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第二十六話 御馳走とサングラス


「オオォォーーン!」


 枝川の、夜空の満月に向けての遠吠えはこの数十分で何回も聞いたが、これは今日のうちで最も大きく長い遠吠えだった。後ろの狼たちも、呼応するように吠える。倉庫中に狼の声が何重にも反響して耳を塞ぎたくなった。


 狼たちは入り乱れるように高速でお互いに場所を入れ替える。さっきまでとは明らかに違う、見たことのない複雑な動きだった。残像で八匹どころか、十五匹くらいいるように見える。

 その中には枝川も混じっており、その存在感で他の狼から注意がそれてしまう。一匹を意識すると他の複数が見えなくなり、全体を見ようとするとあっと思う所に狼の影が見えたりする。


 背後からバキバキと音が聞こえた。僕を覆う影が濃くなる。氷でできたクラーゲンの足が、後方から狼たちに向かって突っ込んで行き、地面を叩きつけた。轟音が響き、土煙が舞う。


「殺す……」


 僕がすぐ横にある由紀の顔を見ると、血走った目でこう呟いていた。

 舞い上がった土煙が薄くなり、渾身の一振りを与えた場所が露わになったが、傷ついた狼の姿はなかった。血の一滴も落ちてない。あるのは、床にできた浅いクレーターと砕けた氷の破片だけだ。その横に狼たちはいて、まだ高速でお互いの位置を入れ替えあっていた。


 続けて「シュンッ」と風を切る音が聞こえる。由紀が手の平を前方に向けて、先端の鋭いつららを放っていた。

 つららは空気中を真っすぐ進み、狼の腹に命中した。ように思えたが、矢は狼をすり抜けて、通り過ぎていく。残像だった。倉庫の隅で矢が壁に当たってバラバラに割れた。


「無駄だ。お前の攻撃はもう通らないと言っただろ」枝川は馬鹿にするように言った。「そんな目を向けられても、もう何も怖くないさ」


 由紀は殺してやると言った時から表情を変えていなかったが、今は目が両端から裂けるのでないかと思うほどに見開かれていて、眼球がこぼれ落ちてくるのではないかと思った。


 怒りで我を忘れているが、由紀はまだ諦めていなかった。何とか突破口を開こうと必死だった。だが、僕の方は半ば絶望していた。

 さっき枝川に言われたことが尾を引いている。胸に突き刺さったまま抜けてない。抜こうとすると、釣り針の返しのように引っかかって痛みがひどくなった。


 もう駄目だ、と思った。

 僕のせいだ。由紀がこうやって怒って、傷ついて、窮地に追いやられているのも、全部、僕と関わったからだ。僕を守ろうとするから本気を出せてない。枝川だって、そう言っていた。付け込まれて利用された。

 ずっと、僕は由紀を守ると言っていたし、由紀は僕を守ると言ってくれていた。なのに、今の状況は何だ?今だって、由紀が身を張って戦ってくれているのに、僕は守られているだけだ。


 種族が違うのだから仕方がないのかもしれないけれど、それでも構わないと最初に言い出したのは僕なのだ。なのに結局、何もできてない。足手まといでしかないじゃないか。何が構わないんだと、自分に聞きたい。結局、自分の事しか考えてなかったんじゃないか?そう言えば、最澄の時だってそうだ。何もできてない。

 自分の無力さに、押し潰されそうになる。落ち込んでいる場合でないのは分かっている。しかし、思わずにはいられなかった。僕は由紀に迷惑をかけているだけだ。消えてしまいたくなる。いっそ消えてしまえれば、由紀から枷を外すことができる。


 由紀が、僕と出会ってしまった所から間違えていたのだろうか?仲良くならなければ。付き合わなければ?僕は過去の情景を走馬灯のように次々と思い浮かべる。一緒に神社に行ったこと。ショッピングに行ったこと。全部、あれは間違いだったんだ。


 本当に由紀のことを大事に思うのなら、一緒にいてはいけなかったんだ。僕には全てを助けてあげられる力なんてないんだから。


 もうこれ以上、すまないと思う気持ちを由紀に抱いたまま、一緒にいられないような気がしていた。全て、間違ってたんだ。もう取り返しがつかない。罪滅ぼしも、救ってあげられることもできない。最初から、全部、間違えていたんだ。


 遅かれ早かれ枝川たちは来ていただろう。僕がいなければ、由紀は苦戦せずに勝てただろう。

 これから由紀はどうなるのだろうか。僕は責任が取れない。今更の話だ。もう終わりだ。視界も頭の中も真っ暗になる。


 僕の頭は完全に絶望に支配されていた。


 由紀はまだ抗うように戦っていた。しかし、もう力の差は明確だ。狼は楽々に避けているのに対し、由紀の氷は動かすたびに鈍くなっている。


「パキィィン」


 やがて、氷の砕ける音がした。由紀の背中から伸びている、クラーゲンの足は、四本とも、全て半分ほどの位置で折れていた。もう再生はしなかった。

 由紀は手と足をダラリと地面に垂れ下げていた。顔まで伏せて頭を垂れているので、どんな表情をしているのかも分からないが、打ちひしがれているのは確かだった。


 この由紀の姿は、今の僕の心の状態を表しているようにも思えた。


 狼たちは一仕事終えた後のような陽気な会話をしながら、ジリジリと近づいてくる。


「終わったな。もう少し、暴れていたかったな。こんなに月が出ていて、力が溢れているのに」


「まぁまぁ、こんな好敵手もそうそういないぞ。普通なら狼一匹で瞬殺できるのに、こんな連携をしたのもいつぶりか分からない」


「久しぶりに楽しめた」


 僕たちは壁を背に追い詰められて、狼たちに半円状に囲まれた。逃げ場はない。由紀は今にも倒れそうで、ふらついている。


「人間の方はどうする?」


「正直、その女の方を釣るためだけの餌に過ぎないからな。放っといてもいいだろ。余計なことをされると面倒だから殺してもいいが」


「こいつに何ができるんだよ」


「確かにな」


 こう言って馬鹿にするように笑いあう。声から、頭で勝利による甘い恍惚を感じているのが滲み出ている。


「まぁ、このまま生かしておいて、後悔させたまま人生を送らせるのも悪くないけどな。俺、コイツ嫌いだし」


 枝川がこう言った。既に半分、気が抜けており、人間の時の声の調子に戻ってきている。それが妙に不気味に感じられた。

 周りの狼たちもどんどん、解放感に満ちて盛り上がっている。


「これ終わったら、何食べようか」


「腹減ったよな。やっぱり肉かな」


「ようやく一仕事終わったし、パーッとやろうぜ」


 三匹は御馳走を想像したのか、涎を顎から滴らせる。それがポタポタと地面に落ちる。目は仲間の方を向いていた。誰一人、僕らを見ていない。

 狼たちの和やかな雰囲気の中で、僕と由紀は頭を垂れていた。


 笑った狼の歯茎から牙が見える。その鋭い先を見て、これからあの牙の餌食になるのかもしれないという恐怖がやってくる。


「さて、じゃあ、そろそろ終わらすか」

 こう枝川が言い、狼たちはこちらを向いた。


 その時、真っ白な激しい光が、目に飛び込んできた。全身を包み込むほどの強さだったと思う。懐中電灯などで目だけに直接当てられているのではない。

 目の前が真っ白になった。突然、強い光が目に入ってきたら誰でもそうなる。眩しいどころではない。目を閉じても、瞼の裏がチカチカ光っている。視界が奪われる直前に見た光景では、倉庫中が照らされていて、狼にも影ができていた。


 薄目を開ける。倉庫の中が真夏の猛暑日の道路のように、白い光で満ちていた。

 光に照らされた時は一瞬、自分が死んでしまったのかと思ったが、痛みはないし、狼に噛みつかれた記憶もない。


 しばらくして、狼たちのうめき声が聞こえた。


「クソッ!!イテェェ!!」


「この光!?姿が解ける……」


「ふざけやがって!何でだ!」


 聞こえてくる言動からして、狼たちは戸惑っているらしい。困っているような風にも聞こえる。しかしどこからか届く機械音のようなものが重なっていて、声がよく聞こえない。「ジー」と遠くから蝉の鳴くような音だった。


 由紀の仕業かと思った。しかし、なんとか薄目を開けると、由紀も腕を顔の前に持ってきて、光を防いでいる。僕と全く同じ状態でいる。


「やれやれ……万事休すという所デシタ……」


 目の前から声が聞こえた。枯れたような声で、花に喋りかけているかのように静かな喋り方をした。

 頭に様々な疑問や不安が一度に去来した。誰だ?どうして一人だけ落ち着いて動ける?この光はこいつの仕業なのか?

 姿が見えずに目の前で立たれている分、不安が増していった。


「本当はもっと早く助けたかったのですが、準備を間に合わなかったのと、『まだだ、まだだ』と言われ続けていたノデ……」


 正体不明の男は話し続ける。声を聞いて誰だか思い出そうとするが、やはりこの声の主を僕は知らない。

 しかし、どうやら敵意はないようで安心した。丁寧な話し方をする。由紀の仲間かもしれないと思う。


「ひとまず、これを付けてクダサイ」


 薄目を開けて見ると、目の前にサングラスを乗せた手が差し出されていた。

 僕はそれを手に取って掛ける。光が和らいで、ようやく目が開けていられるようになる。目が見えにくかったのも直ってきた。隣を見ると、由紀の方も同じように付けている。


「では一時撤退デス。真城サン、入口に詰まっている氷をどけてクダサイ。そのままだと通れませんカラ」


 僕は由紀の手を引いて、入口まで歩いて行った。由紀が大木の根のような氷に手を当てると、それは表面から削がれるように、徐々にバラバラになっていった。

 その間に後ろを向くと、天井から設置されている照明が見えた。激しい光はそこから出ていた。夜に学校のグラウンドを照らすような照明器具が並んで、光を撒き散らしている。


 もともと倉庫は明るくなかった上に、天井はさらに暗かったので分からなかった。そもそも意識しないと分からない。そのような照明器具が、倉庫の天井だけでなく壁際にもいくつか置かれていた。無造作に置かれているガラクタの一種類としか思ってなかった。


 入口の氷が全て消えると「はやく出てクダサイ。あの光はそこまで時間が持ちまセン」と横から言われた。


「おい、待て……この……」


 出ようとする時に、背後から枝川のうめき声が聞こえた。二人とも入口から出ていたが、僕は振り向いてしまった。

 狼たちは、光に照らされたままで、目を閉じてもがいていた。地獄で体を焼かれているような苦しみ方だった。


 彼らの変身は解けかけていた。腕や顔の半分が人間に戻ったりしていた。顔を覆っていた毛の半分が抜けて、目と皮膚は人間なのに、黒く丸い鼻と顔の横まで裂けた口だけがそのままだったりした。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァ……」


 枝川は狼の姿になって体が巨大化していたが、右前足と左の太ももから先までだけ、人間に戻っていて、それで立ったままでいる事もできずに顔を地面に横にするようにして倒れていた。そして薄目を開けて僕の方を向いて睨んでいた。

 僕はただ、彼らをグロテスクな化け物だと思った。


「早くコイ!」


 外から叫ばれて我に帰り、倉庫を出た。



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