第三十八話 筆箱とイマジン
「おぅ加藤」
弘は右手を上げた。
「ちょうどお前の話になったんだよ。タイミング良すぎだろ。後ろで待ってたのか」
「そんな気持ち悪い事するわけないだろ」
カミヤは笑いながら返す。そして僕の方を見て「おはよう」と言った。
僕は挨拶を返すと声が震えそうだと思ったから、手を上げるだけで答えた。
「一つ、奥に詰めてくれ」とカミヤが言った。
大講義室の机は横方向に長いので、一列で五人座れる。一番後ろから三つ目の机の端に僕と弘に座っていて、一つずつ右にずれた。一人分の席が生まれて、カミヤは「ふーっ」と息を吐きながらそこにリュックを置いて座る。
右端から、カミヤ、弘、僕という順番だった。正直、弘が間に入ってくれてホッとした。カミヤが隣だったら気が気ではいられなかったと思う。何も知らない弘は呑気そうにヘラヘラしている。
カミヤはリュックからルーズリーフやメガネケースを出してテーブルに置いている。
「加藤、なんだその箱?」
「ん?これ?」
弘はカミヤが机の上に置いた木箱を指差して聞いた。カミヤはペットボトルの水を飲みながら疑問に答える。
「これはね、筆箱。ほら中に筆記用具が入ってる」
カミヤは木箱を開けて中を見せる。シャーペンとボールペンが何本か入っている。
しかし弘はまだ釈然としない様子だった。
「でも、なんかすごい古いというか、年季が入ってないか?」
確かに、こんな筆箱は見たことがない。はっきり言って小汚い。木製と言っても削りたてのような明るくて淡い茶色ではなく、黒く変色して染みがついている。コーヒーでもぶっかけて放置したんじゃないかと思ってしまう。
「うん、爺ちゃんの家の押入れを漁ってた時に見つけて、貰ったんだ」カミヤは説明を始めた。「爺ちゃんの父さん、つまり引い爺ちゃんが子供の頃に使ってた筆箱らしいよ。小学か中学の時にさ。生まれたのが千九百の九年か十年だったらしいから、昭和初期か大正か、それくらいの物って言ってた」
「へぇ~。すげぇな~」
弘は素直に感心している。
「正直、俺は別にいらなかったんだけど『お前も、うんと勉強しろよ』って言われて、せっかくだから使ってるんだ。爺ちゃんも別にいらなかったし、自分が死んだらゴミになるだけだから俺に押し付けたんだろうね。それで今日、シャーペン入れて持ってきた。でもこれ、中でカラカラって音が鳴ってうるさいんだよね」
困ったように笑いながらカミヤは語った。弘は筆箱を持たせてもらって、手に取って物珍しそうに色んな角度から覗き込んだりして眺めている。その度に「へぇ~」だとか「ほぉ~」だとか言っている。何に対する感慨なのだろうかと思う。
筆箱に夢中な弘を挟んで、カミヤと目が合った。カミヤは数秒前までとは別人のような笑みをニヤリと浮かべた。目の奥が淀んだ真っ黒い渦巻きに見える。
カミヤは小さく口を開いて「ウ・ソ♡」と声に出さずに息だけで言った。ウインクをして「クックックッ」と蝙蝠のように笑っている。
このカミヤを見て、僕はこの人物が平気で仲間を殺すような邪悪で、内面は外見からの印象とは全く違った、頭のネジが何本もぶっ飛んで見たことのない部品を取りつけて改造を施されているような人間であることを思い出す。
僕の頭に、一週間前のあの夜の出来事が甦って来る。由紀と狼男が戦い、カミヤが狼男であり同級生であった枝川を殺した夜だ。
この一週間、どうにも、目の前の加藤とあの夜のカミヤが同一人物であることに実感が持てなかった。何度も頭の中でこの対照的な二人を隣においても、キリンと鉛筆のように全く違った存在のように感じられた。こんな物の共通点を探せと言われるのは困るという気がした。
しかし今、こいつは本来はカミヤで、加藤という人間は世の中に上手く溶け込むためだけのただの仮面の身の上であると露骨に見せつけられて教えられたのだった。ようやく僕は自分の中にカミヤという人物と加藤という人物を同時に取り込めた。
一週間前の夜中、僕は由紀と一緒に高速道路をカミヤの後ろを歩いていた。ここまで乗って逃げてきた壊れかけのハイゼットと氷の欠片が散らばっていて、僕らはそれらの間を通り抜けていた。
「車止めてるから、そこまでちょっと歩くよ」
カミヤが言い、それに付いて行っていた。
足元に枝川の死体が現れる。僕はあえて見ないように視線を上に固定した。直視など絶対にできない。枝川は視界の端で後ろへ流れて行き、見えなくなった。もう振り返ることは絶対にできない。
やがて狼の死体がいくつも現れた。氷漬けにされていたり、首元を切り裂かれたりしている。地面に大量の獣の血が流れていて、鼻を刺激した。これは由紀が殺したものではない。カミヤが殺したものだ。
やがて道脇に一台、車が置かれているのが見えた。なんてことないワゴン車だった。カミヤがキーのボタンを押すと車のヘッドライトが二回点灯して「ガチャ」というロックが解除される音が聞こえた。
カミヤが運転席に乗り、僕と由紀は後部座席に乗る。今日は夜から車に乗ってばかりだなと思ったら、隣から「そうだね」と由紀が言った。声に出てたみたいだった。今日はこれが多い。疲れすぎて頭がボンヤリしている。いろんなことがあり過ぎて脳がキャパオーバーしてるんだろう。 車が走り出すと、カミヤが言った。
「このまま鳥取方面に向かうから。適当に高速降りて、別ルートで帰るよ。この道は通行止めになるだろうからね。というか、そもそも俺たちの後ろからは車は通れてないんだけどね。対向車線で枝川を撥ねた大型トレーラーも道路の真ん中で倒れてるし」
カミヤは助手席のダッシュボードに左手を伸ばし、ゴソゴソと中を漁って煙草とライターを取り出した。右手はハンドルに置いたままだ。箱から一本出して咥えて、火をつけて吸い始めた。全ての動作を左手だけで流れるように行っていた。
「いる?」
煙を鼻から吐きながら、カミヤは煙草の箱とライターを差し出してくる。顔は前を向いたままだ。煙草の箱にはラクダの絵の上に「CAMEL」と書かれていた。
「いらない」
「そう」
カミヤは助手席に煙草とライターを置いた。
車内には煙が充満している。窓も開けてない。僕は煙草を吸わないから、この臭いにも慣れていない。明らかに運転席の前に付いているエアコンだけで煙を排出できていない。由紀は時々、小さくせき込んでいた。
カミヤは今度はポケットをゴソゴソ漁っていた。
「これ、知ってる?」
運転席のシートと助手席のシートの間から、手の平を差し出して言った。手には古臭くて小さな木箱が乗っかっていた。一瞬、違う銘柄の煙草を出してきたのかと思った。
顔を少し近づけて目を凝らして観察してみる。はっきり言って、触れるのを躊躇するくらいに汚らしかった。何十年も経った木造の柱みたいに黒茶色にくすんでいる。この木箱もできた時は新鮮な木の明るい茶色だったのだろうが、その面影は全くない。想像がつかない。そして勿論、全く見覚えがない。
「いや……知らない」
戸惑いながら僕は答えた。由紀も同意するように首を縦に振る。
「まぁ、知ってるわけないよね」
カミヤはヘラヘラ笑いながら馬鹿にするように言った。そして木箱を再びポケットにしまった。
僕は説明を待っていたのに、カミヤは急に黙ってしまった。どうしたのかと訝しんでいると、突然、鼻歌を歌い始めた。カーオーディオからは「スターティング・オーヴァー」が流れていた。それに重ねるようにカミヤはご機嫌にハミングしていた。時々、英語を口にだしたりしている。
曲が終わると、僕は「その箱が何なんだ?」と聞いた。
「あぁ、時間があるから、軽くだけど教えてあげようと思ったんだよ。やっぱり何も知らないで付いて来るのはモヤモヤするかなって思ってさ。好きな曲流れたからつい口ずさんじゃったよ、ごめんね。雪女を人間に戻す方法についてをね」
由紀は身を乗り出した。カミヤは続ける。
「正直言って、結構ダルいよ?治療薬を飲んで病気を治すのとは全然違う。何個か手順を踏んで作る料理の方がイメージとしては近いかな。オナニーしまくった後にマラソンしてまたオナニーするくらい疲れると思う。そりゃそうだよね。この場とか帰ってすぐ『はい、人間になれました。おめでとう』ってできるんなら苦労しない。そんなんだったらもうとっくに皆、雪女やめてるよ」
カミヤは運転席側の窓を開けて、短くなった煙草を捨てた。ようやく煙草の煙が薄まってくれるだろう。
どうでも良い話はいいから早く本題に行ってくれと言いかけたが、やっぱりやめた。
「まず、準備がいる。料理でいう材料集めだね。どれだけ料理の腕があって調理方法知ってても、ニンジンとじゃが芋がなければカレーは作れないからね。この箱はね、カレーの材料なんだ。もちろん、ただの箱じゃないよ。特殊な箱ね。キミを人間に君の人間に変えるために必要な物なんだ」
こう言いながら、カミヤは二本目の煙草を出して吸い始めた。深呼吸するかのように深く息を吸って、煙突みたいに鼻から煙を吐く。
再びカミヤは箱を持って「見たかったらじっくり見てもいいよ」と後部座席に向けて放り投げた。由紀がキャッチして、あらゆる方向から食い入るように観察する。先ほどと違って、僕も気になって横から見てしまう。
「雪女の世界にはね、『氷魂具』っていうものが存在してるんだ」カミヤが言った。「『ヒョウコング』ね。氷の魂の道具。略して氷具っても言う。雪女の雪を扱う力みたいな特殊な能力が封じ込められてるんだよね。その箱はその一つだよ。これを集めなくちゃいけない。全部で五つ必要だ」
こう言われて特別な箱だと先入観を入れて改めて見てみると。この古臭い外見にも納得がいくような気がしてくる。
「カレーを作るには人参、玉ねぎ、じゃが芋、豚肉、カレールー、の五つがいるよね。それがなくちゃ始まらない。これと同じなんだよね。この箱と同じ氷魂具を全部、つまり五つ集めなくちゃいけない。それは日本全国に散らばってるんだよね」
「五つも……」
由紀が疲れたように呟いた。僕はカミヤに尋ねる。
「もしかして、それを全部回収して来るって言い出すんじゃないだろうな?」
「おぉ、よく分かったね。君、読心術できるの?」
これを聞いて、僕も由紀と同じように途方に暮れる。日本の各地を巡るなんて気が遠くなる。しかもただ行って拾ってくるだけではなく、持っている雪女との面倒事もあるのではないか?
絶句している由紀と僕に、カミヤは明るい声音で言った。
「でも、ここで一つグッドニュース。そのうちの二個はもう俺が持ってる。だからあと三つだよ。在り処も分かってる」
残り三つになったが、喜んで良いのかどうか分からない。三つでもまだ多いような気がする。
複雑な顔をしていると「そのくらい頑張ろうよ~、イェイイェイ」とカミヤが言った。
「それで、五つの内の一つがその箱ね。『雪崩の箱』って呼ばれてる。物騒な名前だよね。実際、物騒なんだけど」
「雪崩の箱……」
僕は由紀の手の平に乗せられているその木箱を眺めながら反復する。
カミヤは短くなってきた二本目の煙草を窓を少し開けて外に捨てる。三本目を吸うのかと思っていたが、右手をハンドルに戻し、ウィンカーを付けた後ハンドルを傾けて高速を降りた。
さっき、カミヤが高速ではなく別ルートで帰ると言っていたのを思い出す。高速は今日はもう使えないと言っていた。だったら一般道路を通って帰るしかない。
僕は高速を降りた事が気になっていたが、カミヤは気にしない様子で話している。
「この箱さぁ、かなりヤバいんだよね。ある程度の力を持つ雪女が力を込めて開けると、箱の中から雪崩が出てくる。昔話か冗談だと思ってたら試したら本当だったよ。それで辺り一面を雪まみれにして一気に十七人くらい巻き添えで死んじゃったことがあってね、気をつけてるんだ。俺も埋まって三時間くらい出られなかったよ。武器と言うより、もう兵器だよね」
自分の顔が青ざめたのが分かった。カミヤは愉快そうに笑い始める。
「ちなみにね、このヤベェもんをヤべェと知らない奴に貸して手に取らせてみるのが面白くてさ、たまにやっちゃうんだよね。筆箱とか嘘ついてさ。手榴弾をおもちゃと信じ込んで弄る少年を眺めるドキドキと似てるのかな。俺が少し力を込めると雪崩に埋もれて死ぬのにさ。ゾクゾクするよね」
カミヤは「はぁはぁ」と息を荒くしている。前の運転席で前を向いているので表情は見えないが、頬が紅潮しているのは分かった。
由紀は虫か電流にでも触れてしまったかのように箱を手放してしまっていた。箱はカランと音を立てて、僕の足元に転がってきた。
こんな話を聞いた後では僕も触りたくなかったが、カミヤが返せと言わんばかりに左手を後ろに差し出してきたから、僕は人差し指と親指で汚れた雑巾をつまみあげるように、箱をつまんで引っ張り上げた。
箱をカミヤの左手の手の平に落とすと同時に僕は言った。
「まとめると、こういうのを五つ揃えなくちゃいけなくて、あと三つ集めろってことだな」
「そそ。俺が気になってるのは、由紀ちゃんがそれをちゃんと最後までできるか、やる気があるかってことなんだ。どう?やれる?」
カミヤは流し目のように後ろを向いて、由紀に問いかける。由紀は頷く。カミヤは「そうこなくっちゃ」と言う。
「逆に私が気になってるのは、あなたの話が本当なのかってことなんだけど」由紀が言った。「嘘じゃないわよね」
由紀は怒った時や真剣な時にたまに見せる、冷たく射殺すような視線をバックミラー越しにカミヤに向けた。
「その見開いた目やめてよ~」
カミヤがごまかすように言った。
「君はもてあそぶにしては怖すぎる女だよ。下手したらこっちが殺されるかもしれないんだから、命がけさ。春樹も大変だね。そこいらのメンヘラ女よりも百倍怖いよ。よくこんなのと付き合えるよね。馬鹿じゃないの?」
僕は何も答えない。由紀も冷たい目をしたまま黙っている。
「まぁ、ちょっとくらいは信用してよ。俺は君らの命の恩人なんだからさ」
ここで、車内で流していたジョンレノンのアルバムが最後まで終わった。カミヤは接続していたケータイを弄って、別のジョンレノンのアルバムを再生し始めた。カミヤは曲を口ずさむだけになる。
洋楽をほとんど聞かない僕でも知っている曲が流れてくる。イマジン、だ。
「想像してごらん。疑念なんてないんだって。ほら、簡単でしょう……君と僕が信頼しあっている姿をさ」
何だこの歌詞は、と思った。ジョンレノンが歌っていたものと全然違っている気がする。カミヤが勝手に歌詞を変えながらアピールして来ていることに気が付く。
「ほら、簡単でしょう……」
絶対、無理だ。




