第七十六話 ドームと記憶
体がズルズルとドームの中に背中から沈み込んでいく。背中、後頭部、耳へと侵入していくのが分かる。全ての動きがスローモーションに感じられる。
ドームに入り込んだ箇所は重力が曖昧になって水中のような感覚がする。しかも肌に触れると氷水みたいに冷たい。
僕は目を閉じて、息を止めた。体は爪の先までドームの中に全て入り込んでしまった。
重力を失った自分の体がゆっくりと落ちていく感覚が変に感じる。視界も暗いままで、本当に氷水の中に沈んでいくみたいだった。南極の海に放り出されたらこうなのかな、という呑気な感想が頭をよぎった。
床に尻もちをついた。鼻骨の部分にちょうど床が当たった。両手の手の平をぺったりと地面につける。
ようやく僕は恐る恐る目を開ける。
「えっ?」
僕は再び呟いた。突然切り替わった光景に戸惑った。
円の紋章のちょうど真ん中に尻もちをついていた。そこからドームの内側からの景色が見えた。内側は濃い青と白色と水色の空気が混じりあいながら流れている。息はできるから、水ではないようだ。僕は周囲を見回したが、この光景は僕の全身を取り囲んでいた。
見惚れてしまいそうな光景だったが、今はそんな場合ではないし何より寒すぎてどんどん体力が奪われていく。体の表面の感覚がなくなって震えている。
何でもいいから、早く出なくては……
手の甲に違和感がした。粘着力の高いセロテープを貼り付けられた感覚に近い。薄い氷が、手の表面に膜を張っていた。
急に、体の表面から体の芯へと冷たさが沁み込んでき始めた。骨が凍っていくみたいだった。手の甲を見ると、僕を取り囲んでいる紺色の空気が体の中に入り込んでいるのが見えた。
ヤバい、このままだと死んでしまう……
外の景色がぼんやりと見える。由紀が口を大きく開いて叫んでいる。が、声は聞こえない。由紀は手を伸ばすが、手はドームの表面にぶつかった。中の青い空気が微妙に揺れる。
僕が入り込んだ瞬間にドームの表面は硬くなったようだった。外側と内側が仕切られてしまって、出入りできないようになってしまっていた。僕も内側から手を伸ばすが、指が外に抜けることはできなかった。
突然、ピキリと頭痛がした。それは頭の右前方から始まって、すぐに頭全体に広がった。僕は両手で頭を抑える。
頭痛に耐えかねて目を閉じようとした時、ドームの裏側に何かが動いているのが見えた。外が反射して映っているのではない。何かの映像だった。それがいくつもあり、広がったり縮んで消えてしまったり、新たに現れたりしていた。
当初、映像はぼやけていたが、次第にハッキリと映し出された。ドームの内側に映し出されているが、直接、僕の頭の中に流れ込まされているみたいでもあった。ドームの内側と僕の頭の中は同じ状態だった。脳の裏に映写されて強制的に見せられる。目は開いているが視界は機能しておらず、完全に頭の中だけを見ていた。
一面の雪の積もった景色だった。三百六十度、見渡す限りどこまでも白く分厚い地面が続いていて、空は灰色の雲で蓋をされている。吹雪が横から激しく吹き荒れていて、六人の人間が立っていた。
一人を中心にして、五人が一人の周りを取り囲み、膝をついて祈りを上げていた。僕にはどういうわけか真ん中の一人が銀霰姫であることが分かった。そしてそれが、まだ地球全体が氷に覆われていた頃の出来事であることも分かった。
次に頭の中に流れ込んだ映像では、一人を百人以上で取り囲み、祈りを捧げていた。先ほどの映像とは全て人が変わっている。大分、時間が流れたようだ。地面には雪がなくなり、草花が生い茂って暖かくなっている。
祈りは頻繁に行われた。太陽の光が差し込んでいる日も、夜空に月が静かに昇っている日にも。何百回、何千回、もしかしたら何万回かもしれない。
僕はそれを同時に眺めた。一回を一瞬だけ見たような気もするし、一部始終を全て見ていたような気もする。一瞬が永遠のようであり、永遠が一瞬のようにも思えた。
一人の雪女が、荒野を歩いていた。この時には、既に僕は彼らが人ではなく雪女だという事がはっきりと分かっていた。その雪女の後ろに、もう一人、雪女が後を追うように歩いていた。
先を歩く雪女が足を止めた。そこだけ不自然に木々がなかった。雪女が何かを呟くと、巨大な氷の部屋が現れた。
二人はその部屋に入っていった。しかし出てきたのは一人だった。
やがて時が経ち、その出てきた雪女は同じように別の雪女を連れて山を登り、氷の部屋を出した。部屋から出てくるのは一人だった。
映像が切り替わった。
次に見せられたのは、誰かが何かから逃げている時の視界だった。夜の暗い茂みだった。息は切れ切れで、足が限界なのか、視界は大きくブレている。
千五百年前の記憶だ。
♢
追いつかれたら終わりだという恐怖が、体中に充満している。あと少しでも恐怖を与えられれば、体か脳が破裂して、自分を保てなくなるだろう。
右足の太ももに激痛が走った。前のめりにこけて、地面に思いきり頬をぶつける。顔が泥まみれになる。
恐る恐る足の方に目をやると、鋭いつららが自分の足を貫いていた。目を閉じたのか、視界が暗くなる。続けて、叫び声が聞こえた。自分の声が鼓膜が響く。声の雰囲気からして、小学か中学もいかないくらいの少女であることがわかった。そうだ、私は銀霰姫にされるのが嫌で逃げていたんだ。それがバレて、追いかけられている。
最悪だ。従順に銀霰姫になった者は尊敬され、ある程度の自由が与えられるが、反抗した者は手足を切り落とされ、蔑みの対象として誰とも話すことを許されず、薄汚い物置きの様な場所で生かされる。数年後、自分の死に際に次の者に銀霰姫を渡すまで。
私は後者になってしまったのだ。分かっていたのに、怖くて足が勝手に動いてしまった。だって、まだ、十三年しか生きてない。こんなの耐えられないよ。
涙が、ボロボロと流れてくる。泥だらけの頬を伝う。肘で這うように前に進む。
背後から足音が聞こえて、自分の後ろで止まった。振り向くと、十ほどの雪女、そして銀霰姫。
先日、私と話した時の銀霰姫は優しい笑みを浮かべていた。その時は「辛いでしょうけど、これはあなたに与えられた使命なの。あなたにしかできないのよ」と言われた。
しかし今は、最大級の侮蔑を与えるような目つきで、私を見下ろしている。
「お前だけ、呪われないなんて許さない」
こう、言われた。この銀霰姫は穏やかで慈悲深いと評判だった。誰もがこの銀霰姫の死の運命を惜しみ、感謝の念を捧げるために最近は毎日、夜に祈りを上げていた。かつて、天牢雪獄がまだ存在しない頃に、銀霰姫を受け継がせる時のように。
銀霰姫は、私の左足にもつららを突き刺した。私は叫び声を上げる。もう逃げられない。
どうせ、足は切り落とされて歩けなくなる。でも、もっと走り回りたかった。
これから何年、我慢しなければならないのだろう。早く死が訪れてほしい。五年後か六年後、十八歳か十九歳だろうか、私が死ねるのは。親戚のお姉さんは、その年頃に結婚して幸せだったのにな。
もう私はこの運命から逃れることはできない。
だから、未来の誰か、お願い。いつか。
この馬鹿げた、銀霰姫という存在を、殺して。
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