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第六十一話 カレーとエビフライ



 強くて冷たい風が吹いて、耳元でフードをバサバサと鳴らした。吹雪のような雪が体中にぶち当たる。右手で目元のゴーグルの位置を調整する。僕は完全防寒装備で雪山を登っていた。


 急な傾斜の真っ白い雪の面が前方に広がっている。白銀の世界ってヤツだ。既に長い時間歩き続けていて、後方も白い面が広がっているのみだ。


 途中から山岳のコースを外れている。何の標識も目印もない所を歩いている。明らかに危険だ。雪の積もった林の中を潜り、今のような一面雪の斜面も何度目か分からない。迷ったらまず間違いなく凍死するだろう。


 雪は激しく降ったり弱まったりを繰り返している。ただ足元に力を入れて登ることに手中しようとするがどうしても、真冬になぜこんな雪山を登っているのだろうかと自問自答してしまう。その度に一週間ほど前のホテルの朝食バイキングでした会話を思い出す。





銀霰姫ぎんようきに会いに行くよ」


 ホテルの朝食バイキングでの周囲の賑やかな雑音が意識から消えて、カミヤのこの一言だけが耳に響いた。


「は?銀霰姫ぎんようき?」


 僕は間抜けな声を出して聞き返す。

 銀霰姫という言葉は覚えている。何度か耳にした。日本で一番強くて偉い雪女だとか言ってた気がする。雪女のボスであり女王だ。そういえば、枝川もこの言葉を口にしていた。その時、由紀は「私は銀霰姫にはならない」と言っていた。


 僕は銀霰姫についてこれ以上の事を知らなかった。深く追求して尋ねたこともなかった。自分と全く関わりのないことだと思っていたからだ。しかし、会いに行くと言われれば嫌でも警戒する。聞くからに危なそうだ。


「どうして、そんな奴に会いに行くんだ?」


「そいつが持ってるんだよ、必要な氷具を」カミヤは僕の方を見て答えた。「そこには一昨日みたいにこっそり行ったりはできない。忍び込んで盗むなんて不可能だ。いっそのこと、堂々と会いに行く」


 カミヤの発言に僕は疑問を覚える。


「そもそも、この六出の杖にしても、お前みたいなのから奪われないために雪女に守らせていたんじゃなかったっけ?それを堂々と奪いに行くのか?」


「大丈夫、アポはとったから」


 夜中に泥棒するのが難しいからこの時間に訪れます、と電話をかけてから行くと言ってるように聞こえる。理屈が絶対におかしい気がする。というか、アポ取るほうが危なくないか?教えて警戒させてどうするんだ?


 大体アポって言ったって、頂戴と頼んでおいそれとくれるものでもなし。そんな軽々しい代物ではないだろう。雪女の総本山に置いてあるものなのだから。簡単に譲ってくれるようには思えない。


 そもそも、いつの間にどうやって銀霰姫ぎんようきに連絡を取ったんだ?

 僕が疑問を口にしようとすると、由紀が食いつくように尋ねた。


「アポって、今の銀霰姫に会ったの?」


「うん。昨日、電話で話した」


 由紀は少し黙って、再び尋ねた。


「それで、貸してくれるって?」


「話はもうつけたよ」


 カミヤはあっけらかんと言った。


「そう……」


 由紀は考え込むように黙ってしまった。僕にはどうにも腑に落ちなかった。由紀と銀霰姫との事情もよく分かっていない。


「何か、変だな」


「何も変じゃないよ。今更疑うの?俺の事を」

 カミヤは心外だ、と言わんばかりだった。

「いいかい?俺はただ、君たちという劇を近くで見ていたいだけなんだ。もう流れに任せても物語が進むなと思ったら何もせずに消えるんだ。ただそれだけなんだよ」


 これはカミヤがしょっちゅう熱心に語っている事だ。ここぞとばかりにまた熱心に語り始めた。正直、何を言っているのか理解できない。理解したくもない。気色悪いとしか思わない。


 迷いながらふと隣を見ると、由紀が険しい表情をしていた。顔色が明らかに悪くなっていた。僕は何事かと思う。

 由紀は目の前の皿に視線を固定したまま口を開く。


「どうしても行かなきゃいけないの?他にも氷具は全国を探せばいくつかあると思うけど、それじゃ駄目なの?」


「それじゃなきゃ駄目だよ。カレーを作るのにはジャガイモがいる。ジャガイモじゃなきゃ駄目なんだ。桃を入れる馬鹿がいる?」


 由紀は青白い顔色をしていた。僕はその横顔を見ていた。明らかにただ事ではない。何があったのかと心配になる。

 僕の心配をよそに、カミヤは無慈悲な追い打ちをかける。


「言っとくけど、ここは避けて通れないよ。どのみち行かなきゃいけないんだから、先に嫌なことは終わらせとこうよ。そしたら後が楽だよ。もしかして嫌いな食べ物とか後に残すタイプ?」


 僕だけならいっそのことなら行ってしまおうという気がしないでもなかったが、明らかに由紀はそうではない。

 由紀の顔色は血が全く通ってないのではないかと思うほどにまで青ざめている。ここまで肌が白い由紀は見たことがなかった。


「ちょっとごめん、考えさせて」


 由紀は席を立ち、カウンターを通って出て行った。僕は声をかけれなかった。


「まぁ、あの子は銀霰姫とは因縁があるからね」

 カミヤはフォークでケーキを割りながら言った。コイツ一人だけが呑気で腹が立つ。ただ呑気なのはいいが、由紀を困らせてヘラヘラしているのは許せない。


「由紀は何で、その銀霰姫に会いたくないんだ?銀霰姫に何があるんだ?」


「今はあの子の所に行って慰めるのが先でしょ?彼氏なんだから」


 僕の質問に、カミヤはケーキが刺さったフォークをカウンターの方に向けて答えた。





 由紀は広いラウンジの端のソファーに座っていた。昨日買った紺色の地味なコートが目についた。服を買う場面を見てなかったら何分か探すことになったと思う。

 すぐに見つけられて安心した。由紀には過去にいなくなりかけた前科が二回ある。知り合って付き合い始めるすぐ前と、枝川が襲ってきた後だ。もし運が悪ければ本当にいなくなっていたかもしれないと、夜寝る前に思い出してはゾッとすることが何回かあった。いなくなってなくて良かった。


 僕は由紀の座っているソファーへ近づいて行って、隣に腰かけた。


「大丈夫?」と聞くと、由紀はゆっくりと頷いた。自分で大丈夫と聞いておきながら、大丈夫なわけないだろと思う。

 しばらく無言が続いた。普段から、僕と由紀の間は会話が多い方だと思う。二人きりでいる時は常にどうでもいい事を話している気がする。由紀が無口になりがちなのは近くにカミヤがいる時と、こういう深刻な事態に直面している時だ。


「銀霰姫って、そんなにヤバいの?」


「ヤバいってわけじゃ……いや、ヤバいのはヤバいんだけど」


 どっちなのか要領を得ない。


「行きたくないの?」


 僕はこう尋ねた。何があったの?と聞きかけたが、タブーに触れる気がして言えなかった。


「ちょっと色々あって」と由紀は言葉を濁すように言った。

 やっぱり、どうにもわけありらしい。これ以上、深入りして聞くのは良くない気がした。由紀は行きたくない、今はこれだけで十分だと思った。


「じゃあ、カミヤに僕からそう言っておくよ」


 僕はこう言ってポケットからスマホを取り出してソファーから腰を上げた。僕の方から電話するのは、由紀からカミヤに直接伝えるとなると、またカミヤが余計な事を言うのではないかと気にしたからだ。

 電話をかけようとソファーを少し離れようとすると、声が聞こえた。


「いや、行くよ」


 由紀は呟くように言った。僕は半分振り返って由紀を見た。


「えっ?」


「行く」と由紀はもう一度、今度は力強く言った。自分に言い聞かせているみたいだった。明らかな無理に僕は少々戸惑う。 


「本当に?無理しない方がいいと思うけど。今すぐでなくても、また今度でも」


「いや、もう行く。いい加減、自分自身にケリをつけたい。長いこと、ずっとこう思って結局ウジウジしてた。今が決着の時だと思うんだ。もう長引かせたくない。今行かなきゃ、また逃げ回り続けることになる。それが嫌。もう決めたの」


 カミヤはさっき、由紀と銀霰姫には因縁があると言った。確かにそれを解決しなければ、最澄、枝川、カミヤと続いた由紀を連れ帰ろうとする刺客も止むことはないだろう。


 それに、由紀の言葉の響きから覚悟が伝わった。これ以上、僕から言えることはないと思った。


 僕はスマホをポケットの中に戻して「そっか」と言った。





 カウンターの前を再び通り、僕はカミヤのいるテーブルに帰ってきて、向かいの席に座った。カミヤはケーキを食べ終えてまだ腹が減っていたのか、シューマイとエビフライと味噌汁を皿に取ってきて食べていた。


「行くって?」


 カミヤは味噌汁を啜りながら聞いた。


「うん」


「あの子は?」


「戻ってくるけど、ちょっとトイレ寄ってから来るって。先に戻っといてって言われた」


「そう」


 興味なさそうにカミヤは相槌を打った。箸でシューマイに辛子を塗りたくっている。上側がほとんど黄色くなって別の食べ物のように見える。

 黄色いシューマイを見つめたまま、カミヤは言葉を続けた。


「由紀ちゃんどうだった?大丈夫そうだった?」


「大丈夫なわけないだろ。というか、お前のせいだろ。何で今言ったんだよ。一難去ってまた一難やってきて、ショック受けるのは分かってただろ」


「どうせ言わなきゃいけなかったし」と悪びれずにカミヤは言った。「それで何で銀霰姫の所に行きたくないか、理由聞いたの?話してくれた?」


「『自分に蹴りをつけたい。覚悟を決めた』とは言ってたけど。それ以外は聞いてない。今は根掘り葉掘り聞かれたくないかなって思って」


「は?馬鹿じゃないの?何も知らないんだね、君」


 カミヤは見下したように僕の方を見る。その言い方に僕はかなりイラつく。


「その優しさは美徳だけどね、現在の問題はそこにあるのにさ、放っといてどうすんだよ」


「そんなことを僕に言われても困る。そもそも、お前が空気読めないタイミングで面白がるみたいにまだ次があるって言い出したからこうなってんだろ」


「じゃあ、いつ言うんだよ。とっとと言わなきゃ劇が進まねぇんだよ。分かってんの?」


「知んないよ。わけ分かんないこと言うなよ」


 僕とカミヤは睨みあうような形になる。コイツとは普段じゃれあって馬鹿にしあうような事を言い合ってはいるが、ここまで怒りを露わにして言葉をぶつけ合ったのは初めてかもしれない。


 しかし僕たちが喧嘩していても仕方がない。無意味の極みだ。だんだん空しくなってくる。カミヤの方も同じように感じていたようだった。


「もうこの話やめよう」とカミヤが言い、僕は「あぁ」と頷いた。


 二人の間に虚無感が漂う。カミヤはいじけたように箸と左手の指先を使って、エビフライの衣をはぎ取ってエビだけにし始めた。


「まぁ俺には由紀ちゃんが行きたくない理由、大体想像ついてるけど。というか、知ってるけど」


「そうだろうと思ったよ。じゃあ、お前から教えてくれよ」


「教えるわけないでしょ、他人のプライベートを勝手に。だから知りたきゃ自分で聞きなよ」


 都合のいい時だけ正論を持ち出すのは卑怯だと思う。普段は悪の化身みたいな奴の癖に。しかし由紀からすれば勝手に知られるのも嫌かもしれないので、聞かないでおくことにする。


「……カミヤ、まだイラついてないか?」


「何で?」


「いや、口調の感じから」


「ちょっとだけね。でも、ほぼデフォルトだよ」


 この話は終わりって言ったのお前じゃん。そもそも、何でお前がイラついてるんだよと、また思い始めた。いや、この話はやめたのか。

 僕は自分を落ち着かせる目的で、カップを手に取り席を立つ。コーヒーを入れて戻って来る。砂糖とミルクを入れてかき混ぜながら、つい溜息が漏れた。そんな僕を見ながらカミヤは急に慰めるような口調になる。


「まぁ、数日くらいは休もうよ。あの子も今日からすぐには行けないでしょ。俺もちょっと疲れたし。君も疲れたでしょ?英気を養おうよ。数日休んで、まただらだら行こうよ」


「正月までにはさすがに帰れるよな?」


「多分ね」


「クリスマスまでには帰れる?」


「来年あるじゃん」


 来年って……


「そこまで休んだら留年しない?」


「大丈夫だって。ほとんど行かなくても、二年で挽回できるから。三年の途中まで遊んでほとんどサークルしか行ってなくて、でもそこから本気出して卒業した人知ってるし。一緒に単位落としまくろうぜ。留年も青春だよ」


「そんな青春やだよ。最悪じゃん」


「冗談だよ。終わればすぐ帰れるよ。……多分」


 僕はもう一度溜息をついた。カミヤはケラケラと笑っている。切り替えが早い奴だ。


「まぁでも、行く気はあるみたいだね」


「そりゃそうさ」



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