第二話 神社と吐血
「いや~、こんなこともあるもんだな~」
目の前で弘が暢気そうにカレーを食べながら言った。
俺たちは大学内の食堂で昼食を食べていた。先ほどの刑法の教授は講義自体が面倒臭いのか、時々三十分以上も早めに講義を切り上げたりする。だから俺たちは食堂が本格的に混み始める前に席につけた。
二限後の食堂はいつも人でごった返している。横に見える注文口では注文待ちの列が階段まで続いていて、あれに並んでいたかもしれないと思うとゾッとする。十分早く来るだけで、並ぶ時間がかなり違ってくる。いや、今日なら幸せな気持ちに包まれているから、行列待ちも全く苦にならなかったかもしれない。
俺は穏やかな気持ちでレンゲで麻婆丼を掬いながら弘に言った。
「多分、ノートはリュックに引っかかってたんだろうな。本当に、恋のキューピットに感謝しなきゃだな。自分の不注意にもお礼を言いたい」
「そうだろ?今度お礼にパフェおごれ」
「なんでお前になんだよ」
真城さんにノートを拾われて名前のことを尋ねられてから、そのまま十分くらい話した。もし俺の名前が小説家っぽくなかったら、話せていなかったかもしれない。本の話とか、受けている授業の話とか、出身地の話とか、云々。
ただの雑談みたいなものだったが、俺にとっては人生の一大事のように感じられた。内容は全て頭に焼き付いている。次の講義では内容そっちのけで、話した内容を反芻しているかもしれない。ちなみに次の授業は第二外国語の中国語だ。真城さんはフランス語を選択していて今日は休講らしい。だから講義室を出てからすぐに「バイバイ」と言いあって別れた。
「本当にノート落として良かった。あと、癖で先にノートに名前書いてて良かった。ありがとう母さん……中学の時、無理矢理書かされたの修正液で消したりしてごめん」
「そんなことしてたのか……」
「あと、こんな素晴らしい名前つけてくれて、父さんと結婚して三島になってくれて」
弘は絶句していた。顔がひきつっているように見える。半分ふざけて言ったのだが、それでも、若干引かれてしまっている。俺が弘の立場だったら同じ反応をしているだろう。だが本当にそう思ってしまったのだから仕方がない。
「この思い出だけで三カ月は生きていける気がするな」
幸福感に満ち溢れて、こんな事を言い出してしまった。気になっている女子と話せただけでここまで幸福感を感じられるのなら、男子校出身も案外悪くないのかもしれないと思い始めていた。でもこれは、ビーガンになって二年後に肉を食べるような快感であって、人間的な生活として正しいのかとしては疑問が残る。
一時間前の俺の頭も使い物にならなかったが、今の俺の頭も幸せでポワポワしていて、さらにどうしようもないほど使い物にならなくなっている。頭の中のお花畑が咲き狂っていて、頭皮の毛穴から皮脂のように花粉がはみ出しているように思う。
ようやく弘は口を開いてコメントをくれた。
「ピュアだけど、ちょっとキモイな。お前」
辛辣だったが、自分で分かって口にしていたので何も言えなかった。
「俺もそう思うんだけど、今日だけはそっと見守っていてくれ」
午後の授業は二時半に終わった。これで今日の授業は全て終了なので、自転車を漕いで帰宅した。弘はサークルに顔を出すと言っていたので大学の名前が大きく彫られている入口の前で別れた。俺もサークルには入っているが、かなり緩い集まりなので時々しか行ってない。
アパートに帰るとリュックを下ろして、そのまま六畳の部屋の端に置かれている簡易ベッドに寝転んで仰向けになる。
視界は真っ白い天井だけになる。それをスクリーンにして、いつの間にか天井に今日の真城さんと話した時の映像が映し出された。
「あ~、かわいかったな~」
無意識的に一人で呟く。そして心の中で、激しい問答が始まる。
「ようやく今日、初めて話せた。奇跡みたいだったな。まだ心臓の音が高い気がする。また話したいけど、急に馴れ馴れしく話しかけたら嫌がるかもしれない。それだけは避けたい。実は人見知りで今日は頑張って話しただけかもしれないし。それは俺か。まぁでも、そんな風には見えなかったような。
挨拶くらいだな。うん、次は挨拶だ。距離感は大事だ。関係の構築が上手くいかないうちにガンガン来られても嫌がられそうだし。そうなると向こうも辛いし、こっちも辛い。うん、それがいいな。今度はもっとスムーズに話したいな。イメージトレーニングをしておいた方がいいかもしれない」
俺はベッドから上半身を起こして、ネットで『男性諸君は要注意!女性との会話でしてはいけない事13選』『こんな男は嫌われる!女性がウザッと思う男性の言動』という記事を見つけて片っ端から読み込む事にした。
次の日から俺と真城さんは軽く挨拶を交わすようになった。
二日後に、また授業の後に話した。この時は映画の話をした。真白さんは「マトリックス」と「ブレードランナー」が好きだと言っていた。SFが好きだなんて意外だなと思って、それがまた魅力的に思えた。多分、ミステリーでもホラーでも「貞子3D」って言われたって、何でも加点対象になったんだろうけど。
たまたま座った席が真城さんと近かった時があった。初めて話してから二週間後くらいだった。これも刑法の授業だった。あの刑法の教授は幸運の女神なんじゃないかと思った。それをきっかけにして授業を一緒に受けるようになった。
最初の方は緊張して授業どころじゃなかった。心臓の音がうるさくって、教授の声が全く耳に入らなかった。慣れるまでに三回の講義を無駄にした。
空きコマには一緒にカフェテリアや図書館のフリースペースで話したり勉強したりした。もちろん弘も一緒だったけど、幸せすぎて死ぬかと思った。いや、自分で気付いていないだけで実はもう死んでいて、僕は天国にいるのかもしれない。そうじゃなきゃ、この幸福感の説明がつかない。テスト前には過去問やノートをシェアして、分からない所を質問し合った。
毎回、緊張しながら誘ってみると、真城さんは笑顔でOKしてくれた。気を使ってくれているのではないか、他の友達との約束はないのだろうかと、それを邪魔しているのではないかと不安になった。それとなく聞いてみると、真城さんは基本一人で行動している事が多いので、それは大した問題にならないらしかった。
「高校と違って、友達が絶対にいなきゃ詰む、というわけでもないらしいし」と笑って言った。
サークルには席だけおいて、あまり行ってないらしかった。俺と同じ感じだった。そもそも、大勢でつるむこと自体が好きではないらしかった。ノリが合わないと言っていた。
そういう日々を過ごしているうちに、大分、真城さんの事が分かってきた。打ち解けたような雰囲気になってきた。気軽に話せる友達、くらいにはなれたと思う。
そして連絡先を交換できた。夢じゃないかと思った。向こうは当たり前のことみたいだったけど。俺が喜びながら弘に報告すると「えっ?逆にまだ交換してなかったのかよ」と呆れられた。
「向こうから聞いてきた?」
「そうだけど」
「お前から聞けよ」
「何回も聞こうとしたんだって。でも、その度に『まだ早いかな』とか『断られたら一巻の終わりじゃん』って思っちゃってさ」
「いや、もう聞いていいだろ。というか聞けよ。奥手すぎるだろ。これだから高校の時に彼女出来てない奴はさ」
「男子校の呪いが俺を縛り付けるんだよ。それに簡単に聞けたら苦労しないって、何回も言っただろ」
こうやって夕方の公園のブランコで二人並んで座り、恋愛相談を受けながら怒られた。
自分の名前のせいか、俺は本を周りよりも持っている方だった。そもそも親が両方とも村上春樹が大好き過ぎるからこの名前になったんだった。もう二人ともいないけど。
真城さんとそんな話をした後に、本を貸す話になり、貸してあげると喜んでくれた。その笑顔だけで何冊でも貸したいと思った。その後、弘に「お前は絶対にキャバクラには行くなよ。貢がされるから」と言われた。反論しようがないほどその通りな気がして、何も言えなかった。
真城さんは古民家や神社めぐりが大好きだと言っていた。スマホで検索した写真を俺に見せながらキラキラさせる目の方が綺麗だと思った。
確実に距離が近づいているのを感じていた。そして一か月半が過ぎた。
「ようやくテスト全部終わったなー。明日から夏休みかー」
弘が陽気な声で言った。コイツの声は大体、いつも明るい。
「高校と違って二か月もあるってのが凄いよな」
「さすが大学って感じだよね」
俺と真城さんはコーヒーをすすりながら答えた。最近知ったのだが、食堂には隅にコーヒーメーカーが設置されていて、レジで百円を払って専用の紙コップを貰うと使用できるらしい。気に留めてもなかったのだが、ドリンクバーもあって、これも二百円払って専用のコップをレジで貰うと使えるらしい。弘はオレンジジュースを飲んでいた。
俺たちは先ほど、一年前期の最後のテストである政治学入門を終えてきたところだった。テストは大体、授業中に配布されたレジュメの中から出ていて、単位を落とすことはまずないだろうと思った。正直、大学のテストがこんなもんなのだったら、高校の定期テストの方が大変かもしれない。大学の方が高度な内容であるはずなのに、難易度が逆転しているのは矛盾していると思った。こっちは楽でいいんだけど。
三人でテストを終えた後に「お疲れ」と声を掛け合い、そのまま夏休みに入る解放感もあいまって、食堂で雑談に花を咲かせて現在に至る。
「二人は夏休みとか何か予定とかある?」と弘が聞いた。
「いや、全くない」
「私も特にないかなー」
真城さんはさっき食堂で買ったケーキをつつきながら答えた。
俺は背伸びをしながら「休みは嬉しいけど、そんなにあっても暇なだけっていうのもあるんだよな」と言った。
二人とも「そうなんだよね」と笑いながら頷いている。
「時々、三人で集まってダベったり、どっか行ったりしようか」と弘が言った。流れるように自然な提案の仕方に俺は驚いた。声のトーンにも起伏がない。もし俺が何か誘うとすれば、緊張で一回は噛む自信がある。
「それありだな」
「うん。また集まろう」
すかさず俺も同意すると、真城さんも続いた。
もしかしてだけど、夏休み中も真城さんに会う口実ができたんじゃないの?と頭の中でどぶろっくの曲が流れる。俺は内心テンションが上がっていた。
「あっそういえば」真城さんが思い出したように言った。「私、この後、神社に行くの。予定と言うほどじゃないけど」
「真城さんは神社好きだもんね」
俺は真城さんのキラキラした目を思い出した。
「うん。夏休みにはいくつか色んな神社を回りたいな」
「いいなぁ。夏休みはこうやって使われるべきなんだよ」
「じゃあ三人で行く?今から」
「えっ?いいの?」
急な提案に俺は驚いた。
「うん。興味があって暇ならだけど」
「あるある!全然、興味ある!」
俺は食い気味に答えた。学校以外の場所で真城さんと一緒に歩き回れることを想像して胸が沸き立った。
「あ~、ゴメン。俺、この後、バイトあるんだ」
少しの間、黙っていた弘が言った。
「そっか。じゃあ別の日にしようか」
「そうだね。弘、また暇な日分かったら連絡してくれ」
俺も真城さんに同意して弘に言った。
「いや、今日行くのを楽しみにしてたのに延期させるのは悪いからな……さすがに」
弘はばつが悪そうに頭を掻いた。そして、俺の見間違いでなければ、じっくり見ていても確証が持てないくらいにだけど、ニヤリと少しだけ口角を上げたような気がした。
「まぁ、俺のことは気にせずに、春樹、お前だけついていけよ」
口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
おい!弘、何言ってんだ。変な気を使わなくていいんだよ、と心の中で叫んだ。俺は内心は穏やかではなかった。
それはさすがに、とこっちから断ろうと口を開きかけたが、その前に真城さんが俺の方を見てこう言った。
「私は大丈夫だけど三島くんはどう?」
「……」
「三島くん?」
「行きます」
何故か敬語になった。マジでキモいなと自分で思う。でも行かせてください、お願いします。
「じゃあ楽しんできて」と弘が言うと、真城さんが「ありがとう」と返していた。
マジか……
マジか!?これ、夢じゃないよな!?リアリー?
俺はあまりのことに血が頭に集中し過ぎて意識が朦朧としてしまって、ぶっ倒れそうになった。でもそれだと真城さんと神社にいけないから、ギリギリの所で意識を保った。
心臓も高鳴り過ぎて少し痛い気がする。血管がはちきれそうだ。神社で吐血しないように気を付けよう。