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第六十五話 地獄と氷河期


「この世には様々な形の地獄が存在します。地獄は八つの顔を持っています。仏教で言う所の、『八大地獄』という物です。


 罪の軽い者は一つ目の地獄に、最も罪の重い者は八番目の地獄に送られます。一つ目の地獄から順番に、等活とうかつ地獄、黒縄こくじょう地獄、衆合しゅうごう地獄、叫喚きょうかん地獄、大叫喚だいきょうかん地獄、 炎熱えんねつ地獄、 大炎熱だいえんねつ地獄、阿鼻あび地獄 となっています。


 これら文字面から分かるように、八大地獄は炎や熱に関する地獄なのです。


 等活地獄では鬼に体を切り刻まれては生き返るのを繰り返し、阿鼻地獄では舌に百本の釘を打たれてこの世の物とは思えない怪物に襲われながら熱せられた鉄の山を登るのです。それらの責苦を焼かれるような熱さの中で受け続けるのです。自分自身が誰であるかも忘れてしまい自我を失ってまでも。


 元々、地獄には釜茹でみたいに熱い印象がありますが、それはこの八大地獄から来た物だからです。なので、この八大地獄は別名で『八熱地獄』とも呼ばれています。

 そしてあまり知られてはいませんが、炎熱地獄とは別に、八つの氷の地獄も存在するのです」


 ここまで言い切って、銀霰姫は深く息を吸った。


 突然何を言い出したのかと、僕は戸惑っていた。どうして氷の姫が炎熱地獄について語りだすのかと思った。雪女という妖怪が地獄なんて空想を大真面目な顔をして説明しているのは、あらゆる常識を飛び越えて滑稽にすら感じられた。


 しかし元々、僕自身は雪女という妖怪を爪の欠片ほども信じていなかった。正直、今もまだ現実感がない。だが、そのありえないと思い込んでいたが確かに実在していた存在が真面目に地獄の存在を語るのなら、それもありえない話でもないという理屈も、通ってなくもないように思えた。


 銀霰姫は息を整えて続けた。


「この氷の地獄も八つあり、八熱地獄と対比させて八寒地獄と呼ばれています。通常、八大地獄と言えば八熱地獄ですが、実は裏に八寒地獄が存在するのです。その八寒地獄の八番目の地獄が摩訶鉢特摩マカハドマ地獄なのです。


 第一の地獄から順番に、頞部陀アブダ地獄、尼剌部陀ニラブダ地獄、頞哳吒アタタ地獄、臛臛婆カカバ地獄、虎虎婆ココバ地獄、嗢鉢羅ウバラ地獄、鉢特摩ハドマ地獄 、摩訶鉢特摩マカハドマ地獄 、と言います」


 聞き覚えのある音が混じっていた。時々、由紀やカミヤが氷を出すときに言っている呪文だ。特に意味のない文字の並びだと思って気に留めていなかったが、氷の地獄の名前だったのだ。


 由紀の口から「アブダ」「ニラブダ」「アタタ」「カカバ」までは聞いた事がある。それから先は由紀から聞いたことはなく、カミヤの口から新潟で「ココバ」を聞いた事がある。第四の地獄だ。


 第一の「アブダ」ではつららを飛ばしたりしかしてなかったが、第三の「アタタ」では土管のような氷を何本を肩甲骨の後ろから出して振り回していた。カミヤが使った第四の地獄「カカバ」では、氷の翼を背中から出現させていた。


「マカハドマ地獄は八寒地獄の中で、最も惨い地獄です。別の名前で『大紅蓮地獄』と呼ばれています」


「大紅蓮地獄……」


 物々しい名前に、僕はつい口に出して呟いてしまった。紅蓮とは赤色のことで、なぜ氷なのに紅蓮なのだろうという疑問が浮かんだのもあった。

 銀霰姫は僕の疑問を見透かしたように説明を続けた。


「大紅蓮地獄の由来は、極寒のためにこの地獄に落ちた亡者の体が折れ裂けて紅色の蓮の花に似るからです。八熱地獄とも共通して言えますが、第七の地獄と第八の地獄では格が違う。第八の地獄は、第一から第七の全てを合わせてもまだ広く、この地獄の前では第七の地獄を極楽に感じるというほどです」


「そのマカハドマが、今の由紀や銀霰姫に何の関係があるのですか?」


 とうとう耐えきれなくなって僕は尋ねた。

 銀霰姫は息を吸い、覚悟を決めたように言った。


「信じてもらえるか分かりませんが、マカハドマは実在するのです」


「は?」


 何を言ってるのか分からなかった。そんな血塗れの氷の地獄なんて、そんなすぐに信じられる訳がない。少なくとも僕の知る限り、どんな地獄はどこにもない。雪女は信じているが、半信半疑だった地獄の存在の方は一気に疑いに大きく傾いた。

 僕の懐疑的な表情を察したのだろう、銀霰姫は残念そうに言った。


「やはり分かってもらえませんか。当たり前と言えば当たり前でしょうね」


「だって、マカハドマなんて言葉、今日初めて知りましたし、見たこともありませんから」


「見たことがないというのは、それもそのはずです。なぜなら、マカハドマを消したのは私たち雪女なのですから」





 村にたどり着いた時には寒々とした水色の空が広がっていたのに、いつの間にか日はだんだんと沈み始め、隣の山に太陽が隠れようとしていた。

縁側から足元に差し込む太陽の光もオレンジ色に変わっていた。周囲からあらゆる物音が取り除かれているように思えた。


 雪女がこの世に存在していた氷の地獄を消していた?


 僕はこういう意味の説明をした銀霰姫を凝視していた。

 銀霰姫の表情は見えないままだった。この座敷に入ってきた時から、銀霰姫は姿勢や体の向きを時々変えるだけだ。僕と銀霰姫の間は簾に遮られて、顔は薄暗くて見えないままだ。夕方になり始めてより薄暗さが増しているような気がする。華やかな着物と綺麗な響きの声を出す唇が動くのだけが見える。


 他の大勢の雪女とは違って銀霰姫は理知的な雰囲気を纏わせていた。話し方も丁寧だった。雪女の女王なのだからいい加減なことは言わないだろうし、言ってる様子ではなかった。しかし言ってる内容は信じきれるものではなかった。


「正確には止めている、ですが。マカハドマを消している、ではなく」


 銀霰姫は小さな訂正をした。


「おとぎ話か、いつから続いてるか分からない言い伝えですか?」と僕は尋ねた。


「いえ、本当のことです」


「そんな話、聞いたことがない。……証拠は?」


「証拠なんてありません」


 僕は自分が馬鹿にされているのではないかと疑っていた。銀霰姫の真剣な雰囲気からは、言いたいことを信じてあげたくなる気持ちになるが、まだ会ったばかりだ。警戒心が少し緩んでいたが、再び引き締まってきた。


「だったら信じられるわけないでしょう」と、僕は空笑いしながら言った。


 僕は笑ったが、横に立っている由紀とカミヤは黙ったままだった。こんな下手な作り話に口元をピクリとも動かさない。二人とも銀霰姫の話に笑ったり疑問点を突っ込んだりせず、既に常識として知っているみたいに、何も可笑しいことなどないというように、銀霰姫に喋らせている。これが僕に下手糞な笑いを止めさせた。

 背筋がゾクゾクしてくるのを感じた。そして横の二人から銀霰姫の方に視線を戻した。


「……何を言ってるんだ?」

 僕はわけが分からなくて呟いた。


「元々、この世界は第八の地獄、マカハドマだったのです」


「この世界って、どこのどの場所のことを言っているんです?」


「全世界ですよ。日本も、イギリスも、ブラジルも、インドも、アメリカも。あなたが生まれ育った場所もですよ」


「ありえない」


 銀霰姫は両腕を左右に広げた。着物が畳と擦れてファサッという音を立てる。


「この世は元々、阿鼻叫喚の地獄なんです。ここにいる人間たちはその地獄に堕ちた人間なのです。ここが天国でないのは分かるでしょう?この世に天国があるとすれば、本来それは自らを取り囲む世界ではなく、自分の頭の中だけにしかないのです。天国は、この地球という地獄ではない。でも、そんな天国に近い暖かい場所にいるから、こんな地獄にいて、呑気で幸せな気持ちで想像できるんです。私たちのおかげなのですよ?」


「……つまり、この地球が暖かいのは、僕たちが暖かく暮らせているのは、雪女のおかげだと?雪の妖怪の?」


 矛盾しているじゃないか、と付け足して僕は口にした。


「そうです。雪と氷の妖怪のはずなのに、皮肉なものですね」


「この世界に氷なんてないじゃないか。南極ぐらいにしか」


「ずっと昔からありましたよ。氷河期はご存知ですよね?」


 突然の単語に僕は驚いた。


「氷河期なんて、どうしてそんな何万年も昔のことが出てくるんですか」


「その、氷河期がマカハドマなのです」と銀霰姫は言った。そして小声で「地球は誕生した時はもっとひどく、何億年も全てが氷に覆われていましたが。いや、地獄が作られた時でしょうか」と独り言のように呟いた。


 頭は完全にキャパオーバーだった。混乱して、何か説明されてもスムーズに理解できなくなっていた。


 縁側から、何かがにじり寄ってくるような足音が聞こえた。案内役の二人が行燈を持って部屋に入って来た。後ろを振り向いて外を見ると、もう日が暮れかけていた。冬はあっという間に日が沈む。


 二人はカミヤと僕との間をすり抜けて、座敷の中に何カ所か行燈を置いていく。この部屋に来る時にはよく観察しなかったが、四角い木の骨組みに薄い和紙が張っていて中に蝋燭が入っているのが上側からよく見えた。


 最後に廊下の入り口に行燈を置き、案内役の二人は膝と手を床につき、頭を下げて出て行った。

 二人が明かりを置いている間、銀霰姫は何も言わなかった。終わるのを待っているらしいと察して、僕は深く息を吸ってひたすら自分を落ち着かせていた。しかし二人が縁側を通って帰っていく時になっても、冷静さを取り戻すことはできなかった。


 銀霰姫は話を再開した。


「地球は本来、極寒の地で生物が生きていくには過酷な、大紅蓮地獄そのものでした。少し氷河期が和らいでも再び気まぐれに訪れればそれまで増えていた多くの生物が死に、地獄絵図となります」


 銀霰姫は小さく息を吸って言った。


「つまり、氷とは地獄なのです。地球とは第八の地獄マカハドマなのです。そこで氷を操る妖怪が雪女なのです」



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