第四十六話 音と出発
それから由紀はまた大学に来るようになった。その日、由紀は久しぶりの大学は緊張すると言って、朝から僕のアパートまで来た。僕は起きて間もなくて、朝ご飯を食べたり顔を洗ったりするのを待ってもらった。そこから大学まで一緒に行った。
弘も由紀の姿を見てホッとした様子だった。あれこれと深堀りしてこず、何もなかったように接してくれているのが嬉しかった。
数日後に、弘の彼女と会った。講義が終わって外に出た途端、突然弘の背中へ知らない女の子が突進するみたいに抱き着いた。猪かと思った。
弘はその女の子を「音々」と呼んでいた。惚気話の中で散々聞いた名前で、「あぁ、この子か」と納得した。上の名前は西園寺と言うらしかった。
「西園寺音々」と心の中で二回ほど呟いて、映画のヒロインで出てきそうな名前だなと思った。華やかさがある。
自分の三島春樹を隣に置いてしまうと、僕の名前が地味過ぎて零点五秒で空気になる。少し羨ましくなって改名したくなるが、由紀と関わりを持てたのはこの小説家の名前が二つ連なった名前のおかげなのを思い出して、改名するのはやめて、自分の名前に感謝して生きていくことにした。
僕は弘の彼女を最初は「西園寺さん」と呼んでいたが「音々でいいよ」と言われたので、「音々さん」と呼ぶことにした。呼び捨てで呼んでいいのは彼氏の弘だけの特権だ。
音々さんは講義が終わる頃を見計らって、大学のベンチで座って弘を二時間ほど待ちぶせしていたらしい。最近、僕の中で女性という存在というのは程度の差はあれど全員メンヘラなんじゃないかという説が浮上しているが、それがさらに強固なものとなった。
目の前で弘と音々さんがイチャついているのを五分ほど由紀と眺めていた。その間、僕たちはないものとして扱われていた。遊戯王のテキストで出てくる「フィールド上から存在しない物として扱う」という文言を思い出した。
僕も由紀もその日はもう暇だった。四人で一緒に話そうということになって、大学に併設されているカフェに行った。食堂より高級感があってシャレオツな場所だ。そこでケーキをつつきながら話をした。
音々さんは背が低くて、ハムスターのように動きがすばしっこくて、よく話す愛嬌のある子だった。接客とか得意そうだなと思った所で、服屋で働いていると自己紹介された。向いてるだろうなと思った。「何かお探しですか」と服屋で捕まったら口車に乗せられて、欲しくもない服まで買ってしまう自信がある。ちょっとアホっぽいが、賑やかで場にいるだけで明るくなる子だった。すぐに仲良くなった。
音々さんはあれこれ聞いてきた。僕たちの出会いなど、目をキラキラさせながら恋バナを求めてきて、うまく誤魔化しながら話すのに苦労した。
確かに、弘が前に自分の事のように自慢していた通り、胸はデカかった。前はG寄りのFカップあるって言ってたが、最近Gになったと弘を伝って聞いていた。次はHに向かっているらしい。油断すると視線が下に吸い寄せられる。あらゆる物質は引き合い、質量が大きいほど引力は強い。万有引力の法則を実感した。ニュートン大先生はリンゴじゃなくて巨乳を見ていた説がある。
今度、四人で出かけようということになった。夏に海でも行けたら楽しいだろうと弘が言った。僕の胸も高鳴った。由紀の水着姿を想像したからだ。超見たい。全力で脳内録画するだろうな。
賑やか過ぎて、別れた後に少し疲れた。すごく幸せなひと時だった。またここに戻ってきたいと思った。
別れ際、弘は「来年もこうしてたいな」と言った。僕は「そうだな」と答えた。そして弘は「無理するなよ」と僕に意味深なことを言って肩を叩いた。意味が分からなかったが、とりあえず「分かった、ありがとう」と返しておいた。
後は、そう、カミヤの事だ。かの悪逆に用いられたボイスレコーダーを返しに行った時、僕はひとしきり文句を述べてから、一応、礼も言っておいた。辱めを受けたし腹は立ったが、コイツのおかげで由紀との関係を変えずにいられて、僕の中の大きな問題が一つ解決したことには変わりないのだ。
「馬鹿みたいにまんまと引っかかったね、君。アレは聞いてる側からしても恥ずかしかったよ。俺なら死にたくなるね」
カミヤは思い出したように、手を口の前に当ててクスクスと笑った。
「あそこまで愛を語る奴なんて、久しぶりに見た」
「もういいだろ、その話は」
僕ははやくこの話が終わって欲しいと思う。カミヤはまだ笑っている。恥ずかしさと気まずさが胸の中で混ざりあっている。心臓の奥が痒い。この場で回れ右して、脱兎のごとく逃げ出すように帰ってしまいたい。
「でも俺には、まだどういうことか分かんないんだけどね、実は」
カミヤはひとしきり笑った後、我に帰った顔でこう言った。
「好きって何?愛してるって何?君はあの子を愛してると言ったけど、彼女一人のために親や友達、ましてや世界中の人々を犠牲にするしかないとなったら実行できる?」
僕はカミヤの言っている意味が分からなかった。
「そんなありえない極論の話なんて、しても意味がないだろ」
僕はこう答えた。カミヤは「例えだよ、例え」と言ったきり、何も言わなかった。
カミヤのこの言葉は、僕の中にちょっとしたわだかまりを残した。
やがて夏が終わり、秋が過ぎ冬になった。
十二月十九日の明け方、その日は皮膚がピリピリとする程の寒さの日だった。僕が息を吐き出す度に白い靄が空気中を漂う。小学の頃は朝の登校中に友達と「冷凍ビーム」とか言って、白い息を吐き出しまくって遊んでいたなぁと昔を思い出していた。
僕と由紀、そしてカミヤは待ち合わせしていた駐車場に三人集まっていた。
「それじゃあ、行こうか」
カミヤが言うと、僕と由紀は頷いて車に乗り込んだ。




