第三十三話 快楽とトレーラー
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思い出した。長らく忘れていた。雪女の奴隷でいたせいで、俺の中から肉食動物の本能は消えかかっていたらしい。この体の内側から沸き上がるような高揚感は、これまでずっと俺たち狼男一族の物だったはずだ。飼い犬のままでは味わえなかった感覚だ。
こんな甘美な味を取り上げられて平気だった自分が信じられない。久しぶりの勝利の味。狩りの味。これがなければ体は生きていても自分は死んでいるのと同じなのだ。脳が震えて快楽の汁がバンバン出てくる。涎が滴って来る。ラリッて頭がどうにかなっちまったみたいだ。
「悪くないなぁ」
俺は呟いた。
「悪くない悪くない悪くない悪くない!!!はっハハハハ!!!」
最高の気分だ。俺は夜空を見上げて叫び狂う。
上を向いたまま、前を走る車を下目で見る。三島と真城が俺の方を見つめて固まっている。
「全部だ、全部いい、最高だ。お前も良いし、俺の気分もいい」
いいぞ、本当にいい。アドレナリンが出まくっている。頭の中がハイになる。うゎっはははは!!!
興奮しすぎて息が切れてくる。
「なぁ」
俺は真城の方を向いて笑いながら言った。
「お前、狼男の側に来ないか?」
「は?何を言ってるの?」
女……いや、真城は怪訝な顔をした。
「俺たちは雪女を憎んでる。俺はあいつらを殺したい。皆殺しにしたい。お前がいれば、それができるかもしれない」
高速道路を走りながら俺は問いかける。息が切れることも疲れることも全くない。
「俺はお前が嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。憎いのは雪女という一族であって、お前個人は別にそうでもない。お前も、雪女という種族が嫌いなんだろ?」
俺は怖さを与えないように、説得してみる。
「滅ぼしたいと思わないか?そうすれば一生関わらないで済むぞ。協力したその後は、好きにすればいい」
真城はずっと黙っていた。最後に俺はこう付け足した。
「もう一度、狼男が世界の覇権を取り戻す」
沈黙が訪れた。やがて真城はおずおずと口を開いた。距離が遠くて風が声の邪魔をする。しかし狼の耳なら問題なく聞こえる。
「大人しく付いて行ったら、この人たちは見逃してくれる?」
「おう、いいよ。見のがしてやるよ」
俺はウキウキした声音で軽く答える。まぁ、嘘だが。
三島春樹は嫌いだからいつか殺す。今すぐにでも殺したい気分だ。散々邪魔されたからな。運転席の奴もいたぶって殺す。屈辱を受けた相手ってのは首元を噛み切って血だらけにしなきゃ気が済まない。狼としてのプライドが許さないのかもな。
こう考えていると、やっぱりこの雪女も用が済んだらそのままって気分にはならないだろうと思えてくる。ここまでコケにしておいて、仲間を殺して、タダで済むわけがない。用が済んだらすぐに殺してしまうかもしれない。俺たちからすれば生かしておくメリットがない。殺して、雪女をこの世から全て消し去ってしまった方が確実だ。
多分、そうなるだろうな。でも、今は口だけは聞こえの良いことを言っておく。
女をホテルに連れていくために口説くような気分になっていた。獣が相手だと相手が嫌がろうと強制的に種付けしてしまえば子孫繁栄という目的は達成されるから良いが、人間相手にはそうはいかないらしい。
人間のメスってのは上手く釣るには、言葉で弄んで騙して、引っかけるということをしなければいけない。俺はとことん、人間には向いてないだろうな。こんなことをするのは今だけだ。でもやってみると楽しくなってきたりもする。
真城は俺をじっと見つめている。俺はニコッと微笑み返したい気持ちになるが、狼の顔の筋肉ではそれはできない。
「……やっぱり、信用できない」
真城は言った。あ?
「目が、そう言ってる。それに多分、無理。銀霰姫には勝てない」
コケにされたような気分になった。頭の中でブワッと血の匂いが広がる。この雪女の喉元を噛み千切りたい。そうだ、俺は狼だ。協力するのは同種の仲間だけで、他種族の協力など必要ないのだ。俺はどうかしてしまっていた。
「そうか」
こう言って、俺は右側の狼に小さく鼻を鳴らす。狼はスピードを上げて車に近づいていく。
その仲間の狼は車の三メートル後ろくらい後ろをピッタリとくっつく。真城が四角の尖った氷を出して振り回したが、全て避けられていた。
「俺にはどうして、お前がそこまで人間に執着するのか分からないなぁ」
俺は疑問に思って言った。
「だって、そうだろ?どうせすぐに死んで、また一人になる。『死んでしまった昔の人たちの中の一人』になるんだ。別に十一人が十二人になったって変わらないだろ。それに、これまで人間に関わってきて良いことがあったのか?メリットがあったのか?いつかお前も俺みたいに、人間に殺されることになるぞ。弟がいい例なんじゃないか。関わらない方が良い。俺には人間なんてクソみたいな生き物のどこに固執するのか、全く共感できないね」
真城は狼の相手をしていて、聞いているのか聞いていないのか分からなかったが、俺が言い終わるとこっちをチラリと見た。何も言い返して来ないように思えたが、わずかに唇が動く。
「それは、あなたが獣だからでしょう?」
頭に、血がカッと沸き上がった。自分が獣であると再確認して、それが誇りであると感じていた所を見下された。ましてや、雪女に。一番嫌っている奴らに。溶岩のように熱い怒りが、まだ頭の中に残っている高揚感と混じり合って理性がなくなり、真城の首を噛み千切る想像だけが鮮明になり、それしか考えられなくなる。
最後まで交渉は決裂したままだった。説得するのは無理だった。もう飽きた。いっそのこと、人間たちと一緒に殺してしまおう。後のことは済んでから考えよう。
俺は一気にスピードを上げて車に近づく。それに気付いて仲間の狼が下がる。
真城が運転席と三島に、それぞれ耳打ちするように何か言って荷台に出てきた。どうせ死ぬのにコソコソと俺に聞かれないようにして何の意味があるんだ?
多分、『私のせいでごめんなさい』とか言って謝ったが、最後の別れでも呟いたのだろう。その通りだ。そもそも、この雪女が存在していなければ、三島がこんな目に遭うこともなかったし、俺もこんなことをしなくて済んだんだ。お前は疫病神だ。これ以上、周囲に迷惑をかける前におとなしく死ね。
真城は荷台に立った。髪がバサバサと音を立ててなびいている。俺をじっと見るその目が石を見るように冷たくて、さらに苛立ってくる。
俺は後ろ足に力を入れて地面を蹴り、車に飛びかかる。完全に狼の姿に戻っている。爪の生えた巨大な手を雪女に振り下ろす。
「ガキィン」という音が目の前で響く。
氷の蛸の足、廃工場で散々俺の爪を弾いたあれが四本、再び真城由紀の肩の後ろから現れていた。
俺は空中でバランスを素早く立て直し、左手の爪を振り直す。それも素早く腕でガードするように防がれる。空中で体を一回転させ、後ろ足で雪女の腹を蹴り飛ばそうとするがそれも防がれる。
舌打ちをして、俺は地面に着地する。そして再び車に接近する。
「それ、まだ出せたのか。何回も何回も鬱陶しいな。でも、どうせ最後の力を振り絞っての抵抗だろう?いつまで続くかな?」
こう言って、再び真城に襲い掛かる。爪を振り下ろし、それを三回防がれ、体が地面に落ちてくると後ろ足で道路を蹴って飛び上がり、再び連続で爪を振る。
車のタイヤを破壊した方が早いんじゃないかと考えて、さりげなく前足の爪を車のタイヤに刺そうと蹴る。しかし雪女はそれを見切っていて、自分の体から距離があるのにも関わらず氷を伸ばして防いでくる。
持久戦では向こうのスタミナが切れるまでは決着がつかない。しかし俺の方が体力は圧倒的に残っている。向こうは、いつぶっ倒れるか分からない。こっちが有利だ。もう俺に勝てる手段はない。焦ることはない。じっくり、いたぶるように攻めればいい。
「弱い弱い!」
再び真城に飛びかかり、爪で斬り付け続ける。最高に気持ち良い。地面に倒れてノックダウンしている人間を、馬乗りになってタコ殴りにするような爽快感と征服感がある。
「VVVVOOOOORRRR!!!」
俺は再び叫び声を上げる。続けて笑い声が溢れてくる。
「ハハハハははは!!!」
真城は防御で精一杯だった。氷も少しずつ剥がれている。そろそろ、このサンドバックで遊ぶのも終わりかと思う。
「人間と関わり、肩を持ち、頼ろうとするからこんな目に遭うんだ!馬鹿が!」
真城は冷たい目で俺を見やる。相変わらずイラつく目だ。殺したら一番に目玉をほじくって食ってやろう。
「……人間と関わらなければ、あなたに襲われることもなかったかもしれない」
馬鹿な雪女は勝手に話し始めた。
「でも勿論、得られるものもあれば、得られないものもある。出会える人もいれば出会えない人もいる。私は自分の選択を後悔してない。良かったと思ってる。それでいい……あと、確かに、あなたを殺すには私だけの力ではなくて、人間の力が必要だった。こんな風にね」
「何、意味が分からないことを言っている」
俺が馬鹿にしながらこう言った直後に、三島が「来た!」と叫んだ。
真城が、四本の氷を一本に束ねる。今日見た中で一番太くなる。そしてそれを、俺の腹部に向けてバッドのように振った。俺は手で止めようとするが、間に合わなかった。真横に体が吹き飛ばされる。
「こんなことか?」
確かに痛くて呻きはするが、致命傷と言うほどではない。
巨体を空中に浮かせながら真城の方を見ると、俺を殴り飛ばした氷は粉々に割れて、砂が風にさらわれるようになくなっていく。真城は膝を荷台に付けてへたり込んだ。
氷が一本だけに纏まった時に、爪はハイゼットの後ろを切り裂いていた。そして肥大化した氷の重量でタイヤはパンクしていた。既に車は速度をかなり落としている。運転手はブレーキを踏んでいるだろう。車は蛇行を始めている。
俺は空中を漂いながら勝利を確信する。そして再び笑い始める。
「終わりだ!」
こう言って勝利の雄たけびを上げようと口を開いた時、目の前に大型トレーラーが見えた。
鈍い衝撃音がした。
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