第五十四話 杖と病的
目の前では、パチパチと音を立てて炎が燃え上がっていた。
「火を使うなんて、雪女の私にはできない発想だね」
「カミヤが、困ったらとりあえず火を使っとけって言ってた」
この火は僕が由紀が壁に開けた穴から外に出て、折れ木や草を拾って来て、氷のケースの上で点けて燃やしているものだ。倉の中と外を何回か往復した。
途中からはそこら辺にあった本や服を勝手に燃やしている。使っていたランタンに入っていた灯油もかけると、一気によく燃えた。
ライターは昨日の昼に僕が買ってきた物だ。普通のガス式ライターではなく、フリント式のライターを選んだ。ヤスリが回転することで火花を起こすタイプの物だ。
ガス式のライターだと寒い場所で点かない。寒さで凍死するよりも絶望で先にショック死するとカミヤから言われていた。マッチも十二箱セットの商品を買ってあったが、ライターで火が付いた。マッチは箱から出してバラバラと火の中に入れた。
既に火は、大学ノートくらいの大きさには燃え上がっている。すぐに消えることはないだろう。赤い揺らめきを見ていると、カミヤが「火は大事だよ」と何度もしつこく言っていたのが脳内でリピート再生された。カミヤのアドバイスを信じてみることにする。
「これで溶けてくれるといいけど」と由紀は呟いた。
外からはまだ銃声がする。時計を見ると、まだカミヤと分かれて十五分くらいしか経ってないことに驚く。移動は走り、全ての動きを急いで進めていたおかげかもしれない。
由紀は心配そうに表の方を見ている。
「加勢したほうがいいのかな」
「もしこれで無理か、時間がかかりそうだったらそれを考えよう。でもアイツは楽しんでわざと長引かせてるかもしれないとも思う。もう少し待ってみよう」
由紀は頷いて、倉の端に置かれていた本のページを破って火に投げ込む。
炎は大きくなる。顔を少し近づけると皮膚が熱くなるが、我慢して目を凝らすと氷が溶けてきているのが見えた。しかも、溶けるのが異様に早い。普通の氷よりも硬いが、普通よりも熱には弱いと思われる。
溶けてできた窪みに水が溜まっていて、それを手で地面に払い落す。窪みも既に案外深い。僕は救われたような気持ちになる。
「こっちを早く終わらそう」
「了解」
由紀の声のトーンも高くなっている。
ケースの上の氷がもう少し薄くなると、ピッキングか金槌で割って穴を作れるかもしれない。いや、今度こそ由紀の氷の圧力カッターが使えるかもしれない。
もう大分凹んでいる。溶けるスピードが早い。水をかけた綿菓子みたいだ。僕は再び窪みに溜まった水を手で掃き出した。興奮して熱いと思わない。
「これだと、数分したら取り出せる気がする」
僕はケースを眺めながら言った。希望が見えてくる。すぐ隣の由紀も興奮したように頷いた。
背後から物音がした。最初、風が吹いて外の木の枝が揺れたか、何か物が落ちたのだろうと思った。しかしペタペタという音がだんだん近づいてくる。後ろを振り向くと、扉の横で白装束を着た髪の長い女が立っていた。
女の目は、血走った眼球が今にも転げ出てきそうなほど見開かれている。裸足で、服は泥で汚れている。目元の隈がひどく、頬が落ちくぼんでいる。そんな姿が暗闇に浮かんでいた。雪女だ。
振り向いて人影が見えた時、カミヤかと思ってしまったから一瞬だけ反応が遅れた。
「うわぁぁぁっ」
僕は驚いて、後ろに倒れて尻もちをつき、倒れた拍子に氷のケースの角で後頭部を打った。ガンという音が頭の中に響く。右手で打った部分を抑えるがジンジンする。しかしすぐに頭を上げて雪女に注意を向ける。
由紀は僕と同時に振り向いて、目を見開いたまま体が固まってしまっていた。
雪女は倉の中に入って来ているが、表の扉が開く音は聞こえなかった。つまり、由紀が切って開けた裏の穴から入って来たことになる。雪女の服には実際、泥が付いていた。
雪女は全員、カミヤの方に集まっていたはずだった。倉の後ろに周り込む時に確認した。僕と由紀の姿を見て追いかけてきた雪女は一人もいなかった。つまり、この雪女はカミヤを無視したか、最初から林を徘徊していた。そして穴を見つけて、入り込んだ。他の雪女と比べて、明らかに行動がイレギュラーだ。
確かに、この雪女は他の雪女と比べて様子が変だ。目の落ち窪み方も、充血の仕方も、目元の隈も格段にひどい。顔の上半分が灰色で塗りたくられているように見える。体全体も痩せ細っている。こんなに痩せていて生きていられるのか、そんな箒のように細い足で立っていられるのかと思う。他の雪女よりも、明らかに病的だ。
雪女は近づいてきた。歩く時に、左足を前に出すと大きく体が左に揺れ、右足を前に出すと今度は体が大きく右側に揺れる。メトロノームのような歩き方だ。雪女は僕らを無視して、氷のケースの前に立った。
燃えているケースを覗き込んだまま、雪女は動かなかった。僕と由紀はとっさに左に寄って避けた。雪女の顔が炎の光に照らされる。痩せた頬が過剰に影を作る。僕と由紀など、この部屋に存在しないかのように無視して、じっと見つめている。
僕と由紀は逃げるわけにはいかなかった。目の前に目的の品があるのだから。簡単には去れない。この雪女が既に壊れてしまっていて、回れ右してそのまま引き返して山に帰ってくれれば最高だと思った。
この時、僕はカミヤのアドバイスを忘れてしまっていた。
「雪女を相手にする時に限らず、戦いってのは先手必勝だよ。不意打ちで何が何だかも分かってないまま、死ぬ事に気付く暇も与えないうちに殺してしまうのが一番いいんだ。
相手が戦闘モードに入って神経を研ぎ澄ませるのを許したら、格段に面倒臭くなるからね。負けるかもしれない強い相手とわざわざ真正面から戦うなんて、自己満足か娯楽さ。武士同士の一騎打ちなんて愚の骨頂。隠れ撃って、勝負が始まる前に全てを終わらせるスナイパーこそ、最高の武人なんだよ」
カミヤはこう言っていたはずだった。だから僕と由紀は、目の前の雪女が氷のケースを食い入るように眺めているこの瞬間に、先手を仕掛けて置くべきだったんだと思う。何か忘れていると思った時に、頭の中で語りかけてこられた。でも、もう遅かった。
ギュルンと首を回転させて、雪女はこっちを向いた。顔は僕の方を向いているが、僕を見ているのかは分からない。目の焦点が合っていないからだ。
雪女は腕を水平にあげて、手の平を僕らの方に向けた。パキパキと音を立てながら、雪女の手の周りに氷の結晶が浮遊し始める。最澄のアレだ、と僕は直感する。真夏に夜道でされた、氷の波が押し寄せてくる技だ。後に由紀から、この技が単独で使える時点で相当に強い部類だと聞かされた。僕の最初の勘は間違ってなかった。
床を這って、氷の波が押し寄せてくる。由紀が、腰の辺りから右手を頭の上へ一気に振り抜く。地面から氷の壁が現れて、雪女の氷の波を防いだ。
氷の波が壁に打ち付けられた。海で大きめの波が「ザパァン」と音を立てて防波堤にぶつかり飛沫が起こるように、目の前で氷同士の破裂が起こる。氷の破片が飛び散り、僕の目の下をかすって行った。切り傷ができて頬を血が垂れる。
氷同士の衝突による衝撃で、倉の壁は砕かれた。氷の塊が柱にぶつかり折れて、それで重心が耐えきれず、天井も斜めに崩れて行った。
目の前の爆発で、僕も体ごと何メートルか吹き飛ばされた。倉は倒壊し、生き埋めになっていた。しかし、死んだり身動きが取れないということはなかった。怪我もなかった。
立ち上がると、体に乗っていた木の欠片が流れ落ちて行った。瓦などを使っていない、二階もない簡単な平屋で良かった。倉の中でも端の部屋だったのも幸いだったかもしれない。とっさに由紀が落ちてくる木を弾いて守ってくれた可能性もある。
せき込みながら前を見ると、由紀と雪女が距離を取って睨みあっていた。ケースの上にあった炎が飛び散り、二人の周りで散らばって燃え続けていた。火は元々倉の中にあった服や本や、崩れた木々を燃やしていた。
「おいおい~壊すなんてさ~派手にやるねぇ~興奮するゥ~」
カミヤの愉快そうな声が聞こえた。アイツは雪女たちとの戦いをまだ楽しんでいるようだった。
「アタタ」
由紀は呪文を唱える。枝川と戦った時に出したような、氷のクラーゲンの足を二本、右の肩甲骨から出していた。それぞれがグネグネと、蛸の職種のように別々に動いている。
それを見て、雪女の方も背中の中央から氷の尻尾を出した。鉄パイプよりも少し太いくらいのが五本だった。肋骨が内臓を守るように体を後ろから囲んでいる。
由紀のクラーゲンの足が伸びて、雪女の方へ一直線に向かっていく。太さと速さから、鉄骨が飛んでいるように思える。
雪女は頭の上に両手を上げたかと思うと、地面に振り下ろした。足元から二メートルほどの氷山が勢いよく飛び出す。それに足をかけて空中へ跳躍した。由紀から勢いよく伸ばされたクラーゲンの足は、雪女ではなく突如現れた氷山に衝突した。雪女は空中を飛び、由紀に接近する。
雪女は鉄パイプほどの細い氷の尾くねらせて、先端を由紀の方へ向けた。そのまま突き刺そうとするが、それを由紀のクラーゲンの足の腹で防ぐ。由紀は後ろに飛び退き、それを雪女が追い、刺そうとする。
由紀と雪女は移動し、林のすぐ近くまで来た。そこで、由紀は僕にチラリと目配せした。僕は察知した。ケースの付近には誰もいない。
僕はケースまで走った。そして飛び散って燃えている木の破片や本を持ってきて、氷のケースの上に置いた。最後の予備のライターも用いて熱を与え、再び氷を溶かす。もう上の中央部分はいつ穴が開いてもおかしくないくらいに薄い。僕は一秒でも早くと、祈るような気持ちでライターを近づけていた。僕の手は炎に近過ぎて、熱くて堪らない。
氷はヒーターの横に置いたアイスクリームのように溶けていく。そしてついに、ケースに穴が開いた。ギリギリ腕が入る大きさにまで広がると、僕は右手をねじ込んで杖を掴んで腕を引き抜いた。
杖の感触は普通の木と変わらなかったが、握ってみるとひんやりとしていた。あと、ケースの中だと分からなかったが、手持ちの部分が分かれて六つに広がっている。ちょうど六つに分かれた裂け目に五本の指がすっぽり収まりそうだったが、ジッと見ていたら異様な形で気味が悪くなる。
「由紀!」と僕は叫んだ。
雪女が首を回して僕の方を向いた。気付かれた。雪女は僕の立っている倉の残骸の方に手の平を向けようとするが、由紀の鞭のようにしなった氷の蛸の足がその手を弾いた。雪女は苦々しそうに顔を歪める。
僕は杖を握りしめ、思い切り放り投げる。投擲選手のように、とまではいかないが、杖を持った手を体の後ろに置き、思いっきり腕を前方に振り抜くと、杖は放物線を描いて空中を飛んで行く。
距離は少し足りそうになかった。杖の飛ぶ方向も微妙に由紀のいる方向からずれていた。
由紀はとっさに細めの氷の蛸の足を延ばして、杖に絡ませた。そしてバネみたいに縮ませて自分の方へ引き寄せる。
杖は由紀の手元に収まった。鮮やかな一連の動きだった。
「六出の杖だ」
カミヤが嬉しそうに言った。
由紀は着地して手元の杖を見やり、動きを止めた。




