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第二十九話 鳥取と鬼ごっこ


 ポーン、という木琴を鳴らしたような音で目が覚めた。いつの間にか、完全に熟睡してしまっていた。右の肩に由紀がもたれ掛かってきている。至近距離でぐっすり眠っている彼女の寝顔を見て、僕はフッと短く息を吐くように小さく笑った。こんなに近くで顔を見れるのも最初で最後になるかもしれないと思った。


 僕は半開きの目で周りを見回した。


「何の音だ?」


 フロントガラスの前で棒が上がる。一瞬、踏切かと思ったが、ボックス型の改札機が横を過ぎ去って行った。目の前に現れた、ずっと真っすぐ続く道路を見て、僕は呟いた。


「高速道路?」


「正解デス」


 こう言って、コンドーはバックミラー越しに僕を見て笑った。茶化すような声音だ。


「目覚めましたカ。無事に逃げれてマスヨ。もう大丈夫デス」


 体感では十分くらいだろうか、完全に眠ってしまっていたように思う。その間の視界と頭は完全に真っ暗で、何の記憶もなかった。

 寝呆けた頭で、今夜に起こったことを順番に思い出す。だんだんと頭が鮮明になり、危機感のスイッチがオンになっていく。疲労が限界だったとは言え、こんな状況で眠れてしまった自分に驚く。


 正直、まだ体にはだるさが残っている。急激な事が起こって精神的に負荷がかかっているのだろう。頬や腹部の殴られた部分はまだジンジンと痛む。ただ、休めたおかげで体は少しだけ軽くなった。頭もスッキリしたように思える。


「ありがとう」と僕は礼を言った。「車に乗る前の、狼から助けてくれたことも。言い忘れていたから、ちゃんと言っておかないと。来てくれなかったらどうなっていたか分からない」


「いえ、私はさっき言ったようにカミヤに命令されたことを盲目的にやってるだけデス」


「……初めて聞いた時から思ってたんだけど、カミヤって誰なんだ?どんな奴なんだ?」


 輪郭から顔にいたるまでボヤッとした、人間の形をした煙を頭に思い描く。


「それは秘密です。『バラすな』って言われてますカラ」


「やっぱりか……」

 僕は溜息をつく。なんとなく予想はしていた。質問の方向を変えてみる。

「じゃあ、コンドーさんは、どうしてカミヤに従ってこんなことをしてるんだ?どういう繋がりなんだ?」


「あまり、詳しいことはベラベラ話すなと言われているのデスガ……」

 コンドーは言った。

「しかし、まぁ少しくらいなら良いデショウ。もう安全ですし、運転中は暇ですからネ」


 コンドーは左手をハンドルから離して、車内で流れているジョンレノンの音量を下げた。またターティング・オーヴァーだった。運転席の時計を見ると、十時半を過ぎていた。そこで三十分以上は確実に寝ていたことに気が付いた。


「ワタシはカナダで生まれました。子供の頃は裕福だったのですが、同時多発テロ後の不況のおかげで父親は解雇で両親は離婚、イロイロあった末に、私は叔父の家に預けられまシタ。ちなみに、その頃はマーティンという名前デシタ」


 コンドーは懐かしむように話した。想像以上にヘビーな昔話から始まって、僕は苦笑いを浮かべることしかできない。


「そこは治安が悪い地域でシタ。その上、近所でも学校でも虐められて、叔父は私を相手にしていませんデシタ。私は毎日、その辺をブラブラ歩いて過ごしていまシタ。そこで、カミヤに会ったのデス。あの人、チンピラとかマフィア殺していまシタ」


「殺すって、なんで?」


「遊びで、らしいデス」

 困ったようにコンドーは言った。

「狂ってるんデスヨ、あの人は」


 僕はカミヤという人物の事を本格的なヤバい人物だと認識する。正直、関わりあいたくない。そもそも外国でって、外人なのか?


「あの人は、私に一緒に来いと言ってくれまシタ。雑用係だと言って。当時、私はあの場所から離れたくて仕方ありませんでした。それ以来、あの人に付いて行ってます。もう、二十二年くらいになります。十六歳の頃からですからネ。今年でちょうど三十八歳になりマシタ」


「長いですね」


 つい、コンドーの丁寧な口調が移って敬語になってしまった。


「長い付き合いなんデス」

 コンドーは笑って言った。

「まぁ、ずっと一緒と言うわけではありませんけどネ。三年間、片時も離れずにロシアを横断したこともあれば、半年くらい全く会わなかったということもありマス」


 コンドーはウインカーを点滅させた。前を走っていた車を追い越すらしい。高速は空いていて、これまで好きなように進めていただけに、前の車のスピードに合わせられるのが嫌になったようだ。


 車を追い越して、再びスピードを上げる。時速メーターを見ると百十五キロ出ていた。


「大体、仕事は今日みたいに訳のわからないことを指示されるだけです。意味の分からないことも多いですが、やっていると事情は呑み込めてきますよ。あなたも大変ですね。わざわざ茨の道を進むなんて」


 僕は空笑いをした。やはり茨の道に見えるのだろうか。何も知らずに、好きという気持ちに動かされていただけだ。それ以外、ほとんど何も考えていなかった。こんなに考えなしなのは慎重でビビりな僕の性格ではありえない事で、自分でも不思議に思う。


 しばらく、また無言が続いた。

 車の上を通り過ぎていく看板に『鳥取』という文字が目に入った。


「鳥取方面?鳥取に行くのか?」


 僕は驚いて尋ねると、肩の辺りで「うぅん……」という声が聞こえた。ようやく由紀が起きたようだった。看板をフロントガラスを下から覗くようにして見たから、その時にもたれかかっていた僕の肩からずり落ちかけたみたいだった。それで目が覚めたのだろう。


「ごめん……力尽きて、寝ちゃってた」


「大丈夫。何も起きてないから。無事に逃げれてる」


 由紀は僕の肩から離れながら自分の座席に戻り、目をこすって窓の外を見る。


「高速道路?」

 由紀はさっきの僕と全く同じ反応をする。


「そう、高速道路。それも鳥取方面」


 僕は由紀に端的に説明してコンドーの方を向いた。


「どうして鳥取なんだ?カミヤって奴がそこにいるからか?」


 そもそも僕と由紀はどこに行くのかを知らなかった。行き先の質問をするのが遅すぎたのを今になって自覚する。


「いえ、単純に、少しでも早く遠くに逃げるためデス。一般道路だとスピードが出せないですし、もし渋滞とか信号に引っかかっている時に見つかったら終わりですカラ」


 コンドーはこう言った。そして思い出したように助手席に置いてあったレジ袋を左手で掴んで、前を向いて片手でハンドルを握ったまま、僕らの方に寄越してくる。中には疲労回復の栄養ドリンクやら眠気覚ましやらが入っていた。ミネラルウォーターというラベルのペットボトルやおにぎりなんかもある。


「正直、鳥取でも大阪でも、どっちの方面でもいいのデス。早く、遠くに逃げられればいいのですカラ。狼男に捕まらず二。鬼ごっこデス。でも、逃げるのは朝までデス」


「朝まで?」


 隣で由紀は水を飲んでいるので、僕が問い返す。


「そう、狼男は夜中に強くなりますが、朝になったら力が切れて、ただの人になりマス。そこまで逃げ切れば、私たちの勝ちデス。それまでは、できるだけ遠くに行き続けマス。真夜中の一時か二時に出くわしたら、終わりデス。引き返すのは、奴らがただの人になった時デス」


 なるほど。コンドーのやりたいことが、やっと理解できた。本当に僕と由紀を助けてくれている。僕の中ではコンドーに対する信用は高まっていたが、さらに好意的な気持ちを抱いてしまう。

 隣から、瓶が渡される。栄養ドリンクだ。隣を見ると由紀と目が合う。無言の意思疎通が行われ、僕はそれを受け取って蓋を開ける。いつの間にか、コンドーはメロンパンを齧っている。

 栄養ドリンクを煽るように飲み干してから、僕は思ったことを言った。


「一晩中走り続けるのか?ある程度離れたら、どこかに隠れるのでは駄目なのか?」


「それは駄目」


「それは駄目デス」


 由紀とコンドーが同時に否定した。


「あいつらは嗅覚が凄いから、近づかれると確実に見つかる」


「その通りデス。できるだけ遠くに逃げ続けた方が無難デショウ」


 二人が交互に説明する。「そっか……」と僕は小さく言って納得した。僕は知らない事が多すぎる。しばらくの間は黙っておこうと思った。


「確かに、狼男が持つ追跡能力は一級品デス。足も速いですし、鼻で獲物の臭いを辿れマス。普通の人間を探すくらいなら五分もかからないでショウ。しかもこちらは車で、臭いと言っても、強烈な臭いを漂わせてもいまセン。傷を負って血をダラダラ流しながら歩いていたら別だったでしょうケド。ここまで遠くに来てしまえば関係ないデショウ」


 コンドーが穏やかな調子で話す。その口ぶりを聞いていると『確かにもう大丈夫だろう』と思えて安心感が胸の中に広がって来る。はやく夜が明けてほしい。


「それに、工場の中のライトで足止めもしていまシタ。そこでも、かなり時間も稼げているはずデス。今でも苦しんでいるかもしれまセン。体力も相当に奪えているはずデス。正直、さすがにここまで来れば安心していいデショウ」


 後方から、爆発音がした。


 道路の上に付いている看板が飛んできて、僕たちの横の車線をかすめた。あと一メートルずれていたら車に当たっていた。

 巨人が足踏みするような地響きが、断続的に聞こえた。音は車内にまで届いている。揺れは座席のシートに伝わって、僕たちの体を上下に細かく揺らした。時々、座席の上を小さく跳ねる尻が浮く。


 恐る恐る、後ろを向くと、狼の群れが高速道路を走っていた。


 二車線に広がって、僕らを追いかけている。五十メートル程離れているだろうか。近くもないが、遠くもない。


 暗闇にまぎれているが、何匹もいるのが分かる。そして中央には、巨大な狼がこちらに目を光らせながら駆けている。廃工場で見た時よりも大きくなっているように思える。二車線の幅でちょうど収まっているくらいの大きさだ。地響きは、巨大な狼が駆けて足が地面を踏む度に起こっていた。


 巨大な狼の肩に、一定距離ごとに置かれている電光のモニターがぶつかり、勢いよく吹っ飛んだ。それを支えていた柱も、折れて真横に跳ね飛ばされる。モニターは落下して火花を散らして滑った後、側面の壁に衝突して小さな爆発を起こした。炎が舞い上がる。


 巨大な狼、枝川が、唸るような低い声でこう言うのが窓越しからでも聞こえた。


「絶対に逃がさん」



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