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第六十四話 利用と銀霰姫


 聞こえてきた声は穏やかな響きをしていた。


 女性は広い座敷の部屋の上座に座っていた。部屋は薄暗く、女性の前には簾が掛かっていて、顔は陰に覆われていてよく見えなかった。日差しは部屋の入り口で切れており、僕たちの足元を照らすのみだった。


 女性は白い着物の上に、赤と青と紫が入り混じった派手な着物を何枚も羽織っていた。平安の貴族みたいに着物の裾が長く、座敷に広がっていた。歩く時は誰かが裾を持って浮かしながら後ろを歩かないといけないのではないか。村にいた人々の安っぽい着物とは全く違う。


 喋り方からは優しそうな雰囲気が感じられた。声自体も鈴の音のように澄んだ声で聞いていて心地よかった。よく目を凝らしてみると鼻筋と唇までは薄く見えるが、目は見えない。黒くて長い髪が肘の辺りまで伸びていた。 


 この人が銀霰姫(ぎんようき)……


 僕は由紀とカミヤから少し聞いて恐ろしい印象を持っていた。老婆か、四十か五十くらいのおばさんかと思い込んでいた。厳格で威圧的な人物かと思っていた。小学四年の時の担任からそんな感じだった。その教師は理不尽に怒り散らし威厳は皆無だったが。


 前方に座っている女性は、そんな想像とは全く違っていた。二十代前半くらいに見えなくもない。美人な雰囲気が醸し出されている。姫というからにはもっと威厳があるべきなのでは?とすら思った。だが、見た目に惑わされてはいけない。本当は何歳か分からない。何百歳かもしれない。


「あなたたちは下がっていいですよ」

 銀霰姫(ぎんようき)は僕たちをここまで案内してくれた、後ろに待機している二人に言った。


 二人は「はい」と答えて立ち上がり、再び摺り足で先ほど来た縁側の道を引き返していった。座敷に沈黙が訪れる。


 最初に話し始めたのは、銀霰姫だった。


「そう気を張らないでいいですよ。ここには私たちだけしかいないのですから」銀霰姫はふと破顔して、クスクスと笑いながら言った。「少しお話するだけですから。私は争うつもりはありません。あなたたちもそうでしょう?」


 喋る時に動く唇がなんだか艶っぽくてドキッとする。理性で駄目だと思うが、なんだか無性に惹かれる。それをまた理性で否定する。もしかして僕の好きなタイプは雪女なのだろうか?危険すぎるな。いつか死ぬかもしれない。

 銀霰姫は丁寧に語りかけるような話し方で続ける。 


「ここまで来るのはとても大変だったでしょう。私はここから出られないもので。申し訳ありません。用が済んだら好きなだけここで休んで行ってください。改めて、ようこそお越しくださいました」


「いえ、とんでもない」


 僕はつい手を振って答えた。目が僕の方を向いていた気がして緊張してしまった。

 銀霰姫はクスリと笑い、カミヤの方に少し顔をずらした。


「カミヤもご苦労でした」


「本当に大変だったね。あんたみたいな老害ババアのわがままに付き合わされるのは骨が折れるよ」


 おい、と思わず僕は心の中で突っ込む。肘でカミヤをつつく。カミヤはアハハハと可笑しそうに笑っている。銀霰姫も笑っていた。


「ふふふ……相変わらず口が悪いですね。その口を凍らせて窒息させてしまいたい」


「俺はあんたの胸だけを上から凍らせてやるよ。そしたら氷の厚みで巨乳になるだろ?貧乳の姫なんてダセェからな。乳首の部分だけ氷を大きくしてずっと勃ってるみたいにしてやろうか?エロ姫って呼んでやるよ。あぁ、俺が男になった時に捨てた乳、あげればよかったなぁ?」


「口ではなく、せっかく付けた陰部を氷の刃で削ぎ取ってやろうかしら?そしたらその減らず口もなくなるでしょう」


「いっそのことお前のその貧乳をはぎ取ってやるよ。全部なくなってしまえばないと悩まずに済むだろ?」


 カミヤと銀霰姫の間で口汚い応酬が繰り広げられる。お互いに笑顔で悪意はないようだが、子犬同士のじゃれあいと同じにするには下品すぎる。


「私はうっかり、あなたが裏切ったのかと思いましたよ」


「何で?」


「勝手に色々やってくれたじゃないですか。私にはあなたの行動の意図が分かりませんでしたから。新潟の氷具を奪った時には敵だと思いました。味方ならば直接、私の所に連れてくると思いました。だから、つい由紀を匿ったものだと。全く、お前は昔から何を考えてるのか分からない」


「結果オーライだからいいじゃん。グチグチうるさいババアだな。あんたも俺じゃなきゃ無理って言ってたし。あと、何考えてるか分かんないのはお互い様でしょ?」


「……そうですね」

 銀霰姫は少し考えた後に言った。そして着物の袖を口に当てて笑いだした。


「ふふふふ」


「ふふふふふふふ」


 カミヤも呼応するように真似して笑う。

「ふふふふふふふふふふ」


「ふふふふふふふふふふふふふ」


「ふふふふふふふふふふふふふふふふ」


「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」


「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」


 銀霰姫とカミヤはタガが外れたみたいに笑い続けている。怖いんだけど。頭の中に「ふ」が流れ込み過ぎて、ゲシュタルト崩壊を起こしそうになる。同じ文字を見続けているとだんだん訳が分かんなくなってくる奴だ。


 二人の声が重なって重奏みたいになっているのを聞きながら、多分この二人は仲が悪いのだろうなと思った。隣にいるだけでギスギスしているのが伝わってくる。カミヤの銀霰姫に対する言葉はとげとげしいし、銀霰姫の方もカミヤが嫌いなのだろう。


 カミヤの性格は苦手な奴にはとことん苦手そうな性格な気がする。かく言う僕も、慣れてはいるものの好きではない。あと、銀霰姫のカミヤという存在にはいまいち掴み所がないのにも同意だ。


 ひとしきり笑った後で、銀霰姫は言った。


「まぁ、いいでしょう。確かに、結果として連れて来てくれたのですから。これまでの事は不問にしましょう」


「サンキューサンキュー、一休さん」


 カミヤは馬鹿にしたみたいに答える。


「でも、あまり勝手をしすぎると、容赦しませんよ?」


 その一言で空気がピリッとした。僕の方まで背筋に痺れのような物を感じる。冷たい声だった。先ほどまで笑い声を発していた銀霰姫の口元は固く閉じられていた。


 当のカミヤは「へいへい。さーせん」と言って庭の方を向いていた。


 銀霰姫は数秒間黙ったままだったが、やがて呆れたような溜息をついた。そして膝を立てて少し体を回転させて、由紀の方に向き直った。


「それから、お雪……今は由紀ですか、久しぶりですね」


「……はい」


 由紀は蚊の鳴くような声で答えた。


「何年ぶりでしょうか?六年?いや、七年?」


「……」


 由紀は何も答えなかった。銀霰姫が一人で懐かしそうに話している。


「あなたが逃げてしまったから、私が銀霰姫になるはめになってしまいました」


「その事は本当に悪いと思ってる。まさか次にあなたがなるとは思ってなかったの。ごめんなさい」


 ようやく由紀は言葉を発した。申し訳なさそうに俯いている。


「もういいんです。気にしてませんよ。あなたの方こそ、辛かったでしょう?」と銀霰姫は優しく包み込むような声音で言った。


 僕には二人の言っている事がいまいちよく分からなかった。なってしまって?番?そこまで皆が嫌がるのか?姫なのに?由紀は自由が束縛されるのが嫌で家出同然に飛び出してきたのではないのか?


「私にはどうしても嫌だった」

 由紀は涙声で続けた。

「……さっき、あなたが銀霰姫になるなんて思ってなかったと言った。けどやっぱり、頭のどこかではあなたに重荷を背負わすかもしれない事は分かってたと思う。幼馴染のあなたを身代わりにしたの。一生恨まれても仕方ないことをした。しかも何百年も同じ時を過ごした、一番の親友に。謝って済む事じゃないけれど、本当にごめんなさい」


 由紀は再び、頭を下げた。


「もういいと言ってるでしょう」と銀霰姫は言った。「それは最初は傷つきましたけど、どうせ私にも順番は回ってくるのですから。それにもう十分生きました。終わるきっかけをくれて感謝したいくらいですよ。あなたも十分、悩んで苦しんだんでしょう?私はもう気にしてませんから、この話はこれでおしまいにしましょう」


「うん」


 由紀は涙声で頷いた。


「そういえばさ」とカミヤが割って入った。「次の銀霰姫が決まったって本当?電話で言ってたじゃん。誰?」


「別の村の者ですよ。『吉乃』という青森の村の者です。知らないとは思いますが」


「あー、あいつかー。そんなに雪の力、強かったっけ」


「ギリギリという所ですね。まぁ大丈夫でしょう、心配しなくても、本人は選ばれたことを光栄に感じており、出身の村ではお祭り騒ぎだとか。私もホッとしています」


「へーそーなんだ」


 カミヤは自分で聞いておいて興味がなさそうに相槌を打つ。由紀は隣で安心したような溜息をついていた。


 銀霰姫はやっぱり選ばれて光栄な物なのだろうか?吉野という雪女にとっては、そうらしいが。だけど由紀はなりたくない。そこまで嫌なのだろうか?この目の前の銀霰姫は、銀霰姫の座を他に譲るのだろうか。まだ若々しく、寿命が短いということもなさそうだ。


「私からも謝らなければいけません」と銀霰姫が言った。「枝川と最澄を向かわせたのは失敗でした。特に枝川。私の前では猫を被ってたようですね。私には全く敵わないのを分かって。狼男には相応の罰を与えなければなりませんね」


 銀霰姫はクフフフフと不気味に笑う。怖いな。雪女は皆、優しいと思ったらふとヤバい一面を出してきたりする。由紀も例外ではない。カミヤはヤバい面の出現率が高すぎる。

 そして銀霰姫は膝を立てて少し体の角度を変えて座りなおした。最後に向き直ったのは僕の方だった。


「そして、そこの人間の方。あなたのことはずっと気になってました。一番最初にお話したかったくらいです」


「どうも……」


 僕は警戒しながらお辞儀する。


「あなたは実に興味深い……カミヤや配下の報告を聞くたびに疑問ばかりだった。あなたはどうしてそこまで、由紀のためにしてあげられるのですか?命の危険に巻き込まれたこともあるはずです」


「どうしてって」僕は少し考えて答えた。「好きだからですよ」


 そんな根本的なことを事を聞かれても困る。直角三角形の縦と横の長さを二乗して足すと斜辺の二乗になり、磁石のNとSを近づけると引っ張りあうみたいに当たり前のことだ。当たり前すぎる結果に一つ一つ長々しい証明なんて持ち合わせていない。


 カミヤから昔に受けた羞恥プレイを思い出す。愛しくて堪らなくて何でもしてあげたくなるという言葉が頭に浮かぶ。こんな事を言うのは馬鹿みたいに恥ずかしいけれど、僕は溢れる気持ちに従っているだけだ。心の中で呟いただけで体温が上がって焼け死にそうになる。

 銀霰姫は続けて尋ねてくる。


「本当に、あなたは彼女を愛してるんですか?」


「はい」


「本当にそれは、あなたの気持ち?」


「はい?」


「それは本当にあなたの心から湧き出てきたものかと聞いてるんです」


「勿論ですよ。この幸せだなって感じる気持ちのどこが嘘っていうんです?」僕は聞き返した。「そっちの言ってる事こそ、どういう意味なんですか?」


「何に巻き込まれているのか、あなたは分かっているんですか?」


「いいでしょう、その話はもう」


 由紀が会話を遮るように入ってきた。そして睨みつけるような目を銀霰姫の方に向けた。


「由紀……あなた、もしかして……」と銀霰姫は呟いた。「なるほど。納得しました。本当に、その人間は興味深い。面白くもあるし、可哀そうでもある。由紀がどう思ってるかの気持ちも知りたい所ですが……」


 可哀そうとはどういう意味だ?僕は少しイラっとした。何で勝手に憐れまれなければならないのだ。僕はこれまで幸せしか感じたことがない。

 しかし、引っかかる部分があるのも確かだ。新潟に向かう時の途中の旅館で、カミヤは僕に「好きって何?」と聞いた。あの時と同じだ。銀霰姫とカミヤ、二人の言葉の真意が分からない。


 銀霰姫は右手を右手で僕の方を指差して言った。袖の着物が腕から垂れて揺られていた。


「その人間に、なぜ銀霰姫が必要なのか話していないのですか?」


「はい……」


「なるほど。肝心な事は何も伝えていないわけですね。何も知らせずに騙して。あまりにも哀れですね」


「騙してなんかいない……」


 由紀は反論するが、その声は弱々しかった。


「何も教えないで利用させているのは騙しているのと同じでしょう?全部あなたの都合よく動かせて」


「利用じゃない!私は自分自身のためでなく、彼のためにやっているの!」


 由紀は声を張り上げると、辺りは水を打ったように静まり返った。しかし銀霰姫の目から疑いは消えてなかった。


 僕には本当に何を言ってるのか分からない。尋ねたいが由紀は言いたくないようだし、今は気軽に聞ける雰囲気ではない。急に空気がピリピリしていて居たたまれない気分だ。

 銀霰姫は再び僕の方に顔を向けて質問した。


「人間の方、名前は何と言うのでしたか?」


「三島春樹……」


「どこかで聞いたことがあるような名前ですね。あなたみたいな名前の有名な人間、少し前にいましたよね?」


「片方は僕にとってはずいぶん前ですけど……」


 銀霰姫はクスリと笑った。そしてこう言った。


「『マカハドマ』をご存知?」


「まかはどま?」


 初めて聞く言葉だった。英語なのかポルトガル語なのか、それとも中国語なのか分からない。


「ちょっと」と由紀が止めに入ろうとするが、銀霰姫は「カミヤ、字を教えて差し上げて」と言った。


 カミヤは「りょ」と答えた。了解の略だ。ラインでよくその二文字で返って来る。カミヤはしゃがみ込み、砂場に人差し指で文字を書く時のように畳の上で人差し指を滑らせている。指が通った後に氷の跡が残っていた。冬の日の朝、水滴で曇った窓ガラスに落書きをするのを思い出した。


 カミヤの背中越しに文字ができていくのを眺めていた。カミヤは楽しそうに指をつらつらと動かし、やがて「こう書くんだよ」と氷が這っている畳を僕に見せた。


「摩訶鉢特摩」


 全てが見慣れない文字だった。漢字だから日本語か中国語ということしか分からない。


「これでマカハドマって読むの?」と僕はカミヤに聞いた。カミヤは「うん」と答えた。


「この世には様々な形の地獄が存在します」


 銀霰姫は語り始めた。 


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