第四十五話 パジャマと羞恥プレイ
由紀と目が合った。手を膝につき、息を荒くして、肩が大きく上下している。さっきの足音からも分かるように走ってきたのだろう。頬も紅潮している。服は簡素な部屋着のままだった。パジャマのようなスウェットにパーカーを羽織っている。
「なんで……もう大丈夫なの?」
僕は尋ねた。
「大丈夫って……こっちのセリフなんだけど」
「……どういうこと?」
「俺が呼んだんだ」
カミヤが割って入った。
「『今、春樹と一緒にいる。夜までに来なければ殺す』っていうメールを送ってね。こう言ったら閉じこもっていても駆けつけてくるかなって思って。それからさ、大学に着いた頃に『やっぱり嘘』って言って、場所を教えたんだ。来るしかないよね」
カミヤは右手にスマホを持って振っている。由紀の右手を見ると、こっちもスマホが握られている。
三人の間に沈黙が訪れた。僕と由紀は見つめ合っていた。由紀には会いたかったが、突然過ぎて何を言うべきことか纏まっておらず困ってしまった。由紀の方も同じなのだろう。この場でお喋りなのはカミヤだけだ。というか、カミヤは周りが困り果てていたり呆然としたりしているほど楽しそうによく喋る。ドSに違いない。
「じゃあ俺はちょっと外すよ。空気を読める男だからさ。あと、君のさっきの話、途中から由紀ちゃんに通話状態になっていて、多分聞いてるよ」
一瞬、思考が停止する。え?あれ、全部?
由紀の方を向く。由紀は恥かしそうに目を逸らす。
「それと録音もしていたんだ。これも置き土産しておくよ。感動的なシーンにBGMは必須だからね」
カミヤはテーブルにボイスレコーダーを置き、歩き出した。
「ちょちょちょっ、ちょっと」
僕はカミヤの腕を掴もうとするが、カミヤはそれを風のようにすり抜けて立ち去った。
由紀と、休憩スペースに二人きりになる。僕らは無言だが、カミヤの残したボイスレコーダーから僕の声がボソボソと聞こえる。
「好きになってしまったらもう手遅れなんだ……」
「頭の中でどんどん美しくなっていくんだ。もう、芸術的な彫刻や神聖な女神と同列なんだよ……」
恥ずかしすぎて、死にたくなる。自分の顔が真っ赤になっていくのが分かる。この場から消えてしまいたい。もしかしたら、由紀が来た時に顔が赤かったのは、ここまで走ってきたからではなくてこれを聞いていたからか?と思い至る。完全に羞恥プレイが始まっていた。
おい、おいおいおいおい、マジで言ってる?拷問だろ。考え得る限り最悪のパターンじゃん。ちょっと前に『由紀には絶対言えないな~』とか暢気に思ってたのが、目の前で現実になっていた。自分が馬鹿に思えてくる。そうなんだけど。
僕は慌ててボイスレコーダーを掴む。しかし停止ボタンがほじくり出されて押せなくなっていた。再生ボタンしかない。裏側の電池の蓋には接着剤が塗られている。どうやっても無理だと言うことを悟った。地面に叩きつけても壊れるか分からないし、壊したらアイツがキレ出すと思った。
絶望的な気持ちで諦めて、紛らわすように少し大きめの声で由紀に話しかけた。カミヤは絶対に後で殺す。
「もう大丈夫なの!!??」
「えっ?……」
つい叫んだみたいになった。由紀は戸惑っているように見える。突然大声を出されたら誰でもそうなる。ちょっと引いてるかもしれない。
「うん……」
「そっか……」
「一定のラインまで好きになってしまったら、もう後戻りできないんだ……」
ボイスレコーダーが致死性の合いの手を入れてくる。一秒間で五回くらい死にたくなる。もう一度ボイスレコーダーを見ると、音量ボタンは生きていた。急いで限界まで下げて、手の平でマイク部分を包み込むように掴む。ボソボソ何か聞こえるくらいになる。
やっと二人だけの空間になった。手元から視線を上げると、由紀は僕の方へ頭を下げていた。
「ごめんなさい、心配かけて。ちょっと一人で色々考え過ぎて、落ち込んでた。春樹が悪いわけじゃないから」
「いや、謝ることじゃないよ。僕は気にしてない。それより痩せたりしてなくて安心した」
会えなくて不安ではあったけど、と言いかけたがこの言葉は口から出さずに喉へ押し込む。久しぶりに由紀の姿を見て、話して、少し緊張している。自分の喋り方がカタコトになってる気がする。
由紀はしばし沈黙していた。そして意を決したように言った。
「私、悩んでた。私自身は危害を加えるどころか、春樹を守っていく気持ちだった。付き合い始めた時から、それができるっていう自信があった。自分が強いっていう自信があったから、簡単だと思ってた。でもいざ枝川が来た時、できなかった」
「あれは、僕のせいだ。気にすることじゃないよ」
「ううん」
由紀は首を横に振った。
「枝川が来て初めて後悔した。守りきれずに危険にさらしたことを。あの日から今日までずっと。無力感に苛まれてた。他の誰かに負けたことは、本当に数えるほどしかなかったのに」
「それは……」
僕は口を開きかけたが、何も言えなかった。もう一度「気にすることはない」と言いたかったが、廃倉庫で多数の狼に囲まれた時の、由紀の絶望的な表情を思い出した。僕は枝川に「お前がその女の弱点だ」と指摘された時にこのままでは駄目だと思ったが、由紀の方も同じように傷ついていたのだ。
ようやく、二週間も大学に顔を出さなかった理由が分かった。もっと注意深く由紀のことを考えていれば、早く気が付けたはずだった。遅すぎるんだ。全く、自分の事だけしか考えられなかった僕自身に嫌気がさす。僕は鈍感で間抜けだ。
「もう、あんな思いをしたくなかったの。弟と傷一つなく和解できたのは運が良かっただけだった。もうこんな目に遭うのは嫌だ。春樹も危険に巻き込んで、そのうち嫌われるかもしれない。これは、雪女である限り避けられないことなのかもしれない。私は一人の人間として見てもらいたくて、生きていたいのに。怖がられたり嫌われたりも、本当はされたくない」
「心配し過ぎだよ。思ってないよ」
僕は必死に慰める。
「あなたなら、そう言ってくれると思った。けど私は怖かった。だから、一人で何とかしようと思ったりもした。カミヤの言う通りにしている間、ずっと不安でいるのかとか、帰ってきても春樹がいなくなってるんじゃないかとか、思ったりしてた」
「そんなこと、するわけないじゃないか」
「うん……知ってる」
「……ん?」
僕は間抜けな声を出した。由紀は僕の方を見て、クスクスと笑い始めた。
「今日までこんな風にあれこれ考えてたけどね、さっきの言葉で吹っ切れた。春樹の気持ちが分かった。全部、大丈夫になったよ」
「さっきって?」
「大人しそうに見えて実は情熱的よね。イタリア人かと思っちゃった」
再び僕の顔が赤くなる。由紀は「かわいい」と呟いて小悪魔的な笑みを浮かべている。僕はドキリとして、こんな表情もするんだと暢気に思ってしまう。
「直接だと言えないよ。今回のあれは、たまたまというか、アイツの策略で。あと、ウェルテルはドイツ人だ」
「でも、嘘ではないんでしょ?」
由紀は覗き込むように問うて来る。
「それは勿論、本心だけど……」
「それで十分。ありがとう」
こう言って、由紀は僕の顔を下から覗き込むのをやめた。途中から僕は恥ずかしいのと可愛過ぎるので、その顔を直視できてなかった。
由紀は両手を胸に当てた。
「そんなに私のことを思ってくれていたって知れて嬉しい。今、まだ胸がキュンキュンしてる」
「そんなものですか……」
僕は戸惑っていた。こんな惚気た事を言ってくれるのも初めてだった。もしかしたら僕が当たり前みたいに恥ずかしい言葉を連呼してしまったから、そのせいで由紀の脳内のフィルターも弱まっているのかもしれない。今日の夜中、思い出し恥かしで布団に包まって消えてしまいたくなくならないだろうかと他人事のように心配になる。
しかし、僕も勿論恥ずかしかったが、それよりも自分の気持ちを伝えられて、由紀の気持ちも知れたという事の方が嬉しく感じているということに気が付いた。
「私もあなたと一緒にいたい。力を貸してくれる?」
僕は力強く「もちろん」と答えた。
「今度こそ、私はあなたを絶対に守る」
「僕の方こそ、由紀が人間に戻れるように精一杯手伝う」
由紀はふふふふと笑い始めた。目元で涙が一粒、睫毛に引っかかって垂れていたので、人差し指で拭ってあげた。その雫は氷から溶けた直後の水滴みたいに冷たかったが、僕の体温ですぐにぬるくなった。
由紀のことがまた一つ分かった気がする。
「これからもよろしく」
「うん」




