第六十二話 越後と登山
あれからさらに二日間、さらにホテルで休んでいた。筋肉痛がひどかったし、疲労もなかなか取れなかった。体が上手く動かない。いくら休んでもカミヤは何も言わなかった。カミヤ自身も疲れていたようで、スマホを弄っては寝るというのを繰り返している日もあった。
しかし、いくら休んでも未来にやらなければいけない用事がある時というのは、どうもその事が気になって休んだ気になれない。気になって勝手に頭に浮かんできて考えてしまう。完全に頭を空っぽにして休めればいいのだが、それができる人とできない人が存在する。僕はできない方だ。
六出の杖は無事に取って来れたが、あれをまたするのかと思うとげんなりする。今度はどうなるかわからない。
カミヤにこの不安を口にすると「余裕だって。杖も手に入ったし。君も矢を使って、それで十分対抗できるってことが実際に分かったでしょ?俺たちの、この三人のチームは強いんだよ」と楽天的な事を言っていた。一応頷いておいたが、どうも気持ちよく肯定する気にはなれない。
今度は杖の時のような盗みか強盗紛いのことをするのではない。アポを取ったということは、向こうは僕たちが訪れることを知っている。
こちらの目的も伝えているだろう。その上で来ても良いと言っている。凶暴で話の通じない雪女ではないようだ。もしかすると話が通じる相手で楽に終わるかもしれないという期待も、ないことはない。それを熱望している。
だが、銀霰姫という存在が気になる。姫という字が付いている。もしかすると、雪女の中で一番強いかもしれない。以前の雪女の群れとは比べ物にならないほどに。全く想像できないが、由紀やカミヤ以上に。そうなると、もっとハードかもしれない。というか、不可能に近いような気がする。
何をどう考えてもネガティブな方に考えを持っていかれる。そんなモヤモヤとした中、またダラダラと馬鹿みたいにたっぷり五日間もかけて運転して、岩手県まで来た。
東北地方には、この地方を縦半分にぶった切るみたいに奥羽山脈がそびえている。初めて見た時には巨大な山々が無数に置かれていて、先が見えないほどに連なっているように見えた。途方もないような気持ちになった。
この山脈は車で超えられないから、わざわざ新潟から下の関東の側に回って、そこから上に上がって来たほどだ。回り道で余計に時間がかかった。
奥羽山脈は新潟の越後山脈よりも北にあるからさらに寒くなるし、規模は奥羽の方が大きい。標高も高く、到着した時にはもう十二月の半ばに差し掛かろうとしていた。
本格的に極寒となり、山には雪が積もっていた。この雪がさらに僕の心を折りかけていた。越後も今頃だともう雪は積もっているだろう。岩手までの道のりで、何枚も防寒着を買った。
そして今、雪山を登山している。
周囲には僕ら三人以外誰もいなかった。ここは普通の登山ルートから大きく外れていて、ロープウェイもない。見渡す限り白銀の世界だった。小ぶりな山ならもう何個も越している。
先ほど、雪を被った林を抜けたばかりだった。今はまた傾斜の大きい雪の坂を登っている。
一歩、また一歩と足を踏み出して雪を踏むたびに、足が少し沈んでバランスが崩れかける。倒れないように気を付ける。
確かに普通の道よりかは少し歩きにくい。が、足が沈むとは言ってもトレッキングシューズの三分の一も沈まなかった。ちょっとしたぬかるみを歩いているような感覚に近かった。
靴底が埋まり、足が引き止められるように引っ張られるくらいのものだ。これは雪山を歩くとしてはおかしなことだ。
本来なら、靴どころか雪が膝まで浸かってしまうだろう。膝まで埋まり、それを引き出してまた一歩前に進むという事をして進むような道だった。
楽して歩けているのは、雪女の力のおかげだった。先頭にカミヤ、その後ろに由紀、最後尾で僕が歩いていた。僕の前の二人は雪の上を、まるでコンクリートで舗装された道のように易々と歩いていた。全く足が雪に沈んでなかった。
「どういうこと?」
僕が二人の足元を指差して聞いた時、二人は怪訝な顔をして僕の方を振り向いた。それじゃあ行こうと言って出発した途端の話だ。二人は膝まで沈んでいる僕の足を見て、合点がいったように「あぁ」と頷いた。
由紀は僕の目の前まで寄ってきて、右手を差し出した。僕は手を取って、穴に落ちたのを助けられるように引っ張られた。再び体を起こして立ち上がった時、僕は雪の上に立つことができていた。すぐ後ろを見下ろすと、さっきまで自分の膝から下が埋まっていた穴が空いている。物理法則を無視していた。
「私たちのすぐ後ろを歩いてきて」
由紀は言った。冬服ではあるが、防寒装備を全くしていない。カミヤも同様だった。
そもそも二人は防寒する必要はなく、周囲の人間の服装から浮かないために着ているに過ぎないのだ。僕は雪を防ぐゴーグルを付けてロシア人かコサック兵が着るような帽子まで被っているのに。
言われた通りに、由紀の歩いたすぐ後を付いていくように歩く。すると、僕も雪の上を地面のように歩くことができた。しかし、由紀と離れすぎると、地面はだんだん柔らかいものになっていった。三メートルくらい離れると再び雪の地面に穴が空いて落ちて、再び引き上げられた。
すごいと思った。自分も雪女になったような気持ちだった。
「雪女が、雪の上を歩くのに苦労すると思ってたの?」
カミヤはこう言って笑っていた。馬鹿にするような笑い方だったが、この時は気にならなかった。
しばらくの間歩いてみて、分かった事がある。由紀の後ろをぴったり離れずに歩くとコンクリートの道と変わらないが、五十センチ離れると少し地面が柔らかくなっている。硬さが取れて、雨の中の泥道を歩いているみたいになる。地面を踏むと雪が跳ねる。
ここまでならまだ地面は硬いままだから許容範囲なのだが、一メートル離れると一歩歩くたびに足元からシャクシャという音が戻ってくる。二メートルだと雪に足首がはまる。三メートルだと落っこちる。
歩きながら畳をイメージして敷いた。全国でサイズは異なっているようだが、僕の見慣れた畳は縦が一九一センチだ。一枚、約二メートルで、だから一枚半か二枚くらい離れたらアウトという風な見方をした。大体、部屋の一辺くらいだ。それより遠くなると沈む。由紀の足元と自分の足の距離を計算して、足元の感触で確かめながら歩いた。
気を抜いていたり歩くのが疲れると距離が遠くなり。穴に落ちることになる。気付かれなくて放置されたら終わりだ。足首がはまるとヤバいと思い、途中からはそれを黄色信号にして小走りで距離を詰めたりした。
トレッキングポールは購入して持ってきているものの使っていない。トレッキングシューズも買って履いているが、もしかしたら必要なかったかもしれない。
雪山の登山がこんなに楽だとは思わなかった。皆、雪山を登る時は雪女を携帯して行くべきだ。
由紀とカミヤが地面を作ってくれているおかげで、道のりはかなりスムーズに進んでいるようだった。途中からカミヤが僕のために時々激しくなる吹雪の軌道を変えるように提案してくれたので、僕らの周りを雪と風は避けて迂回するようになった。
二人からすればそれほど難しい事でもないようだった。カミヤが左側を、由紀が右側を担当していた。
風も雪も当たらなくなったので、ゴーグルの必要性がなくなったので外した。視界の制限が解放されると気分も良くなる。ゴーグルを付けていた時は分からなかったが、空は所々、うっすら晴れてかけていた。
普通の地面が土の登山よりも早くて楽かもしれなかった。おかしなことだ。さすが雪の妖怪を連れているだけある。
カミヤは「ちょっと見通しが良くなった。俺らからしてもこの吹き付ける雪はうっとうしいからね」と言った。
「そういうもん?」と言いながら由紀の方を見ると、由紀も苦笑しながら頷いた。
「もう雪なんて見たくもないよ」
「そうだよね。四六時中身近にあるのに、この上ベタベタまとわりつかれたらたまったもんじゃない。キャベツ農家が毎日キャベツ作ってるのにわざわざキャベツ食いたいと思わないのと同じだよ」
二人は珍しく意気投合している。
「なるほど」と僕は相槌を打った。
登るのが楽になったと言っても、それでもやはり登り続けているとしんどくはなる。途中からは皆が無言だった。カミヤでさえお喋りをやめた。新潟で杖を取ってきた時よりも遥かに山の奥深くに目的地はあるようだった。
夜は雪山用のテントを張って休んだ。これは山を登る前に岩手にある登山道具専門店で買い揃えた物だ。この時まで僕はそんな登山道具を専門で売る店や冬用のテントの存在など知らなかった。インドア派の人間がキャンプなんて詳しいはずがない。もちろん、向かわせたのはカミヤだ。
ちなみに、頭に掛けているこのゴーグルとロシア帽子や靴なども、岩手駅やその途中で買い揃えたものだ。由紀はいらないと言い、カミヤは遊んで買ったが飽きてしまい、途中で「暑い」と言って歩きながら脱ぎ捨ててしまった。山に物を捨てるのはルール違反だ。




