第十三話 家族と村人
♢
二百年前、江戸時代の中頃のことだろうか、俺は遠野を離れて、とある人間の村に入った。山の奥の方まで歩いて行くと村に突き当たって、そこで暮らし始めた。
村人は百人を超えるか超えないかというくらいだった。職人が数人いて、他は全員米と野菜を作っていた。山に囲まれた辺鄙な窪地というべき土地で、久しぶりにこういう風な場所に住みたくなった。
受け入れられるまでは苦労もしたが、三か月目くらいには村の人間と馴染め、半年経つ頃には村の一員として受け入れられていた。
最初に珍しい菓子を持っていて、それを配ったのが良かったのかもしれない。浪人だ、と言った時には少し怪訝な目を向けられたが、毎日農作業を手伝い続けていれば、誰とでも仲良くなれる。村人も良い人たちだと思っていた。
村は災害も全くないと言っていいほどに少なく、山から下って来る大きな川があった。だから村には田圃が広がっており、豊かだった。一人人手が増えることは歓迎された。
居心地の良い所を見つけることができたと思った。あと、何十年かはここに住もうと思った。百年住むかもしれないとすら思っていた。
最初は親切な村人の家に泊めて貰っていたが、そのうち物置と空き屋を足して割ったような建物を自分の手や大工の手を借りて修理して、そこに住み始めた。自分の田も持つことができた。そして村に来て六年後に一人の女性と結婚した。
妻は、その村の中で俺を初めて見つけて、村に招き入れてくれた女の子だった。長い事、食事もしてなかった。特に食べないからと言って腹が減ることも餓死することもないのだが、俺に食事をくれた。おむすびと漬物だった。久しぶりの食事で異様においしく感じて、一気に平らげてしまったから、よほど腹が減っているのだろうと思われた。おかしそうに笑っていた。名前は「かや」と言った。
出会った時、かやはまだ十二か十三の子供だった。だから俺への偏見もなく馴れ馴れしく接してくれたのかもしれない。俺の外見は二十過ぎという所だった。村に来てしばらくは、兄と妹に似たような関係だった。
かやは俺に村や村の周りを案内してくれた。山の麓の河口がお気に入りだと教えてくれて、連れて行ってくれた。水の音が聞こえて、魚が泳いでいて、周りには木々が生い茂っている綺麗な場所だった。誰にも秘密と言われて、俺は頷いた。暇な時間ができて二人で話す時は、そこに座って、水に石を投げたり、寝そべって木々の葉が周りに囲まれた青空と雲を眺めながら、時間が過ぎるのを待っていた。
かやは、村の外のことをあれこれ聞いてきた。俺は知っている事や見た物をあれこれ話した。江戸幕府が開かれた時の話や、城下町の話をした。かやは感心してその話を聞いていた。これらの話を飽きもせずに何度もせがんだ。その度に目を輝かせていた。
「いつか見てみたいな」と俺が一つ話終わるたびに言った。決まり文句のような物だった。しかし必ずその後に「でも、無理だろうな」と付け加えた。この村で一生を終える運命だということを彼女は知っていた。
「無理じゃないさ。いつか一緒に見て回ろう」とその度に俺は言った。俺の方も、無理だろうなと思っていた。しかし特に何も考えずそう言っていた。そうとも知らず、彼女は俺の言葉で、花が咲くような笑顔を見せた。次第にいつか、どれだけ先になったとしても、かやが見たことない場所に連れて行ってやりたいなと思うようになった。
かやが十八か十九になった時、俺たちは結婚した。あの頃はもうこのくらいの年齢になると結婚していた。少し遅いくらいだったかもしれないくらいだ。俺の方は何度目かの結婚かは分からない。
いや、村の他の男と話は上がっていたらしいのだが、彼女が渋ったのだった。それで時間が伸び、その男は村の他の十五の女性と結婚した。それで心置きなく、俺と結婚することができたのだった。六年の間に、彼女は全く別人のようになっていた。女性らしくなっていた。雪女には及ばないが、人間の中ではかなり美しい部類だろうと思った。
かやは俺が雪の一族だと知っていた。雪女は雪の一族の女性であるに過ぎない。雪の力は女性の方が強く、雪の一族が親だったとしても、女性の場合だと九割方、雪の力を受け継ぐが、男だと三割がいい所だ。しかも力は弱い。七歳までに力が発現しなかった者は種族が違うとされて、掟によって村の外に出される。百姓か、商人へ養子に出されることもあれば、追い出されてそのままのたれ死ぬこともある。俺は四歳の頃に力が発現した。
自分が雪の一族であるという証明のために、俺は妻を山の麓のお気に入りの場所に連れて行き、辺り一面を凍らせた。人間と結ばれる前に行う、儀式のようなものだった。
「俺は人間ではない。他の村人にこのことを喋れば、お前を殺す」
真夏の氷の中で、自分でもゾッとするほど冷たい声で言ったと思う。
かやは「知ってた」と頷いて、俺に抱き着いた。俺もかやを抱きしめた。こうして俺とかやは契約した。
二年後には子供が生まれた。女の子だった。次は男の子が欲しいと思い、これをかやに伝えると、かやは胸の中で眠る子供を撫でながら嬉しそうに笑った。
幸せな生活だった。毎日田と畑を作るだけで、住んでる家は古くて狭かったし、服も汚れていたし、玄米と野菜ばかりでたまに魚が付くような食事だったけれど、いつも近くに子供とかやがいた。田を耕している時も子供が近くで遊んでいたし、かやが家の中を行ったり来たりしているのが見える。それだけでよかった。
そんな生活を俺は四年送った。かやは二十五歳になっていた。俺は何歳か分からない。多分、六百歳ぐらいだろう。二年目に、もう一人子供が生まれた。男の子だった。嬉しかった。家族が一人ひとり増えていくのは、大切な物が一つずつ増えていくのは、素晴らしい喜びだ。
かやは、いつも穏やかにニコニコしていた。彼女の隣には常に、俺か俺たちの子供がいて、常にこの世で最上の幸せが寄り添ってくれているという顔をしていた。ずっと静かに笑って、幸せを表現する。雪女のような女だな、と思った。
しかし、そんな日々も唐突に終わりを告げた。いつだって壊れるのは突然で一瞬だ。隙間風でろうそくの火が消えるように、指に乗った雪の結晶が溶けるように、儚い。
その日、俺はいつも通り日が昇ると同時に起きて昨日の夜の残りの玄米を食べて田を耕しに行った。昼過ぎくらいに仕事を終えて家に戻ってきた。かやは家で夕食の準備をしていた。四歳の娘は外で遊んでいて、二歳の息子はかやの足元で竈を見ていた。
娘が家に入ってきて、だっこをせがんだ。俺は笑ってその小さな体を持ち上げてやる。それを見た二歳の息子も竈から俺の方にやってきて、着物の裾を引っ張った。しょうがないなと言って、こっちも持ち上げてやる。片手で二人ずつ持ち上げているので、正直、重くて腕が痛い。しかし二人ともはしゃいでいるので少し我慢する。かやはこっちを見て笑っている。
俺は幸せで仕方なくて、ずっとこうしていたいと思った。
乱暴に入口の扉が開いた。扉と枠の衝突する音が響く。俺たちは入口を向いた。村人が三人立っていた。いや、後ろにもっと立っているのが見える。
「こんにちは。皆さんお揃いで、どうかしたんですか?」と俺は聞いた。
村人は黙ったまま俺を見つめていた。その顔には、祭りで酒を飲む時や野菜を分けてくれる時のような親愛の表情は消えてなくなっていた。俺は不穏なものを感じた。かやは子供を二人抱えて奥に下がった。
「もう人間のふりをするのはやめろ」
先頭に立つ村人が言った。
「えっ?」
「お前が人間じゃないってことは、もうわかってるんだよ」
顔から一気に血の気が引いていくのを感じた。
「見たっつってんだ。お前が川の麓で氷を出して遊んだり、雪を降らして遊んでいる所を」
娘と散歩に行って、誰にも見てない所で氷を出して喜ばせてあげたことが何回かあった。あの時、いつかは分からないが隠れて見られていたのかと思うと、何をどう言い訳しても絶対に弁解できないのを悟った。口の水分がなくなり、唇が震え、冷や汗が出てくる。頭が真っ白になってくる。
今思うと、こんな不用心な真似をするなんてありえない事だった。あの頃の俺は幸せで頭が緩んでしまって、どうかしてたのだろう。
村人は続ける。
「年々、この村の気温が下がって雪の量が多くなってきているのもお前のせいだな。雪女が化けてるのか知らないが、出ていけ!」
「出ていけ!」
「出ていけ!」
「出ていけ!」
村人の叫び声が何重にも響いている。入口に立った三人の後ろを見ると、家の前で村人たちが群がっている。目の端を吊り上げて、口を裂けそうなほど大きく開いている。
頭の中でいつもの優しい村人の顔を思い浮かべた。目の前の彼らは、頭の中の人々とは全く別の集団に思えた。その前後の違いを受け入れようとした。人間は簡単に変わることを実感して、絶望した。
俺は何も言うことができなかった。
「やめて!この人は何もしてない!」
かやが俺の前に出て叫んだ。こんな大きな声を出すのを見たのは初めてだった。しかし村人は全くひるまない。
「知るか!早く出て行かないと殺すぞ」
村人の手には桑や槍、刃物が握られている。目が血走っている。俺はもうどうにもならないと思った。
入口の方へ歩いて行く。村人たちは避けるように道を作る。俺がその道を進もうとすると、後ろから腕を引っ張られた。体の重心が傾いて転びそうになる。見ると、かやが俺の腕にしがみついていた。俺は腕に絡みついている手をはがしながら言った。
「いいんだ。俺が出ていけば、全部、解決するんだ」
「嫌、いかないで……」
かやは泣いていた。俺はかやの涙を初めて見た。目や唇といった顔の全てが中心に寄せられて、皺ができている。二人の子供は家の入り口で怯えたように突っ立っている。
「ごめんな」
かやの頭に手を置いて一度だけ撫でた。手に力を入れて押し出すようにすると、かやは後ずさりするような動きをした。
俺は再び歩き出した。体の表面から冷気を出して姿を隠す。ある程度離れてから冷気を止める。空気が透明に戻る頃には俺の姿はもう消えているだろう。
一人で山を歩きながら、途方に暮れたような気持ちになっていた。二度と、家族には会えないだろう。自分の全てだった物を奪われて、俺はこれから何を幸せに思って生きていけば良いのか?
かやの涙を思い出した。最後の一瞬しか見ていないのに、脳裏に焼き付いている。圧倒的に優しい笑顔の方がたくさん見てきたはずなのに、思い出せない。気が付けば俺も泣いていた。
仕方ない事なんだ。俺が悪かったんだ。俺みたいな妖怪と人間と一緒にいては駄目なんだ。かや達三人がこれから生きていくには、俺がいては駄目なんだ。
せめて俺にできることは、三人が生きていくのに困らないように手助けをすることだ。
俺は溢れる涙を拭き続けて、江戸に向かった。昼は大工として働き、夜は内職をした。それで得た金や米俵、衣服を送り続けた。
ただ、かやが、子どもたちが元気でいてくれるだけでよかった。俺のことをきれいさっぱり忘れても、憎んでもいいから、幸せでいて欲しかった。よく、俺のいない家で三人が笑っている想像をした。あの後に必ず、その光景が現実であるようにと願った。腹を空かせずに仲良く笑っていてくれていたら、本当に、それだけでいいのだ。
そうして八年が経った。
毎日、元気にしているだろうかと心配しない日はなかった。見た目も、俺が知る姿とは大きく変わってしまっているだろう。食べるのに困っているということはないと思うが……
どうしても、一目見たくなった。俺には、あの三人しかいないんだ。
俺は江戸を出て、村に向かった。
話はしない。気付かれないように、遠くから一瞬見るだけだ。元気にしている様子を、目に焼き付ける。それだけで、あと二十年は働ける。少しだけでいいんだ。
歩いて山を越えて村に着いた。遠くから、八年前まで俺が住んでいた家を見ていた。満ち足りていた思い出が甦って来る。気を抜けば泣きそうになる。でもあまり感情を高まらせて、間違っても会ってはいけない。
しかし、外見がずいぶん古くなっているような気がした。何かが変だと思う。柱が朽ち、扉は外れかけ、屋根には穴が開いている。周囲に雑草が生い茂っている。何時間待っても、誰も家を出入りしなかった。
俺はそっと家に近づいて中を覗いた。中には誰もおらず、人が住んでいる気配が全くなかった。竈も囲炉裏もほこりを被って汚れている。部屋の隅に置かれた座布団は原型を留めていない。生活感がまるで消え去ってしまっている。
引っ越してしまったのだろうか?だとしたら、どこへ?
俺が呆然として立ち尽くしていると、後ろから「おい、お前」という声が聞こえた。振り向くと、俺を追い出した時、先頭で鎌を持っていた村人が立っていた。
「どうして戻って来た?」
その村人は怒りの感情を込めて言った。近くを歩いていた数人も何かが起こっていると察知して近づいてきた。
「二度と来るなと言っただろう!?」
「とっとと消えろ!」
どんどん罵詈雑言は膨れ上がり、俺は二十人以上に囲まれた。俺は黙っていた。目の前の人間が言うように立ち去ってしまおうと思った。しかし、頭の中で残っている疑問を言葉にせずにはいられなかった。
「……妻と子供は?」
「そんなもの、とっくに死んだよ」
鎌を持っている男が吐き捨てるように言った。
俺が去った後、かやと子供は村人から冷たい扱いを受けていたようだった。かやは村の誰の手助けも借りず、一人で娘と息子と暮らしていた。二人の子供は『半分妖怪』とからかわれて、大人にも子供にも相手にされず、二人ぼっちで遊んでいた時に川で溺れて死んだ。俺が去ってから半年後のことだった。それから、かやは途方に暮れたように意気消沈して、急に体を悪くしてあっけなく死んだ。
これらのことを、男は淡々と語った。俺が去ってから一年後には、もう三人とも死んでいたのだ。この家には誰もいなかったのだ。
「でも、米と服は受け取って……金もありがとうって……手紙で……」
「ああ、それはだな」
鎌の男は気まずそうに斜め下を向いて、頭を掻いた。目線がチラリと後ろに向く。俺はその視線の方向を見た。
俺の送った服を着て歩く女がいた。遠くの家の前に米俵が積まれているのが見えた。
「そんな……何で……」
涙がボロボロとこぼれてきた。堪えることはできなかった。膝から崩れ落ちて地面に肘をつき、頭を抱えた。心臓の鼓動が大きくなって、胸を叩いて苦しい。喉から嗚咽が溢れてきて、吐きそうになる。
「ばれてしまったか。ずっと何も知らずに送ってくれていたら便利だったのになぁ」
周りからガッカリしたような溜息と「何で戻って来たんだ」と怒りの声が聞こえる。
「……墓は?」
俺は絞り出すように言った。嗚咽で言葉になっているのか分からない。
「どっか、その辺に埋めたと思うけど覚えてねぇよ」
絶望で周りの景色と音が暗く、遠くなっていく。体は地面にうずくまったままで動けない。
「とっとと帰れ。二度と来るな。妖怪のくせに。次、来たら容赦なく殺すからな」
村人はぞろぞろと俺から離れて行った。地面と草履の擦れる音がする。家の前には俺一人が残された。
子供たちは恐らく、山の麓の川で溺れて死んだ。俺があんな場所を教えなければ。一瞬の喜びを取って氷を見せなければ、死なずに済んだのだろうか。
脳裏に娘の笑顔が、息子のだっこをせびる姿が甦る。そして、あの緑の美しい秘密の場所で、二人がうつ伏せになって水に浮かんでいるのが、目の前で見つけてしまったかのように鮮明に想像された。
その想像の光景を現実に、かやは見たのだ。かやはこの絶望を一人でしょい込んだのだ。全てを失ったと思っただろう。そして体を悪くして死んだ。やせ細り、目は虚ろで、血色が悪いかやが、床に倒れて動かない。
それは今の、俺の後ろの家で起こった事なのだ。俺がかつて、最高の幸福を感じた場所で、その幸福の象徴の家は既に朽ちてもう誰も住んでない。住んでいた人は俺以外、絶望の中で死んだのだ。
緑色の葉が一枚、風に揺られて枝から飛んで行った。葉は青空に吸い込まれるように上空に舞い上がる。真っ青な空には雲がいくつか流れていて、太陽がギラギラ輝いている。
「あぁ……」




