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第十話 浜辺と弾丸


 男の足元の氷が、波のように小さくうねった。浜辺の水面みたいにうねる氷なんて見たことがない。異様だった。

 氷だが固形には見ない。水のように見える。いや、微妙に水が混じっているのか?


「ちゃぷちゃぷ」と音が聞こえる。


 次の瞬間、三十センチくらいの氷でできた波が、浜辺に打ち寄せるように地面を這って僕の方に迫ってきた。波は道路を左右の壁まで満たしているので逃げ場はなかった。

 僕は何が起きているのか分からず、目元を腕で防いで立ち尽くした。道路を這ってくる氷の波がぶつかる直前、とっさに両手で顔を覆うことしかできなかった。


 氷の波は僕の下半身をすり抜けて、通り過ぎていった。

 顔の前にかざしていた腕を下ろし、視線を下に向けると、地面から膝の上にかけてが凍り付いていた。


「は?」

 僕は間抜けな声を出した。氷は足にぶつからなかったが、僕の足に張り付いて固定してしまっている。

 下半身に力を入れても足は動かなかった。歩けない。それよりも足が凍えている。下半身の感覚がなくなってくる。上半身も寒い。


 前方では男は突っ立っている。さっきよりも体の周りを漂う冷気が濃く、広くなっている。

 あいつは何者なんだ?どうして氷を?思考を巡らせる。僕は真城さんの言葉を思い出した。


「私以外の雪女とは話さないで」


 僕はハッとした。

 早く逃げなければ。

 先ほどよりも強く、再び下半身に最大限の力を入れて氷の中の足を動かそうとしてみる。


「くそっ!動け!」


 勢いも虚しく、氷にはヒビ一つ入らない。

 前方から足音が聞こえた。目の前の男が歩き出した。

 彼の足元と僕との間の道路は、表面が氷で薄く覆われている。所々、四十センチほどの氷の山ができている。その小さな氷山の一つに、僕の足は掴まっている。


 男は氷の道路を、歩いて来る。足元が踏みしめられる度に、氷が破片がピキッピキッと小さく割れていた。

 男は僕の目の前に立った。男は少し盛り上がった氷の上に立っているので、目線は男の方が高い。

 漂ってくる冷気で、だんだんと顔の表面まで冷たくなってくる。


 男は僕の顔を覗き込むように体をグッとかがめた。ようやく、男の目を見た。顔立ちは異様に整っていた。肌が白くて、鼻が高い。しかし目に感情がなかった。虚ろで、光が宿ってない。黒目に光が宿ってなかった。


「人間を殺すには口と鼻を凍らせて窒息させるのが一番簡単だと聞いたが本当か?」


 男は僕の目を三センチ先で見つめたままこう言った。鼻に当たる息もドライアイスみたいに冷たかった。

 僕はこの発言に、思考を奪われた。


「お前で試そうか。いや、全身を氷漬けにしたら確実か」


「待ってくれ、お前は何なんだ?雪女……なのか?」


 僕は叫ぶように訊ねた。


「お前からの質問には、答える気がない。どうせ死ぬんだから時間の無駄だ」


「話を聞いてくれ、お前は」


「待たない」


 男は六歩程後ろに下がり、少し離れた位置で右手を僕の方に向けた。小声でボソリと何かを呟くと、その右手の周りに、菱形の氷の結晶がいくつも浮かび、漂い始めた。その氷の結晶の数は少しずつ膨らみ、太っていく。


 男の足元から、先ほどと同じように氷の波が現れた。今度は先ほどの波よりも少し高かった。僕の目線の高さくらいある。そんな波が、先ほどよりも勢いと速さを増して迫ってきた。

 同時に男の右手に纏われていた菱形の氷の結晶も発射された。


 ヤバいと思った。でもそれ以外、何も考えられなかったし、何もできなかった。自分に向かって迫って来る氷の波がスローモーションに見える。


 僕の足元から、ピキピキと音を立てるのが聞こえた。

 壁が、地面から現れた。


 氷の壁だった。

 僕の視界にはその白い壁しか映らなくなった。


 一秒も経たずに、目の前から衝撃音が響く。それがしばらく継続する。目の前に現れた氷の壁が、波と弾丸を防いでいるのだ。その衝突している音だ。

 目の前で僕の身を守った壁は細かく振動している。


 僕の方へ迫って来ていた氷の波は壁で弾かれて、左右へ別れて流れて行った。道路の両側のコンクリートが氷漬けになる。


「大丈夫!?」


 声と共に、僕の左に人影が現れた。見ると、真城さんが立っていた。

 氷の壁はヒビが入った後、ピシピシと音を立てながら崩れていった。


 再び、男の姿が見えた。真城さんはその男を睨んでいた。僕はその様子を眺めていた。


「何をしているの?」


 真城さんが静かに言った。目も、あの時と同じ種類の目だ。どれだけ鈍くても怒っているのが分かる。静かな殺意、激しく怒鳴り散らしたりはしないが、今すぐにでも容赦なく無表情で叩き潰すような雰囲気を隠せていなかった。

 男は眉間に皺を寄せて答えた。


「それはこっちのセリフだ、どうして正体を知られて、しかもその人間と仲良くしている」


 男は息を深く息を吸い、白い息を吐いた。


「自分が何をしているのか、分かっているのか?」


「分かってる……」


 真城さんは静かに答えた。


「だったらその人間を殺せ」


 男は僕を指差して言った。真城さんは何も言わなかった。


「お前が殺さないのなら、俺が殺す」


 ヒュン、と風を切るような音が辺りに響いた。


 目の前の男の首元に、刃先が突きつけられていた。形は刀とも、鎌とも見える。透明で白く光を反射している。これも氷でできていた。


 刃先は空中で浮いていた。根元を辿って行くと、木の幹のように太くなっていき、真城さんの体に行きついた。氷は真城さんの左肩から伸びていた。


 真城さんは左腕を水平に上げて男の方へ向けていた。人差し指を一本だけ立て、斜め下に傾けている。人差し指と氷の刃先の方向は同じだった。


「もしこの人間を殺したら、殺そうとしたら、その首を撥ねる」


 男は首元の刃先を、顔を動かさずに目だけを下に動かして眺めていた。平たく長い氷の刃は鋭く光り、人間の首など一瞬で切断できそうだった。実際、少し男の首元に触れて、血が首を伝い、刃先に滴っている。男は黙っていた。


「パシィィィン」


 僕の足を凍らせていた氷が、砕かれて塵になった。あれだけ必死に力を入れてもどうにもならなかったのに、一瞬で粉々になり、欠片が空気中に漂っている。


「逃げて」


 真城さんは男の方を見たまま言った。


「……いいや、俺が逃げる」


 男の方が吐き捨てるように言った。


「恐らく、今戦ったら死ぬのは俺の方だからな。今の所は引き上げるさ。また来るよ。お楽しみにな」


 こう言って、男は後ろを向いて去って行った。

 歩いた後には空中に冷気が残るので、後ろ姿はどんどん冷気が折り重なって濃く広くなり、ようやく靄が薄れてきてはっきりしてきたと思った時には姿は消えていた。

 完全に男の姿が消えてしまっても、少しの間、僕と真城さんは男の歩いて行った方を見つめていた。


「行った……」と僕は呟いた。


 とりあえず死ぬことはなかったと、一難去った気持ちで安堵した時、僕は膝から崩れ落ちた。

 ようやく、足が凍っていたことを思い出す。ほとんど感覚がない上に、力が入らない。

 僕が地面に膝をぶつけた音を聞いて、真城さんは後ろを振り向いた。


「とりあえず無事で良かった……ケガはない?立てる?」


「ちょっと、無理かも」と僕は初めて真城さんの前で弱音をこぼす。「足が冷たくて全然動かない」


 真城さんは僕の右隣に来て、腕を首の後ろに回して、肩を貸す格好になった。いつの間にか、肩から伸びていた氷は消えていた。


「肩を貸すから、とりあえず部屋まで行こう」


 僕達は氷の道の上を歩き、目と鼻の先のアパートに向かった。

 ドアを開けようと鍵を差し込んだ時、部屋に戻れたのが奇跡のように思えた。



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