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第三十五話 神と谷



 隣の由紀からも息を飲む音が聞こえた。


 枝川は「なんで?」と口から血を噴出させながら呟いた。顔はなぜか少し笑っていた。僕は、人は本当に理解できないことや恐ろしいことに出くわした時に笑ってしまうことがあるという話を思い出した。


「あ~~、まぁ、こうなるよね。でも、うん、予想通りだよ。逆にこうならなかったらどうしようかと思ってたよ」


 この空間にふさわしくない、ひょうきんな口調の男の声が聞こえた。

 人の姿の枝川を突き刺している、杭を逆さにした形の氷の後ろから誰かが歩いて来る。足音が近づいてきて、枝川の横に立った時に全身が露わになる。男は地面から突き出ている氷を撫でていた。


「ばぁ」


 目を見開いて男は僕らの方を向いてこう言った。そして、夏休み明けに会う友達のような微笑み方をしてきた。僕は妙な馴れ馴れしさを感じてしまった。初対面なのに。

 一瞬、僕の思考が止まる。いや、初めてではない。僕もこの男には見覚えがある。と言うより、誰だか知っている。


 初めて枝川に会った時、その隣にいた。その時のメンバーで、枝川が強烈で長い事その人物を思い出すこともなかった。とにかく地味で、頭の中で、その存在が霞んでいたというのもある。僕は必死で記憶を引っ張り出す。なぜ今ここにいる?


「あの時の……加藤?」


「誰?」


 由紀が袖を引いて訊ねてくる。


「いや、あの、工学部の陰キャの……メガネの……枝川と初めて会った時にいた……」


 数秒の間、由紀は考え込んだ後、ようやく思い出したように「あっ」と小さな声を出す。顔中の筋肉をハッとしたように広げる。

 枝川はそれを見て愉快そうに笑い始める。


「ははっ!ひどっ!そんな覚え方されてんの?」


 メガネの奥の瞳が三日月の形に曲がる。今度は悪魔みたいに笑った。得体のしれない不気味さを感じて、背筋に冷たいものがゾクリと走る。

 加藤は枝川の方を向く。枝川の腹を貫かれていた氷は若干伸びていて、枝川の体は宙に浮いていた。枝川は顔を右側へいっぱいに向けて、後ろ目で憎々しげに加藤を見やった。


「あぁっ……ふっ……うぅんっ……」


 喘ぎ声を出しながら、加藤は氷の側面を指先で撫でていた。うっとりとした様子だった。発情しているのかと思った。加藤の血が氷の側面を下へ伝って流れていて、それが手に付くが気にした様子はない。いや、血が付いているからその氷を愛でているのか?


「何でここにいるんだ?」

 僕は訊ねる。

「お前、そんな話し方をする奴だったか?なんかこう、もっと真面目そうだったような……」


「お前が俺の何を知ってるんだよ」

 僕の方を見ずに加藤は答える。指についた血で氷の側面に絵を描き始める。『へのへのもへじ』だったり『チンコ』だとか描いてヘラヘラ笑っていた。

「最初から俺はこんなだよ。そもそも俺は、コイツを君たちに会わせる為に、あの友達……誰だっけ?あぁ、そう、中野だ。中野弘と仲良くなったんだ。変に俺が目立つと困るでしょ?大人しくすんの大変だったよ。キャラじゃないからさ」


 加藤は地面から指を離してズボンで血を拭った。そして眼鏡を外した。


「ホントはね、俺はメガネも短髪も好きじゃないんだよ」


 こう言いながら面倒くさそうに眼鏡を投げ捨てた。上を向いて、右手で髪を下から上に掻き上げる。これまでおでこが髪で隠れていたのが全て露わになっている。先ほどまでとは、別人みたいに違った雰囲気に変わっていた。


 僕の知っている加藤ではない。こんな時間に、こんな場所にいる人物じゃない。顔つきも髪も違っている。話し方も違っている。全てがおかしい。目の前のこの男を、僕は知らない。


「お前は、誰だ?」


 僕は目の前の男に、恐る恐る問いかける。


「前はもっと髪長かったんだよ。肩にかかるぐらいあった。あのくらいが好きなんだけどね~。まぁ、また伸ばせばいっか」


「お前は誰なんだ?加藤なのか?」


 僕はもう一度訊ねた。男は髪を親指と人さし指でつまんで弄っている。僕の方は見ない。


「黒髪も飽きたな。今度、ピンクとかに染めてみようかな。紫もいいな。でもそれだと、やっぱり髪伸ばさないとな~。染めるんなら、短いより長い方がいいよね。だから、短髪は嫌いなんだよな~。どう思う?」


 どう思う?と聞いた癖に、一秒もこっちを向かない。聞き間違いでなければ「なんかエロいことしたくなってきたな」と小声で呟いた。


 会話が全く通じない。何を言ってもこの男の耳には届かず、コイツは自分の頭に思い浮かんだことを好きに口から流し続けるみたいだった。だったら、向こうが話し始めるまで待つしかないじゃないか。

 それから、目の前の男は『昨日の夜に鯨に乗る夢を見た』とか『ココア飲みたいな』とか言いながら夜空を眺めていた。月の軌道を指でなぞっている。

 その間、僕は黙っていたが、男は勝手に話し続けていた。


 無視をし続けていると、ようやく男はこっちを向いて僕に質問した。


「さっきからコンドーからの電話が震えてウザいんだけど、あいつどこ行ったの?」

 不意打ちだったから僕は戸惑って、コンドーが歩いて行った方を指差す。


「使えねぇなあ」と男は舌打ちをする。「もしかしたら近くで見てるっつたから、そこら辺、探してるのかもな」


「……お前がコンドーの言っていた、カミヤって奴だったのか?」


 黙って待ってる間に考えていたことだ。


 こいつは頭のネジが飛んでいる。少し前にコンドーから、頭のネジが飛んでいる奴の説明を聞いた。そいつの名前がカミヤと言った。コンドーからの電話と言った所でようやく確信が得られた。

 氷を出した時に、由紀の仲間かもしれないと思った。少なくとも、雪女の繋がりはある。『雪の一族』であることは間違いない。由紀なら何か知っているかもしれないし、もしかしたら仲間だとも思って、ベラベラ喋られている時に「知ってる?」と由紀に小声で聞いた。しかし由紀は首を横に振っていた。


「そうだよ、加藤ってのは本名じゃない。全く別人のフリをするのは大変だったな。そもそも、何個も名前持ってるから本名ってのがどれかは、もう分からないけどね。でも、使用頻度第一位はソレだね。なんでもいいんだけど」


 枝川が「うぅ……」と呻いた。地面から伸びている杭の形をした氷に貫かれた体をほとんど動かさず、力が抜けて洗濯物のようにぶら下がっている。目だけでカミヤを睨みつけていた。呪い殺すのかと思うほどの眼光だ。


「あぁ、まだ生きてたの?君。もう用済みだから退場していいよ」


 カミヤは右手の手の平を枝川に向けた。手の周りに白い冷気が漂う。その中から蔦の形をした細い氷が何本も出てきて、カミヤの手や体の周囲に纏わりつく。

 カミヤの手から何本もの氷の蔦が枝川の体へと飛んで行き、そのままザクザクと音を立てながら貫通する。貫いた蔦は枝川の体を縛るように巻きついた。

 この氷の蔦を見た時、枝川の目が微かに見開いたような気がした。血を流しながらも口を開く。


「お前、この氷の蔦……カミヤ、お前があの時の、俺たちを襲撃した、初めて狼男にライトを使った雪女の……仲間を殺しまくった……」


「うわっ、まだ生きてるの?ゴキブリかよ、気持ち悪いな~」


 枝川は口を開いて何か言おうとしたようだったが、カミヤは相手にしなかった。

 枝川の鎖骨を貫いた氷の蔦は、そのまま首と口にグルグルに巻きついて縛り上げる。枝川は何も言えなくなった。


「バン」とカミヤは言った。


 この言葉と同時に、枝川の体は新たな十数本もの氷の蔦で串刺しになる。首に何本も強く巻きついていて、息をするのは不可能に見えた。いつの間にか枝川の目から色は消えていた。瞬きもしない。口も手も動かない。

 枝川の体は氷の蔦に持ち上げられて、氷の杭から抜けて地面に落ちた。胸に穴が空いていた。それをカミヤは冷たく見下ろしていた。


「ここまで歩いてくる時、ついでに残りの狼二匹も殺してきたから」とカミヤは言った。「これで全部、駆除完了だな」


 カミヤは満足そうな顔をした。僕は吐き気を堪えていた。この数時間で異常なことに出くわし過ぎて感覚が麻痺していたが、通常の感覚がようやく戻ってきた。人の形をした生き物が殺される瞬間というのを初めて見てしまったからというのもあるかもしれない。

 穴だらけの枝川の死体はカミヤの足元に落ちていた。「邪魔」と呟き、カミヤは再び氷の蔦を手の平から出して枝川の足に絡みつかせ、五メートルくらい横に投げ捨てた。暗闇の向こうから死体が地面にぶつかる音が聞こえた。

 今度こそ、カミヤは僕たちの方に歩いて来ようとした。


「カミヤ!!」


 歩みを遮るように呼びかける声がした。カミヤは舌打ちをする。後ろからコンドーが走って来る。カミヤの前で止まり、膝に手をつきながら息を荒げている。


「何をしてたのデスカ?適当な所で手を貸すって言ってたノ二。元々は、あの倉庫で助けるって予定だったじゃないデスカ。途中から全く姿を見せないし、連絡しようとしても繋がらないし、かと言ってあなたから一方的にあーしろこーしろっていうメールはクル。本当にもう、いい加減にしてくくださいヨ」


 コンドーは不満を並び立てる。カミヤはヘラヘラ笑いながら「ごめんごめん」と手刀を切りながら謝っている。


「後ろの道路がさ、クソでかい狼のせいで地面がボコボコになってんの。標識とかポールとかが折れて道に散乱してるし、車の横転は起きてるし、凄いことになっててさ、つい見入っちゃったんだよね」


 確かに後ろからは車が一つも走って来ない。枝川が走った道は全て駄目になり、そこに突き当たった車は全て後ろからつっかえていたのかとようやく僕は得心する。

 カミヤはまだ子供みたいにはしゃいでいて、悪びれている様子は全くない。それを見ながら、コンドーはまだ文句を言っている。

 カミヤはコンドーの方に歩いて行き、肩に手を置いた。


「本当に悪かったって。いろいろ大変だったらしいね」


「もう、いつものことだからイイデスヨ……」


 コンドーは呆れた様子を露骨にして、怒りを静めていく。


「というか、このやりとり何度目デスカ?いつもそうやって謝ってますけど直らないじゃないデスカ。直す気ないデショウ?」


「ゴメン、ゴメンって」


 カミヤは相変わらずヘラヘラしている。

 カミヤの腕の付近で、何か細い紐のような物がグネグネ動いているのが見えた。それがコンドーに向かって勢いよく伸びる。暗闇で、見間違いじゃなければコンドーの腹部に吸い込まれているように見えた。


「えっ?」


 コンドーの口が呟く。僕もつられて「えっ?」と同じ言葉を呟いていた。

 氷の蔦が、コンドーの腹を貫いていた。


「君はもうクビね」


 カミヤはこう言った。すると氷の蔦が縮み、コンドーの体はズルズルと引きずられて行った。手の平に蔦が吸い込まれているように見える。カミヤは氷の蔦を自分の方へ戻しているのか?

 コンドーはうめき声と叫び声の混じった声を上げながらカミヤの足元まで引きずられて、そのまま後ろに放り投げられた。


「コイツ、邪魔」という言葉と同時にコンドーの腹部から氷の蔦が抜ける。コンドーの姿がカミヤの背後の闇に消えて行った。


 救急車を呼ぼうととっさに僕は思ったが、携帯をどこかに落としてしまっているらしい。ポケットになかった。


「大丈夫、急所は外れてるよ、多分」

 僕の心情を把握したようにカミヤが言った。

「それに、あと少ししたら警察が異変に気づいて駆けつけてくる。そしたら勝手に見つけてくれるよ、多分」


「そういう問題じゃない」

 僕がこう言うと、続けて由紀も「あなた、何してるの」と怒気をはらんだ声で言った。


「ん?あぁ、どうせ、もうそろそろ替えようと思ってたんだよ」


「替えるって……」


「何でもずっと同じもの使ってたら飽きるでしょ?財布とかスマホケースとかさ、俺は頻繁に替えるタイプなんだよね。いくつか持っていて、数日おきにローテーションさせるまである。人も、そいつも、同じだよ。別の欲しい。もうアレいらない。飽きた」


 カミヤは溜息をついて、コンドーのズボンのポケットをまさぐる。スマートフォンと財布を取り出して、自分のポケットにしまう。


「長く使い続けてた方だと思うよ。でも、もうオッサンだし、体力なくなってきたし。昔はまだ子供でかわいかったし、若い頃はそこそこ格好良かったんだけどね」


「そんな、使い捨てみたいに……」


 由紀が信じられないという風に呟いた。それを聞いて、カミヤは不思議そうな顔をする。


「そういうのいいから。今更、何言ってんの?逆に、そもそも人間だって使い捨てじゃないの?現代の社会見てたら簡単にわかることじゃん」


 カミヤはまるで僕たちが常識知らずだと言うようだった。


「まぁ、いいや。俺が言いに来たのはこんなことじゃない」


 こう言って、カミヤはこっちへ歩いてきた。つい、僕と由紀は身構えた体勢になる。

 一メートル手前でカミヤは止まり、少し身を屈めて僕たちの方に手を差し伸べた。


「自己紹介がまだだったね、俺はカミヤ。よろしくね」


 ニコッと笑いかけて、カミヤは握手を求めてくる。応じる気には全くなれない。由紀も同じらしかった。カミヤの手には血飛沫が飛び散ってついていた。コンドーの血か、枝川の血かは分からない。もしかしたら両方かもしれない。

 空間に気まずい沈黙が流れて、時間が止まったみたいになる。自分から何か言いだそうとは思えない。握手を無視されて、カミヤは気分を悪くしたらしかった。


「んだよ、無視かよ。傷つくな~、もう。もっと陽気に、楽しんで行こうぜ!ヘイヘイ!」


 手を叩きながらカミヤは騒ぎ始める。僕たちに参加を求める目配せをしているが、相変わらず黙ったままなのは変わりない。しかし意に介さずに続けている。


「ヘイヘイ!プチョヘンザァップ!」





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