第十二話 夏と雪
「えっ?……うん……昔はね……」
真城さんは横目で僕の方を見た。ベッドで寝ている分、真城さんの方が位置が高いから表情までは分からない。
真城さんは言葉を続ける。
「子供の頃はずっと一緒にいた。生まれてから、ある程度成長して年齢が止まってからもね。あの頃は皆いた」
「へぇ、そんなもんなんだ」
雪女にも子供の頃があり、他にも友達のような同類がいたということになる。地味に興味深いなと思った。
「僕は兄弟いないから単純に羨ましいなって思っちゃうんだけど、色々あるんだね」
「うん」と真城さんは頷いた。「昔はずっと最澄と一緒にいたなぁ。兄弟の宿命ってヤツなのかも。それも七年とか八年じゃない。雪女の成長は遅いから、三十年は軽く。大人になっても、仲が良かった」
「何で何十年も一緒だったのに、さよならしたの?」
「百五十年も二百年すると、他の世界を見てみたくなるのよね。それで家出みたいなもん。幼稚でしょ?」
真城さんは自虐的に笑った。
「最澄は最後まで私を引き留めた。でも私は彼を置いて黙って行った。そこから長い間帰らなかった。私から勝手に縁を切ったようなものだもん。恨まれても嫌われても仕方ない」
「そうなんだ」
僕は相槌を打ちながら話を聞く。話の時間的なスケールが大きすぎてピンと来ない。隣のベッドで寝転んでいる二十歳くらいにしか見えない女性がそんな経験をしているとはにわかに信じがたい気持ちになる。
しかし、真城さんの言葉には迫ってくるものがあった。疑いなど不要であると確信させられた。
真城さんは続ける。
「それからはほとんど疎遠。たまに会って軽く話すだけ。昔みたいな親密さはもうない。私は姉失格なのよ」
「失格じゃないよ。僕には仕方ないことに思えるけど」
「ふふふ、ありがとう」
僕の慰めに真城さんはお礼を言った。昔を懐かしむように、真城さんは続ける。
「楽しかったなぁ。もうほとんど忘れてしまったけど、一番楽しかったのがまだ幼かったあの頃だったのは間違いないね」
「僕も、子供の頃の感動とか新鮮な世界の捉え方みたいなのは羨ましくなるな。もう一生経験できない気がする」
「その思い出の中でいつも最澄は隣にいるの」と真城さんは言った。「結局、行かなきゃよかったのかな。人間というのを知らずに、そこだけでいれば幸福を得るチャンスがなくなるかわりに、不幸も感じずに済んだのかもしれない」
僕はかける言葉を失った。そんな他の人のもしも話は分からない。ただ、このまま話し続けていると、どんどん思考がネガティブになって眠れなくなるんじゃないかと思った。
「もう寝よう。明日もあるし」
「うん、おやすみ」
こう言いあって、目を閉じた。しばらく僕は目を閉じているだけだったが、隣から真城さんの寝息が聞こえてきた。疲れていたのだろう。とりあえず眠れて安心した。
真城さんの静かな寝息を隣で聞いていると、いつの間にか僕も眠ってしまっていた。
鶯の声で目が覚めた。六月の始めくらいから毎朝五時頃になると、日が明るくなるのと同時くらいから窓の外で鳴き始める。いつもその声で明け方に一度起こされるが、今日は自然に目が覚めるまで熟睡していた。目が覚めると十時半を過ぎていた。
真城さんも少し前に起きたばかりのようだった。髪が少し乱れている。目はまだ完全に開ききっていない。
それでも「おはよう」とは言ってくれた。僕も同じように「おはよう」と返した。
本当なら朝から一緒にいられる喜びを噛みしめたいところだが、そんな暇はない。そうするのは全てが無事に解決してからでいい。
僕たちは、すぐに家を出た。僕は昨日とは違う服を着ていたが、真城さんは昨日と同じ服だった。そのまま真城さんの住むマンションに寄った。僕は玄関で待っていた。真城さんは三分とかからずに着替えて出てきた。
昨日と同じ道を自転車で進んで、駅前に向かった。こんな真夏日の中を二日連続でうろつくなんて思いもしなかった。一日だけならこんな日もいいかと思うが、今日は昨日の疲れが肉体的にも精神的にもまだ残っている気がするから、駅まで着くのが昨日よりもずっと長く感じた。真城さんの後ろ姿を眺めることも忘れていた。
駅前の噴水で、僕と真城さんは腰かけていた。最澄は一時に来いといった。僕たちは十二時二十分からいた。
屋根もパラソルもないので直射日光が降り注ぐ。今日は三十七度を超える猛暑日になると、アパートを出る前に見たニュースで聞いた。すぐ後ろの噴水も見た目と音だけは涼し気だが、実際には何の役にも立ってない。
「人が多いな……」と僕は呟いた。
「土曜だから」真城さんはハンカチで汗を拭きながら答えた。「人が多いからこそ、ここを指定したのかも。私が下手なことをできないように」
周りは通行人で溢れている。僕たちと同じように噴水の前や石段に座って待っている人や、駅から市街地に向かって歩いている人が絶えない。
「暑い……」
所々に植えられた木からジワジワと蝉の声も聞こえ始めた、気温がさらに上がったような気がする。Tシャツも背中が汗で濡れて気持ち悪い。団扇を持って来れば良かったと思ったが、これも温風が送り込まれてくるだけで気休めにもならないだろう。僕は濡れた顔をタオルにうずめた。
真城さんが顔を少し上げて、斜め上を向いた。鼻を突き出して、匂いを嗅ぐように空中の息を断続的に吸い込んでいる。そして小さく呟いた。
「来る……」
「えっ?どこ?」
僕は辺りを見回す。
「まだ見えないけど、近づいてくるのが分かる。少し気温の乱れがあるし、薄く雪の匂いもする。向こうは気配を消しているようだから、わずかだけど」
「全然分からない……」
真城さんは前方の一点を見つめていた。僕はその横顔から視線の先を辿り、同じ方向を見る。
人混みの中から、一人の男がゆらりと現れた。最澄だった。昨日と同じ薄手のパーカーを着ている。フードも被っているが浅く、周囲が明るいので目元は良く見える。やはり、病気かと思うほど肌が白く、目に色が宿ってない。
最澄は僕らの方へゆっくりと歩いてきた。真城さんは噴水の淵から腰を上げて、一歩前に出た。僕もそれに続く。最澄は僕達の三メートルか四メートル手前で足を止めた。
僕と真城さん、最澄は数秒間、睨みあっていた。周囲のザワザワという喧噪の音が不自然なように感じられる。真城さんはまっすぐ前を見て宣言した。
「何を言われようと絶対に戻る気はないから」
「姉さんはおかしくなってしまっているんだ」最澄は眉間に親指と人差し指を当てた。「薄汚いアヒルの群れの中で白鳥が正気を保っていられるはずない」
おおげさに困ったような素振りをとっており、口調まで困っているように聞こえる。だが疑いの気持ちが消えるわけではない。わざとらしく見えてきて僕は苛立ちのようなものを覚える。
「そんな男は忘れてまた一緒に暮らそう。戻ってきた昔の仲間もいる。そんな信用できない、いつ裏切るか分からない種族とわざわざ一緒にいなくてもいいだろ?」
最澄は右手を地面と平行に上げて、僕を指差した。
「そんな生き物だってことは姉さんも長い歴史の中で見てきて、知っているだろう?」
そして、僕に向けた人差し指を引っ込めて手を拳にしたかと思うと、その拳を回転させて真城さんの方に向けて広げた。
「さぁ。こっちへ来て」
真城さんは差し出された手を見つめていた。僕は横からその手を取るのではないかと怯えていた。もしそうなら、僕の近くから真城さんはいなくなってしまう。僕自身が無事で済むのかもわからない。
真城さんはしばらく黙っていた。やがて口を開いた。
「何を言われようと気持ちは変わらない。あなたと一緒に行くことはできない………」
「そっか……」
最澄は静かに呟いた。そして再び人差し指を、安堵の息を吐いている僕に向けた。
「そいつを殺したら変わる?」
既視感のある、冷たい目だった。真城さんが雪女になって、僕を殺すと言った時と同じ目だ。人間ではない存在が人間を殺す時の、あの目だ。背筋が一気に寒くなった。
静寂が訪れた。真城さんは眉間に皺を寄せて最澄を睨み、最澄は目を見開いて僕の方に開ききった瞳孔を向けている。二人とも全身に込められた殺気が漏れ出している。
頬に、ヒヤリと撫でるような冷たさがあった。真城さんの手が触れたのかと一瞬思ったが、違った。隣の真城さんの息は白くなり、体の周囲には白い冷気が漂い始めた。
前方の最澄も同じように冷気を体に纏っていた。口元や首の周辺の冷気が特に濃い。
やがて二人の間と周囲にも白い靄が見え始めた。どんどん空気が冷たくなっているのが分かる。
「ねぇ、ちょっと寒くない?」と言う声が聞こえた。僕は声の聞こえた方を向く。
話しているのは、駅から出てきて信号のある方へ歩いている女性だった。足を見せびらかすような短いスカートを履いている。
「確かに。外だからエアコンでもないし、なんで?」と隣を歩く友達が答える。
この二人の会話を発端として、いたるところで「寒い」「なんで?」という声が聞こえ始めた。
「というか、雲が出てきて……」
中折れ帽子を被った中年の男が上を向いていた。反射的に僕も空を見上げる。
快晴の空に、灰色と黒の混じったような雲が現れていた。北から来たわけでも、南から来たわけでもない。ただ、僕らの上空に湧き出てきたのだ。それは増殖するように空を覆っていく。
蝉の声が騒々しい。雀が木の枝に何匹も留まり、飛び跳ねながら鳴いている。青々しい木々の緑がさざめいている。アイスを食べながら歩いている人がいる。歩く人々の背中は汗で滲んでいる。僅かな雲の割れ間からだけ、激しい日光が覗いている。
「雪?」
白い綿のような粒がフワフワと空から舞い落ちてきた。
欠片のような白い粒が空気を漂っている。人々はこれだけでも驚いた。手の平を上に出して、落ちてくる雪を確認していた。
その白い欠片は多くなって来る。空を見上げて目を凝らさなければならなかったのが、目を開けているだけで、雲の上から巨大な小麦粉の袋を逆さにしたように白い粉が降り注いでいる。
気温はどんどん下がり始めてくる。腕の表面に電気が走ったように感覚がなくなって来る。
「雪が降ってる?」
「嘘だろ!?」
「夏なのに?」
「これ、夢?」
周囲から、このように困惑しながら騒ぐ声が聞こえる。一つや二つではない。周りの人間ほとんどが発しているのではないか。蝉の騒がしい鳴き声が人間の声に変わったように思えた。
スマホのシャッター音が混じり始める。さっきまで噴水横の石段に座っていた女性からの音だった。今は立ち上がっている。その女性だけではない。かなりの数の人が、珍しい物を見た時には写真を撮るという現代人の特性を発動させて、スマホを空に向けている。中には友達と一緒にピースして撮っているものや、自撮りしている奴もいる。
全ての人の息が白くなっている。その息と半袖が対照的過ぎて、ひどくアンバランスに見える。多くの人が肌を擦って寒そうにしている。してない奴はアドレナリンが出て寒さを感じていないのだろう。真城さんと最澄の吐息と周りの冷気は全く目立たなくなった。
人々が激しく騒ぐ中で、真城さんと最澄は静かに見つめ合っていた。二人はチラリと黒い雲を確認したのみで全く雪に驚いておらず、むしろ、こうなることが分かり切っているという風だった。だが、僕はそうはいかなかった。
「ちょっ、ちょっと待って。何する気?」
僕は慌てて、真城さんと最澄を交互に見た。真城さんは静かな顔で、最澄に言った。
「ここで、昨日の夜のようなことをすれば、周りの人間がただじゃ済まないわ」
「そう、だから姉さんは本気を出せない。そして僕は人間を殺すことに一切ためらいがない」
最澄は首を斜めに傾ける。僕と目が合い、その目に昨日の夜のことを思い出さされる。
「周りの人間が何人死んでも、その人間を殺せば俺の勝ちだ」
最澄は天を仰ぐように両手を広げた。顔も上に向けた。パーカーのフードがこぼれるように後ろに外れる。
「きっと、分かってくれる……今はその人間に惑わされているだけなんだ……」
陶器のように白い肌、長い睫毛、くっきりとした目元、茶色く染められてはいるが艶のある髪の毛が露わになる。まさに、雪女を男にしたらこうなるだろうというような外見だった。纏うように降っている雪があった。顔の作りは真城さんと似ていた。
「俺たちは温かい場所にいては駄目なんだ。温かくなければ、冷たくならない」
最澄の声音は抑揚が滅茶苦茶になっている。時々高まったかと思えば、急に低くなったりする。ずっと静かで平坦な声だったのに、変になっている。感情が不安定になっている。
「一つ間違えると、冷たい生活を何百年も送ることになってしまう。それだけは駄目なんだ……」
最澄はこう言うと、黙り込んでしまった。手は下ろしているが、顔はまだ上を向いている。微かに笑っているように見える。
完全に街は吹き荒れる雪で覆われた。勢いは未だに増している。足元には既に少し積もっている。人々はさらに騒ぐ。呆然としてただつっ立っている人もいる。ビルの窓にも雪が反射している。空の灰色の雲に隙間はもうない。地面に近く、立体感が出ていて、今にも落ちてきそうだ。かなり寒いが、今は気にならない。
「それはあなたのことでしょう?」
真城さんはこう言い放った。僕は隣を見る。記憶が呼び起こされる。昨日のケーキバイキングで聞いた話だ。今もまだ泣いている雪女の話。
最澄はこっちを向いて立っている。昔話を聞いていた時にイメージしていたシルエットが目の前の男と重なった。




