第三十七話 スヌーズと生活習慣病
由紀と二人で並んで歩く夢を見ていた。大学の帰りに二人で手を繋いで歩いて帰っているという設定らしかった。たわいもない話をして時々冗談を言って笑いあう、幸せな気分だった。
ふと手が冷たくなったと感じて、隣を見る。由紀の姿はカミヤに変わっていた。
「やぁ」とカミヤは微笑む。僕の右手がピキピキと凍り、それが腕、首へと這いあがってくる。僕は叫び声を上げようとするが、氷が口を覆って声を出せなかった。
ここで、目を覚ました。顔の右側に枕の感触がする。布団の上でスマホがアラーム音を立てながら震えていた。
恐怖が最大の所で現実に戻ってしまった。こんな夢、前にも見た気がするな。
夜中に悪夢で目が覚めた時に、その怖さがなかなか拭えずに眠れないということが一年か二年に一回くらいある。頭がまだ夢の方が現実だと思い込んでしまっている。強烈な感覚が残っている。その状況と同じだった。
恐怖の記憶が鮮明で、頭を占有してしまっている。少しでも気が緩むとまた夢へと引きずりこまれそうな気がする。
スマホはまだ震えて、僕に早く止めろと言ってくる。しかし、なかなか体を動かす気になれない。こんなに目覚めの悪い朝も珍しい。カーテンの隙間から日光が差し込んできていて、ほこりが空中を漂っているのが見える。そうしているとスマホの音は勝手に止まった。
十分おきのスヌーズが二回鳴った所で、ようやく僕は手を伸ばしてベッドの端で床に落ちるギリギリを保っているスマホを手に取った。寺の写真の背景に表示されているのは時刻表示のみだった。新着メッセージは一つもない。それがまた僕の心に鉛みたいな重たいものを流し込んでくる。
「はぁ………」
僕は溜息をつく。目を閉じてしばらく、しばらくそのままでいて、もう一度開く。画面は何一つ変わらない。
ゴソゴソと音を立てながら身を起こす。腰からタオルケットがずり落ちる。
朝の二十分近くをロスしたので、あまりゆっくりもしていられない。だが、慌ただしく準備を急がせる気も起きない。
トースターで食パンを焼いて、それを齧りながらニュースをボンヤリと眺める。キャスターは政治家の汚職事件について喋っていた。高速道路で事故が起きて、狼の死体がいくつも見つかったなどとは一言も言わない。
恐らく、あの日の巨大な狼が高速道路を駆け巡っていたことは防犯カメラに映っていただろう。しかしニュースからは何一つ流れてこない。八月に雪が降った時には「異常気象か?」と報道されていたが、今回の高速道路はなかったものとして扱われている。
あくまで僕が調べた限りだが、SNSでも道路を狼が走っているのを見たという人は何十人もいた。動画も一緒に投稿されていたが、暗闇の中で遠くに何かが過ぎ去っているのが見えるかな?というくらいだった。
確かに、あの狼の走る姿を見て驚いてからスマホを取り出して録画を始めたとしても、その時には既に走り去った後だろう。
誰にもバレていないわけがない。あの後、通行止めになって、警察も動いているだろう。犯人の車として特定されているだろう。氷を操る雪女の姿も映っているだろう。僕も勿論、映っているだろう。捜索していないということは絶対ない。聞くことがないのはもみ消されているからなのかもしれない。巧妙に隠蔽されているのだろうか?
パンを食べ終わって歯を磨いている間も、着替えている間もニュースを眺めていた。次のニュースこそ雪女と狼男の話が出てくるのではないかとドキドキする。不安が膨れあがってくる。指名手配犯になるとこんな気持ちになるのだろうかと思った。
やがて、家を出なければ本当に間に合わない時間がやってくる。少しくらい遅れてもいいかなと思い始めるが、ここでベッドに戻ると一生部屋から出なくなってしまうような気がするので、無理矢理に足を動かして玄関を出た。警察が待ち伏せていたということもなくてホッとした。
自転車を漕ぎ、いつもの道を通って大学に向かう。講義室に入ろうとした時に、廊下から教授が歩いて来るのが見えた。あと数秒遅ければ入れ替わりだった。
真ん中より少し後ろの左端の席に座り、周りを見回す。由紀は今日も来ていなかった。
「じゃあ今日は……」
教授が黒板の前に垂れているスクリーンにパソコンの画面を映写して、説明を始めている。スライドの上でレーザーポインターがうようよ漂っているのを猫のように目で追っていたら、教授が「今日はここまで」と言った。いつの間にか授業は終わっていた。
出席票を出して、次の講義室に向かった。席につくと、ガヤガヤとうるさい教室の中で、僕はじっと前方の入口扉を見つめていた。
僕は待っていた。また由紀が肩を叩いて「おはよう」と言ってくれるのを。扉を開けて入ってきて、僕を見つけて小さく手を振るのを。
夏休み前の、ただ由紀の姿を視界の端で追っていただけの頃を思い出す。あの頃と比べて今はその姿すら見れない。関係は進歩どころか退化してるのかもしれない。僕に向かって微笑みかけてくれる姿をもう一度見たいと、ずっと願っている。
最近ずっと寂しい。自分自身が、飼い主の仕事が忙しくてなかなか構ってくれない犬みたいに思えた。
時計で時間を確認して再び前を向いた時、後ろから肩を叩かれた。胸が飛び跳ねる。期待に満ちた表情を顔に浮かべているだろうなと自分でも思う。振り向くと弘が立っていて「よぅ」と笑顔で言った。一気に気持ちが冷めて行った。
「……あぁ」
「おい、そんなあからさまにがっかりするなよ。ちょっと傷つくじゃん」
「……あぁ、ごめん」
期待をすかされて僕は隠しきれないほど落ち込む。勝手に期待して落ち込まれるなんて、弘からすればいい迷惑だろう。
弘は僕の隣に座りながら「今日も真城さん来てないの?」と聞いてくる。
「うん、まだ」
「一限も?」
「そう。風邪がまだ治ってないから休むって」
「大変だな。大丈夫かな?」
由紀は先週から大学に来てない。
二回ほど、講義で貰った資料とか掲示板の写真を送ったら、お礼のメールは返って来た。生存確認がとれてホッとした。しかし返って来た文面はそっけなく、僕の心にモヤモヤとしたものを残した。
風邪というのは勝手に僕がそういうことにしているだけだ。とっさについた嘘だった。本当の所は分からない。理由はこちらからは何も訊ねてないし、由紀の方からも言ってこない。狼男と戦った時の体力が回復していないのかもしれないが、多分違うような気がする
「もうほとんど治って元気になってきたって言ってたから、そのうち来ると思うよ」
僕は空元気を出して言った。
「なら良かった」弘は笑った。「講義終わったら何か買って行ってやれば?アイスとか栄養剤とかさ。少し顔を見に行くくらいならいいだろ。お前もちょっと安心するだろうし」
「そうだな。ありがとう」
講義室に着いて、席に座りながら僕が素直に礼を言うと、弘は照れたように目を逸らして笑った。弘は僕に日常という癒しを与えてくれる。束の間だが心配による胃の痛みを緩和してくれている気がする。
「あー、はやく俺も春樹に彼女紹介して見せびらかしたいよ」
「彼女って、Gカップの?」
「そうそう。音々っていうんだ。たまに友達の話をすると会ってみたいなって言ってたし」
「またそのうちね、由紀が元気になったら」
僕がふと時間を気にして腕時計を見ると、もう二限の開始時刻は十分も過ぎていた。教授はまだ来てない。
この講義の担当教授は時間にルーズで、平気で三十分くらい遅れてきたりすることもある。専門科目なら「おいお前」と思うだろうが、この授業は教養科目と言って「我が大学の生徒は専門知識だけでなく幅広い知識を身に付けておかないといかん」という意識の高い理念のもとに強制取得させられる科目だ。おかげで法学部なのに天気の勉強をしたり、工学部なのに地域経済の授業を受けたりすることになる。
だから僕も今、生活習慣病に関する授業を受けに来ている。ただ卒業のための科目で、ちゃんと出ていれば出席点は貰えてテストは形だけ、単位を取れるのは当たり前という授業だった。そんな授業だから教授も大概適当だった。
学生はまだざわついたように話している。僕らもボーッとしながら適当に会話を続ける。話題はとっくに変わっており、弘は興奮したように語っていた。
「いやさー、昨日の夜、寝る前にすげぇ良いエロ動画見つけちゃってさ、夜中までギンギンだったよ。なかなか寝れなくてさ、一限だけでなく二限まで飛ばすとこだった。やっぱり夜にああいうの見始めると駄目だな」
「急に何言ってんの?」
「寝る前に目を閉じてエロいこと考えてムラムラするのは気持ちいいけど、一限ある日はやっちゃ駄目だな」
「その話、やめてくれない?」
「お前に元気を出してもらおうと思って嫌々話してるんだよ。結構、やると幸せな気持ちで眠れるんだよな。でも妄想はいいけど動画は駄目だな。ゆったりなエロは心地いいけど、ガチなエロは目が冴えすぎる」
「お前が話したいだけだろ。何を聞かされてるの?僕は」
「ついやっちまうんだよな。休みの日は起きた後そのまま目を閉じてエロい妄想に突入する時もあるぜ。動画のURL送ろうか?元気ないみたいだからさ」
弘は若干暴走している。多分、こいつは今日学校に来る前からこの話がしたくて仕方なかったのだろう。僕は上の空でまともな返事ができない。
弘はスマホをポチポチいじった。直後に僕のスマホに通知が届く。弘からURLを添付されたメッセージが届いていた。危うく僕は、そのURLをタップしてしまって動画を再生しかける所だった。
「あっぶね」
僕は心臓をバクバクさせながら呟く。二秒ぐらい再生したように思う。
「おい」と文句を言おうとしたところで、弘が言った。
「そういえば、加藤もこの授業とるらしいぜ」
「えっ?」
突然の名前に一瞬、何が何だか分からなくなった。心臓がキュウと縮んで苦しくなり、その後から鼓動が跳ねるように激しくなる。
弘は何気ない調子で話を続けている。
「まだ後期の履修登録は終わってないだろ?先輩からこの講義はクソ楽だって聞いたらしくてさ、浮気することにしたんだってさ。浮気というか、こっちを本命にするというか、乗り換えか。ギリギリ間に合ったんだって」
「おっす」
声と共に後ろに誰かが立つ。背後からの人影が僕を覆う。
僕と弘が振り向くと、黒縁の眼鏡をかけた真面目そうな男子学生がいた。




