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第二十話 獣と法学


 面倒くさそうなのに目を付けられたな、と思った。


 枝川と僕はお互いにジッと見つめるような形で対峙していた。枝川は何も話し始めない。ただ僕を睨むようにして突っ立ている。


 僕はさりげなく後ろを向いた。由紀の姿は見えない。ちゃんと帰れているだろう。枝川がここにいるということは、由紀の身には何も起きてない。そこは心配しなくてもいい。今、心配するのは僕自身の方だ。


 僕は自転車を道の端に停めて、言葉を選びながら話し始めた。


「……久しぶりだな、十日ぶりくらいか?」


 枝川からの方から話し始める気配は全くなく、どういう風に言葉を切り出そうかと悩んで末の無難な言葉だった。様子を窺いながら言葉を選び続ける。


「どうしたんだ?話すのは初めてだけど、何か用か?」


 こう問うても枝川の反応は一切なかった。無視を決め込んでいるようだった。


「俺が言いたいのは一つだけだ」枝川は言った。「あの女は俺の物だ。お前が一緒にいて良い人間じゃない」


 本当にいるんだな、こんな奴……いや、僕が恋愛沙汰に関わりがなかったから初めて見ただけで、案外いるもんなのか?


「それを言うために、ずっと待ち伏せていたのか?いや、つけてきたのか?」


「悪いか?」


 悪いだろ。


「お前、正気か?自分が何やってるのか分かってるのか?」


 こいつは常識が通じないタイプの人間かもしれない。しかも、デカい体まで付いているのが困った点だ。暴力を用いられたら対処のしようがない。こいつならそれをやりかねないと思う。

 力がなかったらそこまで怖くはないんだけど。馬鹿に筋肉を付けるなんて、狂人に銃を与えるようなものだ。本当に嫌になる。


 いくら正当にモラルを説いても納得できないだろう。だったら、別の方法で手を引こうと思わせるように試みてみる。


「由紀も迷惑してる。お前、僕と同じ法学部だろ。警察に言えばつきまといかストーカーで注意されるぞ。ちょうど一昨日の講義でも言ってただろ、公正証書で二度と会ってはいけませんっていうことにもできるって。由紀にラインも見せて貰って証拠もある」


 とりあえず、覚えたての法学知識で軽いジャブを入れてみた。今ほど、自分が法学部生で良かったと感じたことはない。コイツも法学部生なんだから分かってくれるんじゃね?という甘い期待を抱いていたってのもある。

 授業内容や暇つぶしで眺めた教科書の内容を必死で頭から引っ張り出す。

 ちなみにポケットの中でスマホを録音状態にさせている。法学、めっちゃ役に立つじゃん。


「脅しみたいなことは言いたくないけど、警察沙汰みたいなことが起きれば大学でも問題になるだろう。度が過ぎれば謹慎や除籍なんてこともあるかもしれない」


 口を動かしながら、次に述べることを頭の中で探していく。


「僕たちも大ごとにはしたくない。けど、これ以上続けるなら、何らかの手を打たざるおえなくなる」


 僕はこう言って、大きく空気を吸った。一気に述べ立てたから息が切れかけていた。

 枝川は黙って僕の言うことを聞いていた。表情も変えない。そして今もまだ無言だ。


「……俺にはあの女が必要なんだ。分かるか?彼女にも俺が必要なんだ。あの女は俺の物なんだ。俺が手に入れる」


 由紀を物扱いすることに腹が立ったが、それよりも目の前の男に理解不能な不気味さを感じていた。枝川の目の焦点は合ってない。ヤバい薬をやってるんじゃないかと本気で思った。


「お前が邪魔なんだよ。今はお前が隣にいて、彼女の時間を奪ってしまっている。罪深いことだ。彼女は俺のすることを分かってくれるはずだ」


 枝川の声は大きく、高くなっていく。妙な興奮が声音の中に混じっている。大きな体を中心として空気がビリビリと震えて、耳を塞ぎたくなる。


「俺の物になるんだ。迷惑になんてなってない。お前を払いのければ俺の所に来てくれる。むしろ感謝するはずだ。解放してくれてありがとう、ってな」


 コイツ、ヤバい。


 頭の中で、本格的に警報が鳴る。今まで黄色信号だったのが、全力の赤信号に変わる。常識や法では抑えきれない衝動のようなものが、枝川の中にはある。ブレーキの役目となる理性がない。


「俺にはあの子がどうしても必要なんだ。そのためなら、なんだってするさ」


「欲望に忠実だな。彼女の気持ちは考えないのか?理性はないのか?」


「俺のモットーは『欲しい物は我慢しない』だ。すぐに飛びつく。人間なんて皆、獣なんだからな。俺が普通なのさ」


 笑いながら枝川は答える。そして僕の方に歩み寄り、肩にポンと手を置いて耳元で囁いた。


「とにかくお前は別れろ。お前なんかが付き合っていい相手じゃない。さもなくば大変なことになる。さもなければ、次に何をするか分からない」


 僕は枝川の目を見上げた。枝川は不敵そうに口元と目尻を上げて、僕を見下ろしている。


「言いたいことはそれだけだ。じゃあな」


 枝川はこう言って身を翻して、前方の道を歩いて行った。五メートルくらい離れた時に「そうそう」と顔だけで振り返って僕を向いた。


「今日、会ったことはあの女には言うなよ」


 枝川の姿がどんどん小さくなっていき、やがて消えてしまってからも、僕は呆然としてそのまま立ち尽くしてしまっていた。


 マジもんの危険人物じゃないか。言葉が通じない。どうやったら追い払えるんだ?ヤバい奴に目をつけられた。

 暗闇に突き落とされたような感覚がした。このままだと、次に何をされるか分からない。僕に対してもだし、由紀に対してもだ。由紀にはもっと枝川に警戒するように言って、いざとなったら警察へ……


 ポケットからスマホを出して電話をかける。数コールの後に電話は繋がり、発信先の相手は元気よく話し始めた。


「春樹、どうしたんだ?電話なんて珍しいじゃないか。というか、初めてじゃないか?」


「弘?今大丈夫か?」


「いいけど、ちょっと待ってな」


 電話からガサガサと揺れる音がする。どこか話せる場所に移動しているのだろう。


「二週間くらい前、夕方にテラスで会った時に枝川っていただろ?」


「あぁ、いたな」


「あいつは何なんだ?」


「何って?」


 言葉に詰まった。説明したら弘の方に危害が及ぶかもしれない。


「いや、普段はどんな奴なんだ?枝川は」


 僕は聞きたかったことを端的に訊ねた。


「どうって……」

 弘は少し困ったような声を出す。

「実は俺も特によく知ってるってわけじゃないんだ。あの時は流れで一緒になっただけで。というか、勝手について来た。加藤や吉川ほど仲がいいわけじゃないんだ」


「そうなんだ」


 当てが外れて、僕は少しガッカリした。


「でもさ」

 弘は続ける。

「サークルにも最近入ってきたばっかりだからな。ちょっと遅いだろ?理由を聞いても話さないんだ。確かに変な所はあるよな」


 もしかしたら由紀に近づくために、サークルに入ったのではないか?という疑問が浮かんだ。弘をツテにして由紀との接点を作る目的だけだったとしたら、相当に偏執的だ。だが、その部分だけなら、理屈は通るような気もする。


 しかしそんな回りくどい事をするか?とも思う。弘と俺が友達だと知った上で、偶然会うまでそこに自然に立ち会えるのか?無理だ。不確定過ぎる。そんなことがあいつにできるとは思えない。僕の考え過ぎだろうか?じゃあ、なんで?本当にただ遅れてサークルに入っただけで、由紀に一目ぼれしただけだっていうのか?


「あいつがどうかしたのか?」


 弘の声で、上の空から我に返る。


「いや、ちょっと気になって。今日、見かけたからさ」


「ふぅん」


 弘は適当な相槌を打ったが、直後に「大丈夫か?」と言った。


 やっぱり僕の言葉に変な所が出ていたんだろう。それに最近分かってきたことだけど、弘は普段は馬鹿みたいだけど、勘が鋭い奴だ。


「あぁ、大丈夫だ。ごめんな、急に電話かけて」


「いや、いいんだよ」


「あと、枝川本人には秘密で頼む」


「分かってるよ」


 電話を切って、ようやく僕はアパートに帰り始めた。自転車を漕ぐのがとてつもなくしんどい事のように感じられて、三十分以上かけて押して歩いた。

 ぬかるみを歩いているかのように、足が重たかった。



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