第七十八話 キスと裏切り
「まぁ、落ち込むのは後でもできるんだから。今度こそ逃げるよ。あ、でもアレ回収してからね」
カミヤは落ちていた氷具をササッと回収してきた。僕の手首を掴んで、自分が立つついでに、下から上に引き上げた。
カミヤの手と僕の手首はぺったり触れ合っていた。これまで、由紀やカミヤの肌に触れた時は毎回、氷の上に手を当てているようだった。夏ならひんやりとして気持ち良いが、一分もすれば冷たすぎて放したくなる。そんなことがよくあった。
しかし今、カミヤの手の温度と僕の手の温度は同じだった。以前みたいに冷たいとは感じなかった。むしろ、少し暖かい人肌にすら感じられた。
僕、由紀、カミヤは急いで部屋を後にしようとする。
廊下に出ると、持ってきた荷物がある。僕が手に取ろうとすると、カミヤが「弓矢とリュックだけでいいよ」と言った。ゴーグルやニット帽などの防寒具を指差している。
「もうこんなのいらないでしょ?というか、俺もジャケット脱いでるんだし君も脱げば?寒くないでしょ?」
確かに、寒いとは全く思わなかった。雪が舞うように降っていて、夜の空気は澄んでいるのに、僕にとってはすこぶる適温だ。しかし防寒具を脱がなかった。脱いでしまったら僕の中の大事なものが一緒に剝がされていってし舞うような気がした。今、身に着けているこの分厚い防寒着が人間としての最後の砦なのだ。
「待て!!逃げるな!!」
銀霰姫が、ギンッと僕たちを睨んだ。しかし、足は亀裂が入っており立ち上がれないようだった。右手は串刺しだ。唯一残っている左手を真横に振り、つららを飛ばしてくる。しかし狙いはでたらめで勢いも弱い。
僕たちは座敷の部屋から逃げ出すように、完全に廊下に出る。氷は座敷の入り口を飛び出して、縁側の外に飛んでいく。
廊下の歩いてきた道を、カミヤを先頭にして走る。後ろから銀霰姫の声が反響して聞こえる。
「逃げるなぁ!手紙を送ったのは昼間なのに、まだ来てないのか!?ノロマが!誰か!!追えぇ!追えぇ!許さない!忘れるな!次に呪われるのは、お前だ!!」
怨嗟の滲む声に恐怖を感じる。僕はそれを無視して走り続ける。意識を後方から逸らすために、前を走るカミヤに話しかける。
「来た時に通ったルートと違うけど」
「ここは入り組んだ迷路みたいになってるからね。裏道を使ってもいるし」
何度も角を曲がる。基本的には廊下には行燈か蝋燭が置いてある。時々、天井にも明かりを吊るしてある。しかし基本的にはどの道も少し暗い。外の月明りも星の光も届かない。何も明かりを置いてない廊下では、目の前が真っ暗で洞窟を進んでいるような気分になった。
七回か八回ほど角を曲がった時、二つの人影が現れた。
屋敷の門から銀霰姫の座敷まで僕たちを連れて行った、従者の雪女二人だった。
二人は廊下に横並びに立っていた。同時に小さく「アタタ」と呟くと、五本の指の爪の延長するように、氷が形成されていった。鍵爪のようにも見えるし、氷の爪は長すぎて、指の先に三十センチの物差しをつけているようにも見えた。
僕は「アブダ」と呟く。呟いてから、自分が呟いたことに気付いた。生まれてから自然に息をすることができるみたいに、本能で呪文を唱えていた。ずっと前から覚えてたみたいな感じだ。前方へ、つららが飛ぶ。
二人は素早く手を振る。左右の手の全ての指から伸びた氷の爪で、全てのつららを切り落とす。そして僕らの方へ突進してくる。
僕たち三人が固まって立っている所へ、左右からそれぞれ十本ずつの氷の爪が水平に振られる。近くで見ると、爪の内側はカッターのように鋭く、このまままともに振りぬかれれば三人とも胴体が真っ二つになるのではないかと思った。
「ニラブダ」
僕と由紀が同時に唱えた。つま先の床から、分厚い氷を出す。右側から迫る氷の爪は僕の氷の盾と衝突する。
僕は右側を守った。由紀の氷の盾は左側を守っていた。雪女の二人の氷の爪はもしかしたら氷の盾すら切り裂くのではないかと思ったが、そこまでではなかったようだ。半分ほど抉れただけだった。
カミヤが二人の雪女の間に素早く入り込む。左手を左の雪女に、右手を右の雪女の腹部に当てる。
「アブダ」
カミヤの左右の手の平から、放射状に氷が形成されていく。それは雪女二人の背中の外にも伸びていた。
カミヤは両手から氷でできた豪華な花が生えていた。その花びらと茎に雪女の体が貫通していて、背中から突き出ている。お洒落で、残酷だった。
手に咲いていた花を、カミヤはあっさりを捨てた。雪女の体も地面に転がる。体はぐったりとして、再び動き出す気配はなかった。
「ナイスコンビネーション」
これだけ、カミヤは言った。
案内役の雪女と戦った廊下から、さらに三度曲がった。なかなか外に出れない。というか、来た道を通った方が早く出られていた気がする。これを簡単にカミヤに伝えると、
「簡単な地下の道があるんだよ。銀霰姫とか限られた奴しか知らない。そこを通ると、少し離れた場所に出る。門から出て行って、大量に押しかけてきた雪女に鉢合わせたら面倒くさそうだからね。関わり合いにならないなら、その方がいい。あ、ちょっと待ってて」
カミヤは僕と由紀を廊下に置いて、目立たない地味な小部屋に入っていった。僕と由紀は頷いて、壁にもたれる。息が上がっていたので、少しばかりの休憩はありがたかった。
何か持ってくるのかと思ったが、カミヤはしばらく待っても出てこない。
「何をしてるんだろう?」と由紀が聞く。
「わからない。あいつの行動は深く考えるだけ無駄だよ」
「そうだね。別の事を考えることにする」
いつの間にか僕と由紀は手を握っていた。僕が前を走っていて、引っ張ろうとして握ったままだったのだろう。手を繋いだのは、温泉旅行に行った時以来だ。数日前の事なのに、数年前の事のように感じる。
「結局、駄目だったね」由紀が言った。
「そうだね。でも、無事に帰れるんならいい」
「春樹は無事じゃない」
「由紀が無事なら、だよ」
「私のせい、だよね」
「いや、銀霰姫のせいだよ。あとカミヤと、僕のドジと。由紀はただついて来ただけだ」
由紀は何も言わなかった。何秒か待っても言葉が返ってこなかった。僕は壁の木の模様をボンヤリ見ながら話していたが、由紀の様子が気になって隣を見た。由紀は泣き出しそうな顔をしていた。
「そんなに思いつめなくても大丈夫だよ。分からないけど、どうとでもなるさ。そんな気がする。根拠はないけど、全部、由紀と一緒だと大丈夫な気がする」
由紀は黙ったままだった。壁をジッと見たままの、目頭に力を入れたような険しい顔は変わらない。
もういいんだよ、と僕は言ったが、全然良くはなかった。しかし今の優先順位は自分の身の事よりも由紀の元気の方が先に感じられてしまった。まだ、自分が雪女になってしまったという実感がないというのもある。
「僕は早く帰って弘に会いたいな。遊ぶ約束したんだよ。この雪山に登る前にも、連絡したんだ。早く会いたいなって。アイツとは付き合ってないから安心していいよ」
僕は冗談めかした明るい調子で言った。由紀は顔色を変えなかった。由紀からすると、僕は地獄に片足を突っ込んでいることを知らない哀れな人間に見えてるのだろうか。
「実はね……」と由紀が何か言い出そうとした。
「何?」と聞き返そうとした所で、扉の向こうから話し声が聞こえた。カミヤの声だった。僕は出そうになった言葉を喉元で止めた。
誰かと話しているのだろうか。だとしたら誰と?味方、なのだろうか。
扉の向こうからぼそぼそ聞こえる。カミヤから「開けるな」と言われていたが、開けようとした。しかし扉は引っ掛かって開かなかった。鍵がかかっている。
再び扉に力を入れようとすると、ちょうどカミヤが扉が開いてカミヤが出てきた。
「ちょうどよかった。春樹、ちょっと来い」
カミヤは僕を部屋の中に入れた。
部屋の中には誰もいなかった。部屋は四畳半ほどで狭く、隅の台に固定電話が置かれているだけだった。
「電話、通ってたのか」と僕は言った。
「この部屋だけね。衛星電話だ」
「というか、電話なんてしてる場合じゃないだろ」
「してる場合なんだよ。今を逃したら二度とできないかもしれないだろ」
「意味が分からないんだけど。何言ってんだお前」
なぜか熱っぽい口調のカミヤに、少し嫌気がさす。こういう時のコイツはウザい。あまり相手をしたくない。
僕は溜息をついた。
「まぁいいや。さっさと終わらせてくれ。早く行こう。時間がないんだろ?」
「それが春樹、お前に電話なんだよ」
「僕に?誰?」
「いいから出てみろよ」
「……」
僕は固定電話の受話器を手に取る。受話器は台の上に外されて置かれていたから、電話は繋がったままで、僕とカミヤの会話は筒抜けだったということになる。
受話器を耳に当てる。
「もしもし」
「……春樹か?」
「……弘?」
衝撃で体が跳ねそうになった。不意打ちだった。最後に会ったのは三週間前なのに、耳に届く声が懐かしくて堪らなかった。ただ、弘の存在は今の僕たちを取り囲む殺伐とした現状に全く馴染まない存在に思えて、不思議な感じがした。油の中に水が混じっているように。
しかし僕の中では、不思議さよりも声を聞けた嬉しさの方が勝ってしまった。
「どうしたんだ?電話なんて寄越して。久しぶりだな。元気にしてるか?もうすぐ帰れるよ」
僕ははしゃいで、一気に喋りかけてしまった。
しかし、弘は何も答えなかった。ここで、僕はようやく何か様子がおかしいことに気が付いた。
弘は暗い声で言った。
「春樹、今の話、本当か?」
「今の話って、何?」
「嘘だよな?そう言ってくれよ」
「何言ってるんだよ、弘。どうしたんだ?」
「俺が教えた。全部」
背後から、カミヤの声が聞こえた。僕は首を少し後ろに回してカミヤを見る。
「雪女の事も、マカハドマの事も、全部。実は、一時間前のゆったりしてた時、銀霰姫が裏切る前に、電話してた。今、顛末を教えた」
カミヤはこう言った。受話器の向こうから弘の問い質す声が聞こえる。
「春樹、嘘だよな?そいつがホラを吹いてるだけだよな?」
僕は黙ったままだった。後ろでカミヤがニヤニヤしていた。
「春樹ぃ、弘は由紀ちゃんが雪女で、君がただ事ではないことに巻き込まれてるって気付いてたよ。本当は気付いてるんだ。あと、君の一言で証明は完了、QEDなんだよ。これ以上、苦しめないでやれよ」
「春樹、俺は、お前を信じてた……答えてくれよ……何でも、言ってくれてたじゃないか……」
僕は何も答えられなかった。それが、答えだった。
「そうか……」
弘は静かな声でこう言った。
「春樹、お前がこのまま由紀ちゃんを連れて行ったらどうなるんだ?カミヤから聞いたんだが、また氷河期が訪れるってことにならないよな?」
「そうなるよ、確実に」
カミヤが受話器に近づいて後ろから口を挟んだ。
「証拠に六出の杖を取りに行くときに雪女を殺す動画、送ったでしょ?由紀ちゃんは雪女なんだよ。現実逃避はやめなよ」
僕は何も言えないままだった。弘は死にそうな声を絞り出している。今、どれだけ苦痛に満ちた表情をしているのか、僕は知ることができない。
「嘘だ……何かの夢だ……突然、こんな電話が掛かってきて……何か言ってくれよ……」
お互いに何も言わない時間が流れた。受話器の向こうから、弘の嗚咽に近い声が聞こえていた。
「なぁ、春樹……頼む、行かないでくれ……」
弘が、懇願するような声で言った。
僕の体が硬直する。目だけを斜め後ろに動かす。由紀の姿を見る。
「ごめん……」
僕はこう言った。
遠くから、物音がした。大勢が廊下を踏み鳴らす足音だった。慌ただしく走っているようだった。
「時間切れだ!行くぞ!電話を切れ!」
ひたすらニヤニヤして僕の様子を観察していたカミヤは叫んだ。
僕は歯軋りをしながら、受話器を台に置いた。電話が切れる直前に、弘は何か言ったが聞こえなかった。
部屋を出ようとすると、立ち尽くしていた由紀と目が合った。
僕は由紀の手を取って、引っ張った。僕が少し強めに手を握ると、由紀も強く握り返してきた。
カミヤが「行くよ」と廊下を走り出そうとすると、由紀は「あと、ほんの少しだけ待って」と言った。
由紀は僕の方に一歩近づき、目を閉じて顔を近づけてきた。お互いの唇が触れ合った。時間が止まった。僕もそっと目を閉じた。
この日、僕と由紀は初めてのキスをした。
やがて、くっついていた唇が離れる。目を開くのは、僕の方が早かった。至近距離の由紀の顔が見えてドキリとした。かわいいと思った。長い睫毛の生えた瞼がゆっくりと開かれて、由紀の目と僕の目が合う。由紀は照れてはにかんだように笑った。僕も同じような反応だった。
「行こう」
僕は由紀の手を引いて駆け出した。




