第三十二話 獲物とVR
「俺はいつか、雪女を殺しつくす責任がある!」
枝川は突然、こう叫んだ。そして速度を上げて、暗闇の中からライトで照らされている道路まで走って出てきた。巨大な狼の姿が明らかになる。
しかしライトの光が体に当たっている。枝川の体の表面の毛は燃えるように黒く音を立てては抜けて、空気中で焦げカスに変わり、後方へ流れていく。耳が徐々に人間の形に戻ろうとしている。
「何を考えてるのデショウ?馬鹿なのでしょうカ?」
コンドーが嘲るような笑いを含めて言った。
僕もコンドーと同じように思った。てっきり、ライトが切れるまでは獲物の体力が尽きるのを待つように、後ろを追いかけまわしてくるものとばかり思っていた。僕たちも相手に何もできないが、それは向こうも同じだと考えていた。
だからコンドーが「時間稼ぎができる今のうちに何か作戦を考えまショウ」と言った瞬間に、光の中に飛び込んでくるのは、まさに飛んで火にいる夏の虫だと思った。
「どうせまた、変身が解けて後ろに転がって行くのは決まってるのデスガ。でも、ラッキーデス」
枝川の体の様々な部位が、人間の形に戻ろうとしていた。右腕も毛が抜けて、肘の部分だけ人間の骨格だ。全身の四割程は人間の肌が覗いている。顔の、右目は人間だが左目は狼のままだ。肩まであった髪も露わになっている。
狼が六割で、人間が四割という姿が、体中グチャグチャに混在している。つぎはぎの改造人間かミュータントのような姿と化していた。
「VVVVVOOOOOOORRRRRRRR!!!」
奇声とも雄叫びとも分からない、我を忘れたような声が響き渡る。
僕はその姿にとてつもない恐怖を覚える。
「化け物だ……」
「どうして、そこまで……」
「やっぱり、狼男は狂ってるんデス」
僕と由紀とコンドーが、それぞれ呟く。
枝川は突進を止めなかった。全身が光に当てられていて、体に人間の部分が混じっているせいで上手く走れていないのに、それをお構いなしにどんどん距離を詰めてくる。
「まさか、このまま特攻して来るつもりか?」
僕がこう言うと同時に由紀が手を、半獣半人の化け物のようになっている枝川の方へ向けて、先端の尖ったダイヤ型の氷を飛ばす。枝川は走り続けるのに必死で、避けるまで気が回っていなかった。
ドスッ。氷が体に突き刺さる音がした。しかしそれは枝川ではなく、別の狼だった。腹部に深く刺さっていて、血が飛び散った。僕たちが枝川に意識を持っていかれている間に、暗闇に紛れて横から接近していて、枝川と氷の間に飛び込み、身代わりとなったのだ。
狼は光を当てられて空中で人間の姿に変わっていく。地面に落ちて道路を転がって行く時には、完全に人間の形になっていた。
再び、由紀の手の平の先にダイヤ型の氷が形成され始めた。パキパキと音を立てて菱形が現れる。今度は三つだった。
枝川の体の方はかなり縮んでいて、狼が四割、人間六割のような見た目になっていた。足も一本は完全に人間のものになっていて、車との距離は詰められていなかった。
そんな枝川に向けて、再び氷が射出される。
氷は真っすぐ枝川の方に飛んで行く。今度こそ命中したかと思う。しかし、いつの間にか枝川の前にまた別の狼の物が現れて、三つの氷はその狼の胸元を貫く。高速道路の上を、狼が人間の姿に変わりながら、転がって見えなくなる。
「上デス!」とコンドーが大きな声を出す。
見ると、二匹の狼が空中を跳躍していた。ライトの照射範囲を飛び越えている。その内の一匹に、狼の部位を張って付けたような人型の枝川が乗っている。
枝川は狼に乗って、車の方にダイブしてくる。僕はライトを道路から上空に向けようとする。が、間に合わないことを悟る。
由紀が手を上空に向けて、氷を飛ばす。五本もあるが綺麗なダイヤ型ではなく、歪な形をしている。ただ拾った石を研いだだけのように見える。速度も遅い。
それも、二匹狼が全て体を盾にして受け止める。枝川を庇うようだった。空中で血が弾ける。道路に狼の体が落ちていく。狼の背中に乗っていた枝川は、その背中を踏み台にするように飛び跳ねた。
車の荷台に、枝川が飛び込んでくる。もうどうやっても止められない。由紀も同じように感じていただろう。空中で近づいてくる化け物の姿がスローモーションに見える。顔の右上と、左顎の辺りが狼だ。体の右肩から先と左足も狼だった。
「嘘だろ」
僕は呆然として言った。
「VVVVOOOOORRRRRRRR!!!」
枝川は荷台に着地すると同時に、右腕を振り上げる。鋭い爪と所々に黒い毛が残っている。それを僕が持っているライトに突き刺した。火花が散る。そしてそのまま腕を真横に振ると、もう片方のライトも壊れて、僕の手から離れて外側に飛んで行った。
ハイゼットの荷台に立って枝川は僕と由紀を見下ろしている。僕たちもその姿をじっと見つめる。時間が止まったみたいになる。
夜空の真ん中に月が昇っていた。その月の光が狼と人間の体が混じりあった、血だらけの化け物を照らしている。
ライトを壊された……
二つとも道路に飛んで行って、手元には何も残ってない。僕は絶望に暮れた。狼男を無力化できていた唯一の対抗手段が……
枝川は邪魔そうに左足で箱型のバッテリーを後ろに蹴る。バッテリーは弧を描きながら道路に落下して、火花を散らしたのが小さく見えた。
目の前に薄い影が落ちる。枝川がグググッと右腕を顔の高さまで上げていた。殴る直前の力を込めるポーズだ。しかし手は拳の形ではなく開かれている。手は五本の指のうちの三本は灰色の毛が生えており、鋭い狼の爪を光らせている。その爪が自分の胸を切り裂く映像が浮かんだ。
やられる……と僕は思う。逃げようにも車の座席は二列で、僕と由紀のすぐ後ろにはコンドーだ。乗り越えることも、そんな時間もない。左には由紀がいて、右には道路が流れている。
荷台からガラスが割れて吹き曝しになった空洞に、枝川が頭を突っ込んでくる。顔の左上は毛に覆われていて毛並みまで分かった。右側は人間の髪が残っていて風でなびいている。
枝川が顔を上げる。至近距離で、狼のように丸く黄色い左目と目が合った。瞳孔が開いていて、黒目が点のように小さくて、それを向けられると言いようのない恐怖を感じて背筋がゾクリとする。唇から牙が覗いている。
全く人間らしさが感じられなかった。絶対にとどめを刺すという、獰猛さと残酷さが同居した目つきをしている。こいつは躊躇いなく人を殺すだろうと確信させられる。冷酷な殺人鬼に出くわしたらこのような感覚になるのだろうか。
枝川が指を少し折り曲げて爪を立てる。そして由紀と僕の胸の上に横一直線の直線を描くように振り切った。
ガキンという、音が車内に響く。
由紀の左側の胸に爪がえぐり込むかという所で、由紀の背中から現れた二本の氷が体が切り裂かれるのを防いだ。
倉庫で見た時の、氷でできた蛸の足だ。ただ今回のは先ほどよりも大分細い。全体的に華奢だ。前は『クラーゲンの足』という言葉がピッタリなくらいで、土管くらいの太さがあった。が、今は鉄パイプより少し太いくらいの太さしかない。しかも四本ではなく、二本だけだ。由紀の顔を見ると、歯を食いしばって痛みに耐えるような辛そうな顔をしている。今はこれで限界なのだろう。
急に氷を形成したからか、まだ氷の表面がパキパキと鳴っていた。冷気で肌が寒くなる。
しかし限界が近いのは、枝川の方も同じなように思えた。完全な状態での、狼の姿での枝川なら、こんな細い氷は簡単に砕いてしまっていただろう。廃工場でのことを思い出すと、由紀は枝川の攻撃で氷が割れそうになって、最初八本だった足を四本にまとめて太くしていた。それでようやく防いでいた。枝川は今、姿としては人のシルエットで、所々に毛が生えていて筋肉が隆起しているものの、全体的には人間の姿に近かった。
両方とも、限界に近い力で拮抗しあっているのだ。そう思っていた。
狼の爪と細い氷がガチガチと音を立てて軋みあう。枝川が左手を振り上げた時に、氷が一瞬太くなり、枝川を体ごと弾いた。
枝川の体は荷台を超えて後ろに飛んで行く。そのまま空中を漂うように、ゆっくりと闇の中に消えて行く。その絵があまりにも無気力に見えたので、僕は枝川の気力がついに潰えたのだと思った。由紀が息を深く息を吐くと、さきほど枝川を弾いた氷がパシンと割れて、氷の欠片が空気中に広がって薄れていく。
ハイゼットは変わらずに走っている。ライトが壊れたので、先ほどよりも後方はよく見えない。所々に道路照明が立ってはいるが、すぐに遠くなるので分からない。しかし、これらを抜きにしても枝川が再び襲いかかってくる様子はなさそうだった。僕は少しだけ安堵する。
月の光りが少しだけ強まった気がした。あたりが一瞬、白く照らされたような気がする。後方の暗闇で同じように白い光りがポヤッと光った。
ドスン、と地響きが起こる。何事かと思ったが、それは一度だけでなく断続的に続いている。数分前の映像が甦る。これは枝川の足音だ。
やがて突進するように巨大な狼が暗闇から現れる。傷を負ってはおらず、廃工場で見た時と体の大きさも変わってない。
「どうした?俺はまだ動けるぞ」
低く、濁ったような声が、再び響き始める。
「お前はもう精一杯か?米粒みたいな氷の欠片をチマチマ出すか、すぐにへし折れる枝みたいな氷で防ごうとするしかできないんだろう。くだらん」
枝川の両側に二匹ずつ狼が並び、陣形ができる。枝川が生み出す足音の鼓動は間隔が短くなり、速度を増す。狼の群れがジワジワと近づいてくる。
「もう勝敗は決した。半殺しにされる前に大人しく降参しろ」




