第十五話 名前と海水浴
「すまなかったな」
しばらくして、最澄は僕に頭を下げて言った。素直過ぎる謝罪に僕は少々面食らった。
「もういいよ」と僕は言った。この男にもいろんなことがあったんだろうと思った。
最澄はパーカーのフードをもう被ってなかった。先ほどまで隠れていた顔が明らかになっている。スッキリした表情をしていて、顔は涼しげな雰囲気で格好良かった。鬱陶しい髪を切ったら爽やかな青年になるかもしれない。
さんざん謝った後に、最澄は「なにかあったら、いつでも呼んでくれ」と言った。
「どこに行くの?」と真城さんが聞いた。
「そうだな」と最澄は頭を掻きながら考えるような仕草をした。「これまでずっと寒い場所にいたからな。うんと暑い場所を経験したい。太陽が元気過ぎて嫌になるくらいのさ」
最澄は頬を流れる汗の一粒を手の甲で拭った。
「ちょっと汗を流したいな。そうだ、海水浴に行くよ。砂漠みたいに熱い砂浜から一気に走って浜辺に飛び込みたい」
およそ、雪女とは思えない発言だった。しかし隣の由紀は「ふふふ」と笑っていた。
「テンションを上げ過ぎて海を凍らせないようにね」
「スケートになってしまうよ」
真城さんのからかうような言葉に最澄が笑って答える。僕は笑って良いのか分からない。雪女ジョークにまだついていけない。
「じゃあ、俺はそろそろ行くよ」最澄は背伸びをしていた。「水着を買って行かないとな。ハワイアンな花柄のヤツを買おう」
こう言って、最澄は背中を向けて歩き去って行った。
「一見落着……か?」と僕は呟いた。
僕と由紀はその後ろ姿を見送っていた。昨日の夜みたいに冷気が漂って姿がだんだん薄れていくなんてことはない。むしろ、夏の太陽が暑苦しい白い光を蝉の声とを一斉に浴びせかけていた。単純に、暑そうだなと思った。
最澄が駅のエスカレーターを登る角を曲がったのを確認して、由紀は「行ったね……」と静かに呟いた。これを聞いて僕は尋ねる。
「もっと弟と話したかった?」
「ん~……久しぶりに本音を言い合えたような気もするし、仲直りもできたから、そんな気もするけど。でも、また今度でいいや。今はとりあえず一件落着ってことで」
「そっか」と僕は安心した。「そういえば、ちょっと思ったんだけどさ」
「何?」
「雪女って夏が好きなの?」
僕はこの際だから、由紀や最澄の言動から疑問に思っていたことを聞いてみた。
「ん~、どうなんだろ」と由紀はちょっと困った顔をしていた。「まぁ、人それぞれじゃないかな。嫌いな雪女の方が大多数だとは思うけど、レアなのもいる。私は普通に、人間と変わらないくらい好きでも嫌いでもない。最澄は大好きになったみたいだけど。三島君は?」
「僕は結構好きだよ、夏。蝉がうるさくて、日差しが強くて木の緑が濃い中を歩いていると、なんだか生命を感じる。花火もあるし。夜に寝苦しいのは嫌だけど」
「最澄と仲良くなれそうだね。春よりも好きなの?」
「春は嫌いだな、花粉症があるから」
「何それ」
真城さんは笑っていた。
空を覆った一時的な分厚い雲はなくなって、元通りの澄み切った青空が広がっている。そこから日差しが降り注いでいて、緊張が解けてホッとした今更になって暑さを感じ始める。
どこかに移動しようと言い出そうとしたら、先に真城さんが口にしていた。
「今日、これからどうする?まだお昼だし」
「正直、もう夕方くらいの気分なんだけど。午前中でそれくらいの密度があった気がする」
僕がこう言うと、真城さんが「何か予定とかあったりする?」と聞いた。
「いや、何もないよ。真城さんは?」
「私もないよ、というか」
真城さんは「というか」で言葉を止めた。というか?変な言葉の区切り方に、僕は真城さんの顔を窺った。ちょうど、映画でも行く?と誘いかけていた口を引っ込めた。
真城さんは若干不服そうな顔をしていた。何か気に触ることを言っただろうか?僕は不安になって、自分の言動を振り返った。しかし心当たりがない。
「というか、の続きは?」
「というか、何回か名前を呼ばれていて思ったんだけど『真城さん』なの?」
どういう意味か分からなかった。
「え?真城さんじゃないの?偽名?」
「違うよ。いつまで『さん』付けなの?」
「おかしいかな?」
「おかしいよ。カレカノなんだから」
カレカノ……そう言えば、カップルっていう現代の人間らしい響きに憧れてるとか言ってたな。
「じゃあ、真城?」
まだ不服そうな顔をしていた。ずいと一歩近づいてきて威圧するように体を近づけてきた。僕は身を逸らす。
「なんで上の名前なの?下の名前でいいよ」
「いいよって、なんか恥ずかしいな」
「恥ずかしいけど言ってよ」
珍しく強気だ。絶対に譲らないという意志を感じる。
「うん……」
僕は頷いて一拍置く。数秒の沈黙が訪れる。
「じゃあ、由紀?」
「うん……春樹」
うわぁ……なんだコレ、ヤバいな。胸がキュウッってなるんだけど。名前を呼んでも呼ばれても。いや、嬉しすぎるんだけどさ。
僕が右手を心臓の辺りに当てていると、真城さん、じゃなかった由紀が問いかけてくる。
「それで、この後、予定ある?」
「ないけど」
「じゃあ、私たちも海、見に行こうよ」と由紀は言った。「浜辺を散歩したい。ビーチサンダルでさ。足首まで水につけたりしたい。行こうよ、春樹」
由紀は可愛すぎる笑顔で僕を誘った。そんな風に誘われたら肯定以外の選択肢なんてこの世に存在しない。
「いいね、行こう。由紀」
また心臓がキュゥッってなった。




