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第十九話 柴犬と連絡先


 ここ四日間くらい、由紀の様子がおかしい。話している時は変わらず明るいのだが、授業中に難しい顔をしたり、悩ましげに眉間を親指と人さし指で挟んでいる時がある。授業が難しくて分からないというわけではないと思う。


 理由はまだ聞けてない。聞いていいものか分からない。あれこれ詮索すると嫌がられるかもしれないから、向こうが相談して来るまで待っているつもりだった。


 しかし、こう何度も困っている顔が不意に見える期間が続くと気にもなってくる。帰り道や、風呂に入っている時に、この顔がふと思い浮かんで「最近どうしたんだろう、突然いなくなったりしないよな」と心配になってくる。


 由紀が何かに悩み始めてから、僕の方も同じように悶々とした日々を過ごし始めた。昔に「感情は伝染する」と書いている本を読んだことがあるが、どうやら本当らしい。


 こういうわけで、現在進行形で受講している民法Ⅰの講義でも、教授が読み上げる交通事故の損害賠償請求の判例より、隣の彼女の溜息の方が重要に感じてしまっていた。

 ベルが鳴り、教授が授業の終わりを告げる。僕は教科書と真っ白なノートを片づけて鞄に入れた。隣を見ると、由紀はスマホを見て険しい顔をしていた。ここで、ようやく僕は由紀に訊ねてみることに決めた。


「どうしたの?何かあった?」


 由紀は少しハッとした顔で僕の方を向いた。


「いや、別に何もないよ。行こっか」


 こう言って、由紀も机の上を片付け始めた。僕は少し悩んだが、言葉を続けた。


「最近気が付いたんだけど、由紀は困った時に下唇を触る癖がある。さっき、スマホ見て唇触ってた」


 由紀は僕の言葉を真面目な顔でジッと聞いていた。 


「……よく見てるね」


「そりゃあ、あなたの彼氏ですもの。一緒にいたら分かるよ」


 自分でも言っていて少し気味が悪いと思った。由紀もそう思っているかもしれない。思われていたら死ねる。

 由紀は黙り込んでしまった。つられて僕も黙ってしまう。沈黙が降りた。会話のリズム的には由紀のターンだ。僕は由紀の言葉を待った。どうしても言いたくない様子で、あと数秒経ったら適当に会話を切り上げようと考えていた。


「実はね、あれからよく届くの。ラインが」


 由紀がおずおずと口を開いた。


「ライン?」


「うん。ちょっと前に会った枝川って人いたでしょ?」


「誰だっけ?」

 記憶を探ってみても誰だか分からない。由紀が困ったような顔をしている。


「ほら、先週、講義が終わった夕方にテラスで話していた時に中野君が連れてきた人。麻雀しようって誘われてた時の。吉川君と加藤って人と一緒にいた」


「あぁ、あのデカい人?そう言えばいたな。ずっと黙っていたからあまり覚えてないけど」


 由紀はこくりと頷く。僕はようやく思い出してくる。先週の映像が頭に浮かんでくる。そして驚きを隠せなくなる。


「えっ?あの人?」


「うん。あの日からよく送られてくるの」


「そんな積極的な奴だったの?人見知りなのかと思ってた」


 由紀はスマホを少し弄り、画面を僕の方に向けてきた。


「ほら。これ」


 画面にはラインのプロフィール画面が映し出されている。宛先名は「枝川武臣」となっている。アイコンの丸い写真は柴犬が正面を見ているものだった。


 画面は枝川からの大量の吹き出しで埋まっていた。僕は上から順番にそれを読んでいく。


「今度飲みに行きましょうよ」


「いつ空いてる?」


「おーい」


「ラインとかあまりしない感じ?」


 三十分も間隔を置かずに連続で投稿してきていた。送信日時を見て逆算すると、初めて会った日の解散してから一時間半後に送っていることになる。二十連続とかで送信してきてるんじゃないか?


 これらの送信に対して、由紀は「すいません、寝てました」「忙しいんで無理そうです」と八時間後くらいに返していた。スマホをフリックして画面を下に送ると、同じようなやり取りが今日にいたるまで永遠と繰り返されている。


「めっちゃ、アプローチかけてきてるじゃん……」


「全部そっけなく断ってるんだけど、しつこくて」


 僕の心の呟きに由紀は横から答える。僕はもう一度文面を頭からサッと読み返して、スマホを由紀に返した。夜中も関係なく、最低でも三時間おきに送っている。返信の催促をしないことに、たまに一人でキレている。


「ここまでだと、少し恐怖を感じるな。というか怖いわ、これ。ホラーじゃん」


「ホントにあるんだね。こういうの」


 溜息をつきながら、由紀は困ったような苦笑いを浮かべている。

 僕はふと疑問に思った事を口にする。


「あの時、僕たち付き合ってるって話になってたよな?」


「なってた。でもライン来る」


「マジかよ。知ってて誘ってるのかよ、チャレンジャー過ぎるだろ」


 面倒なことに巻き込まれていた実感がジワジワと押し寄せてくる。僕は背中を逸らして頭をグシャグシャと掻いた。

 僕は再び疑問を口にする。

「というか、何で連絡先知ってるんだろ?」


「学科のグループラインだと思う。入学した時に学科全員で作ったじゃん」


「あー、あるなー。たまに掲示板に張ってる休講の情報とか流れてくるな」


 そう、と言って由紀はメンバー一覧を表示させて見せてくる。学科の百人ちょっとの名前がずらりと並んでいる。


「ここから辿って来たんだと思う」


 僕は不覚にも、なるほどと思ってしまった。そんな方法があったのかと盲点を突かれたような気になる。

 この方法を使えば、数十人の女の子に気味悪がられるリスクと引き換えにして、数十人の女の子の連絡先が一瞬で手に入る。だが、これは勇気というよりも蛮行と呼ぶべきであろう。本当にやる奴がいるわけないだろうと一瞬思った後に、そんな奴に困っていることに気が付く。


「えっ?あの後、いきなり送ってきたの?」


「うん、あの後すぐに」


「凄いな」

 僕は絶句してしまった。

 数秒の沈黙が訪れた。由紀は気まずそうな顔をしている。


「……っていうことがあったっていう話」

 由紀は沈黙を避けるように、息継ぎもせずに言葉を続ける。

「まだこれだけで何もないから大丈夫なんだけど、ちょっと面倒くさい。いつ止むんだろう?」


 結局、沈黙が訪れる。由紀は小さく溜息を吐く。僕はその姿を横から見ていた。


「僕から言おうか?やめろ、って」


「それは逆に心配。春樹に危害が及ぶかもだし」


 心配してくれたことが少し嬉しかったが、喜んでいる場合ではない。腕を組んで別の対処法を考える。


「じゃあ、弘に言ってもらおうか」


「仲が悪くなったとか、恥かいたとかで機嫌悪くなったりしないかな?逆恨みしてくるかも」


「うーん……」

 僕は唸り声を喉元から出す。何秒か考えてみるが、これだ!と思える案は出てこない。ていうか結構詰んでる気がする。穏便に済ませるのか?これ。


「厄介過ぎるな。何なんだよ、コイツ」


「ホントにね……」


 厄介だが、大事な彼女のために何とかしなければならない。僕たちの貴重な楽しい時間をあんな奴に邪魔されては堪らない。由紀がノイローゼになってしまったりしても大変だ。


 しかし、由紀の顔は平常そのものだった。困ってはいる様子で溜息をついているが、全く緊張感のようなものがない。怯えている様子が全く感じられないことに気が付いた。僕の方がビビッているすらある。考えてみると、この一週間の出来事を説明している時も、由紀はずっと冷静だった。


「あのさ……」と僕は切り出す。


「ん?何?」


「気のせいだったら本当にゴメンなんだけど、もしかして、あんまり怖がってない?」


 目をパチクリさせて、由紀は不思議そうな顔をする。


「どこか怖いと思うの?面倒臭いとは思ってるけど」

 由紀はしれっと言った。

「だって、何かして来てもいつでも氷の刃で斬り殺せるし。全身を氷漬けにすることもできる。相手が一人だと、二秒もかからない楽な作業。人間がバッタを踏み潰すのと似たようなもん」


「……訂正。こっちの方が怖くなってきた」


「殺すのは簡単なんだけど、そうせずに穏便に解決するのが難しいんだよね。加減がね。ジェット機で隣の家に行くようなもんだよ」


 変に枝川が由紀に絡んできて、うっかり殺されてしまわないかと、そっちの方が不安になった。由紀の、特に何もおかしいことを言ってないという風に淡々と述べているのが、これが別の意味で少しだけ怖い。

 だから由紀は平然としているのか。デンジャラスな彼女だな。

 由紀は続ける。


「確かにウザいけど、今はまだ『へぇ』とか『うん』とか適当に返してればいいだけだし。まだ実害がでているわけじゃないからね。そのうち止むかも」


「あれだけそっけなくされたらやめると思うけど、普通」


「だよね。まぁ、少し既読無視してみて、まだ続いたらブロックするかラインして来ないでって言うよ」


 左右の手の指をジッパーのように交差させて「んーっ」と腕を伸ばしながら、由紀は言った。その姿を見て、近所に住みついている野良猫を思い出した。


「そっか。それで止むとは思うけど、しばらくは帰りは近くまで送ってくよ」


「そこまでしなくても大丈夫だよ」


「でもやっぱり心配だし」


 心配はいらないと分かっていても、やっぱり心配だ。枝川ではなく由紀が。何をされるかわからないぞ、とやっぱり思ってしまう。


「何かあったら、いつでも言って」

 僕は付け足した。


「ありがとう。やっぱり、相談してよかった」


 由紀は明るい声で言った。いろんな事が全部吹っ切れた顔をしている。僕は目の前で、花が咲く瞬間を目撃したかのような気持ちになる。迷ったけど、思い切って聞いてみて良かったなと思う。


「じゃあ、そろそろ行こうか」と言って、ようやく席を立った。


 周りを見回すと、講義室にいるのは僕たち二人だけだった。他に人が座っている席は一つもなく、ポツンと取り残されている。教室の前の時計を見る。もう次の講義が始まる時間だ。どう考えても間に合わない。


 普段なら慌てて走って行くだろうが、僕は落ち着いていて、席から急いで立つ気がしなかった。由紀がちゃんと悩んでいることを話してくれて、気が楽になったことを知れたからだろう。講義なんてどうでもよく感じて、ホッとして力が抜けてしまっていた。


 隣を見ると、由紀も時計を眺めていた。ボンヤリと気の抜けた顔をしている。そして僕の方を見る。それから数秒間、顔を見合わせた後、可笑しくなって同時に笑ってしまった。


 だだっ広い空間に僕たちの笑い声が響いた。





 さっそくその日の夕方から、僕は由紀をアパートの近くまで送って行った。適当な話をしながら並んで夜道を歩く。


「ここでいいよ。ありがとう。じゃあね、バイバイ」


 二十分ほど歩いてから由紀はこう言って、自転車を漕いでいく。僕はその姿が遠ざかるまで手を振り続けていた。


 僕も帰ろうと思い、自転車を反対方向に向けて走り出そうとすると、横道から何者かが出てきた。背の高くガタイのいい男だった。こっちをジッと見ている。


「枝川……」


 僕は小さく呟いた。突然のことに体が固まってしまった。


「三島だろ?」


 枝川は僕の方に歩み寄りながら言った。初めて枝川の顔を近くで観察した。今日だけかもしれないが、明らかに正常な人間の目つきではない。目が据わっているとでも言うのか、イっているとでも言うのか、目の奥の瞳が固定されていて、全く動かないのだ。真っ黒に塗られた画用紙を見せられているかのような不気味さを感じる。


「ちょっと面貸せよ」と枝川は言った。


 ……僕に来るのかよ。



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