぐれな戯言だろう。今はそれどころではない。どうでもいいことだ。
なぜ今、そんなことを思い出す必要があるのか、自分自身の頭に対して疑問に思って、問いただしたくなる。
雪女の総本山の、銀霰姫の住む屋敷から脱出しようとしている真っ最中なのに。余計な事を考えてる暇はない。銀霰姫は皮膚が氷にヒビが入るみたいに割れて倒れるまでしか見ていない。部屋を出る時に苦しみの滲み出るうめき声が背後から聞こえた。そこから生きているのか死んでいるのか分からない。
左手で由紀の手を握り、引っ張りながら走っている。廊下には所々、行燈が置かれているだけで暗い。時々、足が絡まってこけそうになる。自分たちが廊下を駆ける時に、足元から床を踏み鳴らす騒がしい音がする。迷路のような道を右に左にと曲がる。
心臓がバクバクと喉元まで響いてくる鼓動を立てている。口の中がネバネバして苦いし、全力で走り続けているから肺がキリキリして痛い。
「こっちだったっけ?」
カミヤは立ち止まり、独り言を呟いた。先行しているのはカミヤなので、その後ろをついていた僕と由紀も止まることになる。
カミヤはキョロキョロと周りを見回して、再び進み始める。不安が湧き上がってくるが、今は信じて後をついていくしかない。僕たち三人の中でこの屋敷について一番詳しいのは間違いなくコイツなのだから。
カミヤが止まる度に、様々な事が思い出される。走っている間はしんどくて、マラソンの時のように頭がボンヤリするが、止まると考える余裕ができてしまう。
銀霰姫の氷具「天牢雪獄」に入り込んで、僕自身の体を雪女にされたかもしれないこと。その中で見た、過去に銀霰姫にされた雪女の記憶。銀霰姫と交わした会話。そして、弘との電話。止まる度に考えてしまう。全く関係ないことを思い出したりもする。先ほど思い出した会話もその一つだ。
走馬灯なんかがいい例だが、人は危機的な状況に陥ると頭がフル回転して現状をなんとかしようとするヒントを漁り始める。しかしこうなる時はもう手遅れな事が多い。
十分くらいしか走ってないと思うが、体感では三十分以上走っているような気がしてくる。
先ほど、雪女二人と廊下で出会った。来る時に屋敷の前の門から銀霰姫の元まで案内してくれて、僕たちを殺しに来た。僕自身は攻撃はしなかったが、彼女らの攻撃を防いだ。その隙にカミヤが殺した。
僕は「ニラブダ」を使って足元から出した氷の壁で防いだ。手を膝の上から頭の上まで振り上げた時の、指先で氷をなぞったような感触がまだ残っている。指先で冷たい水をすくった後に似た感覚だ。
後ろから、由紀の荒い吐息も聞こえてくる。どこまで走り続けなければならないのだろう。カミヤの息は上がっていない。
「何か騒がしくなったような」
由紀は足を止めて、後ろを振り向いた。
「本当?」
僕も止まって耳を澄ませる。確かに、まだ距離は遠いが、何重もの足音が響いていた。全て慌てた様子で、暴れているみたいにうるさい。
カミヤは呑気に煙草に火をつけながら振り向いた。
「バレたんだろうね。村の雪女が詰めかけてきたんだろう。銀霰姫が、他の銀霰候補を全員、殺したって言ってたし。もし由紀ちゃんが見つかったら、生贄確定だね」
煙を吐きながらカミヤは話す。
「彼らも必死だろうねぇ」
僕は目を閉じて、耳に意識を集中する。
足音は五個や八個ではない。何十もある。発生源は散らばっていて、いろんな方向から聞こえてくる。全く見当違いの方向に離れていくものもあれば、こちらに真っすぐ近づいて来るものもある。手分けして僕たちを探しているのだろう。
「これ、外に出られなくないか?入り口で絶対に待ち構えてるだろ」
どこかに隠れて身を隠したりでもするのか、と言葉を続けようとするとカミヤが遮った。
「大丈夫。地下道を通るから。ちょうどもうすぐ着くよ」
カミヤはまだ火の付いている煙草を、そこら辺の座敷に投げ捨てて歩き出した。
そこから角を二つ曲がり、三つ目の部屋に入った。カミヤは奥の押入れを開けて、僕にライトの点いたスマホを渡してくる。僕は横からカミヤの手元を照らす。
押入れの床には、扉があった。カミヤはそれをこじ開ける。地下へと、暗い階段が続いていた。
「ここだよ」
カミヤは身を屈めて中を潜った。僕は先に由紀を入れて、最後に入る。「押入れと、そこの扉閉めといてね」とカミヤが言ったので、両方とも慎重に閉める。
「久しぶりに入ったなぁ」とカミヤが歩みを進める。「相変わらず陰気臭いなぁ。そんなに距離は長くないってのが救いだ」
僕と由紀はそれぞれスマホを出してライトをつけて前方を照らす。三つ同時に点けたスマホのライトの力は偉大だ。一気に明るくなる。さっきの行燈と蝋燭の廊下よりもずっと明るい。ただ一歩進むたびにライトが照らしている円が上下に大きく揺れるのが気になる。
地下道は、二人が並んで歩くと、時々どちらかの肩が壁にぶつかるだろうというくらいの幅だった。高さは、かがまなくてもいいが余裕が有り余っているという程でもない。身長が百八十を超えるようだと危ないかもしれないが、そこまでの長身はこの中にはいない。ただ、若干カビ臭い。
中学の修学旅行で訪れた沖縄の防空壕を思い出す。どこかジメジメした、気持ち悪い空気の感じは似ている。あれは鍾乳洞の洞窟だったが、こっちは木や石でできた言い訳程度の壁があるからマシだ。地面には微妙に凹凸がある土だが、これも鍾乳洞より断然マシだ。
ただ、足音やお互いの息遣いは響く。湿った土みたいな匂いがして、あまり息は吸いたくない。数十分ならまだしも、何時間もモグラみたいにこんな中にいるのは勘弁だ。
僕は横の壁を伝うように触りながら歩いていた。たまに指がひっかかる。
「これ、ちょくちょくヒビ入ってるけど、大丈夫なのか?」と尋ねた。
「まぁ、そのうち壊れるかもしれないけど。この十分くらいでいきなり崩れるってことはないでしょ、多分。恐らく。十中八九」
「……この通路、通る前に壊れてたらどうしてたんだ?」
「さぁ?」
カミヤはとぼけたような声を出す。僕は絶句する。
由紀は「こんな所があるなんて、私、初めて知ったんだけど」と言った。「なんで、あなたが知ってるの?他の雪女は知らないの?」
「あいつらは知らないねぇ。限られた者しか知らないよ。俺がその限られた者だった時があって、代々、銀霰姫とその側近に教える役目の一人だったんだけど、俺は教えずにいたんだな。俺が他の側近に教える任せとけって言っといて、黙ってた。そのうち他の奴が死んで、銀霰姫も変わったタイミングで、ふと俺しか知らなくなった時が来た。それでも、ずっと黙ってた。だから誰も知らない」
「なんで」由紀が尋ねた。「なんで、そんなことするの?この地下通路は助かってるけど、他にも、いろいろ」
「だって、退屈じゃん。深い意味なんてないよ。適当な自己完結のおふざけさ。ばれないかな、ってスリルはあったな。まだしてない変な事をしてなきゃ、退屈で鬱って自殺しちゃいそうになるからね」
由紀の、信じられないという横顔がチラリと見えた。気持ちは分かる。しかしコイツと長く一緒にいると常識が通じない瞬間に頻繁に出くわしすぎて慣れてくる。一々、驚かなくなってくる。
「雪女に戦争なんてないだろ?」と僕はカミヤに言った。「こんな、防空壕みたいな地下通路、というかトンネル?そもそもいらないだろ。こんな山奥に」
「今はないけど、昔はあったんだよ。妖怪の世界にも戦争。突然、他の妖怪の襲撃を受ける時とか雪女が日本の覇権を握るまではあった。違う種族が一緒にいると争い始めるってのは、どこにでもあるもんだ。昔の話で最近はないけど。この地下道は銀霰姫を逃がすための通路として作られたんだ。正直、銀霰姫は強いから逃がす必要どころか守る必要すらないんだけど」
カミヤはクックックッと、興奮したフェレットのように鳴く。
「今頃、あいつら、屋敷中をいないいないって探しているだろうね。お気に入りのおもちゃが見つからないっておもちゃ箱をひっくり返して泣き喚く子供みたいにさ。ざっまぁみろ」




