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第三十四話 ゾンビと同情


 枝川は対向車線に放り出され、そこを走っていた大型トレーラーに撥ねられた。最後の数秒間、最高の笑い声を上げ始めたと思ったら『ドゴン』という鈍い音と共に、一瞬で姿が消えていた。


 突然の静寂が訪れる。いや、あまりのことに耳に音が届かなくなったと言う方が正しいかもしれない。それが数秒の間、続いた。


 僕たちの車の速度も徐々に落ちていた。コントロールを失ったみたいにフラフラと蛇行している。

 運転席の方を見ると、ちょうどコンドーが口を開いた。


「降りてくだサイ。この車はもう駄目デショウ」


 車は、枝川の爪のせいで後ろのタイヤがパンクしているのだろう。荷台は凹んだり削れたりして、ほとんど原型が残っていなかった。端の方は完全に吹き飛んでいる部分もある。

 これ以上、走るのは無理そうに思えた。もうアクセルを踏んでもスピードが出ないのかもしれない。どこかの部品が壊れたとしても不思議ではない。


 車が路肩に止まり、僕はドアを開けて外に出る。由紀も僕の後ろから辛そうな表情で出てきた。もう自力でドアすら開けれないほど力が入らないのかもしれない。


「どうなったんだろう?」


「分からない……」


 僕の呟きに由紀が弱弱しく答える。暗闇に狼の姿は見えない。


「作戦成功、なのでショウカ?」


 コンドーは顔を引きつらせたように笑いながら言った。

 正直、由紀から対向車線を見るように指示された時には、何が目的なのか理解できなかった。向こうからトラックが走って来るのが見えて合図を出してから、ようやくどうなるのかイメージできた。


「ワタシは、カミヤに連絡してきマス。迎えに来てもらいマス。恐らく枝川の方は、さすがにあの大型トレーラーに顔面を撥ねられれば即死デショウ」


 こう言って、コンドーはスマホを耳に当てながら僕らから離れて行った。

 僕と由紀の二人だけが取り残される。なんとなく、気まずい気持ちになった。講義室や部屋で一緒に時間を過ごすのとは全く違っていた。


 由紀は地面にへたり込んだ。僕は「大丈夫?」と声を掛けながら膝をつく。横顔を見た時に『これが本当に最後なのかもな』と思った。


 枝川の『雪女の弱点はお前だ』という言葉が耳から離れない。シミみたいに頭の裏側にこびり付いている。指を差されながらせせら笑う光景まで残っている。

 もっと一緒にいたいが、僕がいては駄目なのだ。いくら彼女が良いと言っても、いて欲しいと言ってくれても、実際にこんな目に遭ってしまったら、もう無理だ。隣にいながらこの思いを消すことはできないだろう。


 再び、同じようなことが起きて、今度こそ由紀が目の間で危険な目に遭ったりしたら、しかもそれが自分を利用されてだとしたら、想像するだけで耐えきれない気持ちになる。今から後悔が渦巻いて来る。ついさっきまでその後悔を、胸が詰まるほどに抱いていたからだろう。今回は何とかなったが、次も何とかなる保証なんてない。

 雪女だから、強いから、と甘えていた。最澄との争いを見て、思い込んでしまっていた。でもいざとなると、一人の女の子であることには変わりなかった。


 僕はこんな女の子を当てにしていたのかと自分自身を恥じた。守ってあげなければいけないのは僕の方だったはずなのにな。でも、そんな力はない。

 離れたくない。それは由紀も同じだろう。どう伝えれば良いのか。別れるなら早い方が傷が少なくて済むのだろうか。明らかに今ではないが、それならいつ?また再び、悲しませてしまうのだろうか。一人ぼっちにしてしまうのだろうか?泣かせてしまって心に傷を残していってしまうのだろうか?僕のせいで?


 心に傷を負わせてしまうことには変わりない。目に見えないからと言って、軽視していいわけじゃない。体と同様に痛むし、深い傷だと跡に残るように長時間苦しみ続けることになる。場合によっては、こっちの方が辛いかもしれない。もし二度と立ち直れなくなってしまったら?


「どうして泣いてるの?」と由紀が訊ねる。


「いや……」


 僕は涙ぐみながら答える。我慢していたが無理だ。悲しくて堪らない。今にも大声で泣き出しそうだ。


「怪我してるの?」


「してないよ……」


 涙を拭いながら答える。昔に僕が由紀に告白した時のやり取りを思い出す。それに似ていた。

 あの時は僕が今の由紀のように泣いている顔を覗き込みながら心配していた。今は逆だ。思い出して、フッと吹き出しそうになる。でも涙は止まらない。あの頃はまだ幸せだった。何も知らない方が幸せだった。


「本当に何にもないよ」


 僕は由紀から顔を背けながら答える。煙のように消えてしまおうと覚悟する日がくるなんて思わなかったな。本当に、もう今が最後なのかもしれない。


「まだ、終わっていない」


 声が聞こえた。続けてズルズルと足を引きずる音がした。

 音の方向を見る。暗闇から人型のシルエットが現れた。





 枝川の姿を見て、僕は思わず手で口を抑えた。


 外見は既に狼ではなくなっていた。所々に灰色の毛が生えているのみだ。体の全ての部位は人間の形をしていた。しかし、その姿は普通の人間とは思えないものだった。

 腹が抉られたみたいで、肋骨とテラテラ光る内臓が少しのぞいている。左足は明らかに複雑骨折していて、腕はダラリと垂れている。力というものが感じられず『ぶら下がっている』ように見える。


 顔は右半分が原型を留めておらず、右目の目玉が、球形がはっきりと認識できるほどに深く負傷していた。全身がバケツで血を浴びたみたいに赤く濡れている。

 こんな状態で生命を維持できるはずがない。しかしふらつきながら枝川はこっちに歩いて来る。ゾンビかと思う。いや、ゾンビでも死んでいる。


「まだだ、まだ終わっていない」


 唇をわずかに動かして、枝川は小さく言う。目は虚ろで、どこを向いているのか分からない。しかし少しずつ足を引きずりながら近づいてくる。

 一気に僕の背筋が冷たくなる。ゾクリとした感覚が背中全体に広がる。這いずるような足音を聞くと、僕はつい一歩、足を引いてしまう。


「お前らは、俺が殺す。殺さなければならないんだ」


 声には執念がこもっていた。何が枝川をここまでさせるのか。それを知ることはできないが、枝川の中に存在するものの大きさを感じさせられた。それは大きすぎて死ぬまで消えず、今の枝川を動かしているのだろう。

 由紀はそんな枝川を憐れむような目で見ていた。そして静かにこう言った。


「もう、終わりよ。傷もそこまで深かったら治らないでしょう?時刻ももうすぐ三時を過ぎる。月は低くなって、朝の空に溶け込むみたいに薄くなっていく」


 僕は時計を思い出して、腕時計を確認する。本当に午前三時だった。月はさっきまで空のど真ん中、頭のちょうど上に君臨していたのに、いつの間にか端へとずれて行っている。僕は少し気が抜けてしまう。


「ここまでされたら、私はあなたを殺してしまわないといけないと思ってる。今逃がしたらまた来るでしょう?」

 由紀は続ける。

「でも今、あなたのその傷だらけの体で来られたとしても脅威じゃない。二度と私に近づかないと誓うか、大人しく殺されるか、選んで」


「ちょっとそれは甘すぎるんじゃ……」

 僕はつい横から呟いた。


「大丈夫。妖怪の間で、契約という言葉はかなり重い意味を持つの。悪魔が人間とする契約なんかは、悪魔は必ず守るでしょう?魂を奪うまで言う事を聞いて、途中で力づくで襲って奪わないみたいに。人間のただの口約束とは全く違うの」


 由紀は僕の顔を見上げて説明する。そして再び枝川の方を見る。


「これは契約よ」


 枝川は顔が血だらけでどういう表情をしているのか分からない。しかし明らかに顔の筋肉が歪んだのが分かった。所々、皮膚が剥がれて原型がなくなっているのに、さらに歪な形になる。僕は凝視できなくなり、肩の方に視線を移して焦点をぼかす。


「ふざけるな…」

 枝川が潰れた喉で言う。声が濁っている。

「ありえない。俺たちが負けるなんて、これ以上屈服するなんて、あってはならない」


 枝川は腕と肩を震わせていた。露出し過ぎた右目の眼球が僕たちの方を向いている。瞼がなくなっているので表情は分からないが、左目の視線で今にも突き刺しそうなほど憎しみを込めて睨み付けられていた。


「雪女を皆殺しにするのは、変えようのない俺の宿命なんだ。これだけはどうやっても、いつか必ず、死んでも達成する……」


 由紀は冷たい目で枝川を見やる。それは敵意ではなく、虫を見るような蔑みと同情を込めた目だった。


「殺す……殺す……殺す……」


 小さく呟きながら、枝川は僕たちの方に歩いて来る。しかし足取りはふらついている。いつ倒れてもおかしくないように見えた。もう完全に壊れた体を精神だけで無理矢理に動かしているのは明らかだった。


 由紀が右の手の平を枝川の方に向けようとする。氷を出す時のいつもの構えだ。

 しかし由紀が腕を水平にする前に、枝川の腹から氷が突き出てきた。


「ドスッ」と重たい音が聞こえた。


「あ゛あ゛っ?」


 枝川は自分の腹を見た。


 枝川の腹から、先端の尖った氷が突き出ていた。

 氷は枝川の半歩ほど後ろの地面から木のように生えていた。途中までは電柱のような円柱型だが、先端に近づくに連れて削りたての鉛筆のように尖っている。地面から突き出てきた杭、とでも言えば良いのだろうか。


 斜めに枝川の背中に入り込み、胸を突き抜けていた。




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