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第十一話 熱湯と弟


 僕は再び、白い靄の中にいた。しかし、この靄は冷気ではなく湯気だった。僕は風呂場にいた。


 真城さんに肩を貸して貰って苦労して階段を登り、部屋に入ると、まず風呂場に連れていかされた。真城さんは設定を四十六度にした熱湯をバスタブに勢いよく注いで、足をお湯につけるように言った。


「しっかり温めて。何時間も経ってはいないから、凍傷にはなってないと思うけど……」


 真城さんは僕のふくらはぎを掴みながら言った。血行を良くしてくれているのか、それとも、温度を手で感じているのだろうか。


「ありがとう。多分もう大丈夫。大分、感覚も戻ってきた」


 心の底から僕は真城さんに感謝する。ここまでしてくれた事にもだし、あの場所で真城さんが助けてくれなかったら、どうなっていたのかわからない。

 もしかしたら死んでいたのかもしれないけれど、現実感が薄すぎていまいち実感がわかない。急な出来事すぎて、夢の中のことだったんじゃないかと思えてくる。こういうのは全てが終わってしまってしばらく時間がたって振り返ってから、事態の大変さを認識するタイプの出来事なのかもしれない、と働いてない頭でボンヤリと思った。


 真城さんは無言だった。つられて、僕も無言になる。やがて真城さんはタオルを取りに行ってくれた。タオルを手に戻って来てからも、僕の横に立っているだけで何も話そうとはしない。チラリと横顔を見ると、顔を強張らせて気まずそうにしていた。


「さっきの男は、私の弟なの」


「弟?」


「うん、名前は最澄もずみ


 僕は驚いた。真城さんに弟がいることも初めて知った。元カレの類かと思ってた。というより、雪女にも弟が存在することにも不思議に感じた。


 そもそも弟は女性じゃないから雪女とは呼べない、何になるんだと思ったが、今はそんなことはどうでもいい。雪女の真城さんと同様の力がある、それを持つ弟ということだけ捉えていればいい。


「もう百八十年くらい会ってないけどね」と真城さんは言った。


「雪女にも家族がいたんだね。雪男?」


「ふふふ。そういうことになるのかもね」


 真城さんは両手タオルをもてあそびながら、乾いた笑いを浮かべた。


「でも、雪女の力は男性と女性だと、女性の方が圧倒的に強い。潜在的なものでね。雪女と呼ばれるのもそういう理由。正直、弟よりも私の方が圧倒的に強い」


「だからあいつは逃げたのか」


「多分ね。私には勝てないと悟ったんだと思う」


 僕は湯船から足を上げる。足が冷たかったのはもう治っている。タオルを受け取ろうと手を出すと、真城さんは僕の足元に跪いて、ふくらはぎや足の指をタオルで包み込み水気をふき取り始めた。

 自分でやろうと僕がタオルを取ろうとすると、それを制するように「いいよ」と言った。仕方なく手を引っ込める。自分で拭くのとは全く違っていて、他人から足を拭かれるというのは、いつものタオルよりなんだか、こそばゆい感覚がする。


 足から水気がなくなると、真城さんはタオルを畳んで横に置き、姿勢を正して「本当に弟がごめんなさい」と言った。


「いや、真城さんのせいじゃないよ」


 僕は驚きながら、両手を胸の前で振った。

 なぜ僕たちのことが弟に知れたんだろう。僕は誰にも話してないし、それは真城さんも同じ。そもそも、どうして人間と雪女が一緒にいることが問題なんだろう。


 部屋に音が鳴り響いた。体がビクついた。何かと思ったが何のことはない、スマホが震えながら鳴っているだけだった。聞き覚えのない音楽だった。真城さんの弟、最澄が引き返して来たのかと思ってしまった。少し安心した。

 しかし、こんなタイミングで電話をしてくるのは一人しかいない。真城さんはポケットに入れていたスマホを取り出して、顔を強張らせた。僕の方を見つめる。僕は静かに頷く。真城さんは「応答」のボタンをタップして、スマホを耳に当てた。


「もしもし?人間の方は元気?」


 スピーカー状態にしているから、僕の方にも声が聞こえてくる。風呂場で声が反響する。僕は風呂場の淵に腰かけたまま、耳をすませる。


「どうやって私のことを知ったのか分からないけど、もう関わらないで。里に戻るつもりも絶対にない」


 里?僕はこの単語が引っかかったが、電話を横から遮って質問するわけにもいかないので黙っていた。

 真城さんは深く息を吸って続けた。


「私は私の生きたいように、私の好きな場所で、好きな人と暮らしていくから」


「あんたは何も分かっちゃいない」最澄は嘲るようにフッと笑った。「俺も頼まれてるからな、何もなしじゃ帰れないんだ。簡単には引き下がれない」


 真城さんは黙っていた。電話の向こうから一拍置いて、溜息が聞こえた。


「明日、もう一度話そうよ。昼の二時。駅前の噴水で」


 真城さんは口を開きかけたが、最澄の「人間の方も連れて来いよ」という言葉に遮られてしまっていた。そして電話は切れた。

 ツーツーという、電話が消えたことを知らせる音?だけが部屋に残っている。真城さんは電話を耳からゆっくりと離し、そのまま呆然としていた。


「行くの?」


 僕は真城さんの顔を少し横から覗き込むようにして聞いた。


「うん……」と真城さんは力なく答えた。「行かなきゃ次に何をされるか分からないし、また、今日みたいに三島君に近づいてくるかもしれないから。それに、決着をつけなきゃ永遠に終わらない」


「そっか……」と僕は呟くように言った。


 僕は、弟の間に何があったかは分からないし、真城さんがどういう過去を持っているのかも知らない。今、それを根掘り葉掘り聞くのは失礼な気がする。話したくないか、なかなか話しづらいことなのだろう。自然に話してくれるのを、向こうが必要だと思って話し始めてくれるまで待とう、と思った。

 真城さんの言葉と声音から、覚悟を決めていることが感じられた。弟とあんなに派手に、殺し合い一歩手前の衝突をしたのだから当たり前だ。


「僕も行くしかないか」と僕は呟いた。


 真城さんは僕の目を見て、安堵の息を吐いた。


「ありがとう。色々、危険な目に巻き込んでごめんね」


「何回も言うように、真城さんのせいじゃない。大丈夫。全部、上手く収まるさ」


 全く根拠のない気休めを僕は口にした。





「真城さんはベッド使って。僕は下で寝るから」


 二人ともシャワーで汗を流し終わった後のことだった。急に疲れが吹き出てきて、どちらともなく休みたいという雰囲気が流れた時に言った。

 真城さんは、シャツと短パンを着ていた。シャワーを浴びに行く前に、僕が貸したものだった。夏場にいつも僕が寝る服装で、必然的に僕も似たような格好だった。


 女性は一晩泊まるだけでも色々必要なものがあるんじゃないかと思った。僕がさりげなくコンビニに行くことを提案すると、真城さんは即座に却下した。


「一日くらいなら大丈夫。八百年生きてきたけど、毎日風呂に入れるなんて最近だし。汗を流せるだけで贅沢よ。明日の朝、駅に向かう前に私の家に寄って、そこで着替えるから」


 僕は妙な歳の功の醸し出し方をする真城さんに、妙に感心してしまった。


 真城さんは自分が下で寝ると何回も言ったが、それは僕は承知しなかった。女性を床で寝させて自分はベッドで快適に、何の憂いもなく眠れる男がこの世に存在するのだろうか。真城さんはまた八百年を引き出してきた。しかしこれは譲れない。これも許すと未来永劫、この八百年の理屈を都合の良い時に使われ続ける恐れがある。十五分の問答の末、真城さんはしぶしぶベッドで眠ることを承諾した。


「下って、床だから体痛くならない?」と真城さんはフローリングを指で押さえながら聞いた。「一緒にベッドで寝てもいいよ」


 僕はドギマギしてしまって、必死に冷静を装いながら「そこは問題ない」と素早く言った。感情を鎮めるように、押し入れに入っていた炬燵の布団を引っ張り出してきて、それを畳んで敷き、その上に折りたたんだカーペットを乗せた。すぐその上に寝転ぶ。


「案外悪くない」


「そっか」と真城さんは呟いた。


 沈黙が訪れた。

 考えてみると、そもそも僕と真城さんは元々はよく喋る方ではなかった。しかし会話の波長が合うのか、二人でいる時は、勝手に口が動くように自然に喋れていた。他の人と話す時よりも、五倍くらいよく話す。

 だが今に限っては、気まずいのか恥かしいのか、多分その両方で、口が動かなかった。いつもなら自然に話せるのに、今は何を言えばいいのかいくら考えても分からない。


 まだ十時半だったが、眠ることにした。


「じゃあ電気消すよ」

「うん」


 真城さんはベッドに寝転んでいる。僕は部屋の隅の電灯のスイッチを押す。部屋が暗くなる。ベッドの左側にある窓を開けているので、半月の白い月明かりが薄く差し込んでくる。

 僕はエアコンを軽くつけて、床の簡易的な布団に横たわる。さっきは寝心地は悪くないと言ったけれど、カーペットが少し硬くて気にはなる。でも、一日くらいなら余裕で我慢できる。


 無言が訪れたままで、この空間を制圧してしまっている。おやすみを言うタイミングを逃した。電気を消した直後か、寝転んだ時に言うんだった。もう三分くらい経ってるから、今更、急に言うと「え?」と言われるだろう。


 正直、シャワーを浴びて出てきた辺りからドキドキして堪らない。絶対に手をしちゃ駄目だと自分を抑え込む。今はそんな場合じゃないだろと、頭では分かってるが、仕方ないとも思う。

 服にしてもそうだ。Tシャツと短パンなのに、俺が着てた物なのに、なんで真城さんが来たらあんなに色っぽく見えるんだ?男物だぞ、アレ。どういう魔術なんだ?

 シャンプーもそうだ。俺が使ったのと同じヤツだよね?何でそんな良い匂いすんの?


 ひたすら天井を見つめていると、網膜に焼き付いた残像が浮かび上がってくる。Tシャツからから覗く鎖骨が鮮明になって来る。部屋に漂っている良い匂いが濃くなっているような気がする。気持ちが荒ぶってくる。

 体は疲れ切っているのに、目は冴える一方だ。そんな場合じゃないだろと自分でも思う。


 早い所、寝てしまおう。今ならまだ疲れの方が興奮よりも勝っている。こう思って、寝返りを打った。向いた方向は真城さんの方だった。真城さんはもう寝ているんだろうな。


 真城さんは目を開けていた。ベッドに仰向けのまま、窓の外の夜空を眺めていた。月明かりが顔のボンヤリ照らしている。それに僕は数秒間見入ってしまった。だんだん気分が静まってきた。


「……弟とは仲良かったの?」


 気が付けばそう口にしていた。



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