番外編 ラインハルトの変化
ラインハルトが少女に初めて抱いた印象は何もない。
あえて言うなら異質な目を持った、他には何の印象も感じない何処にでもいる痩せた子供だった。
『旅に同行させる―――』
フィルネスがそう言いだした時は何故こんな娘をと疑問に思ったものの、邪魔になれば殺せばいいと思っただけ。娘がルー帝国皇女シャナとアスギルとの間に生まれたのだと知った時は、親子で殺し合いをさせるのも一興だとラインハルトは不敵な笑みを漏らしたに過ぎなかった。
ラインハルトはウィラーン王国の第二王子として生を受けた。
七歳年上の同じ母を持つ兄がいたが、ラインハルトの目にはどう贔屓目に見ても愚兄にしか映らず、そんな第一王子でも王太子たる息子を母は溺愛し、それが更に兄を駄目にしていた。
ウィラーンは小国ながらも強力な軍を持つ軍事国だ。その国があの愚兄に渡っては瞬く間に衰退するに決まっている。当時一四歳だったラインハルトは迷うことなく愚兄の首を落とし、邪魔となる母をもその手にかけた。父王はラインハルトの所業を不敵に笑っただけで罪を問う事はせず、王太子として認める。その後ラインハルトの異母兄弟達は身の危険を感じ、結託してラインハルトを暗殺しようとしたが悉く返り討ちに合い、その殆どがラインハルトの手によって命を落とした。
ラインハルトは血のつながりに何の興味も持ってはいない。どちらかと言うと煩わしい危険な存在と認識していたが、セラの様な普通に育った娘が自分と同じように『親殺し』をした後どのような反応を見せるのか。それに対してラインハルトは僅かながら興味を示した。
「おはよう、ラインハルト。」
旅を共にして数ヶ月、セラは毎朝欠かさず笑顔で挨拶をして来る。
ラインハルトはその笑顔に答える事は一度もなく、視線すら合わせず完全無視を決め込み続けていた。
それでもセラは根気よく話しかけて来る為、あまりにうるさい時には鋭い射殺す様な視線でセラを追い払う。すると真っ直ぐで純粋な瞳を否応なしで捕えてしまい、寂しそうに俯いて去って行く背中に何故だか解らなかったが胸がチクリと刺すように痛んだ。
何だこの痛みは―――?
痛みの理由が解らない。
最近よくこんな事が起こる。それもセラに何かしらの無言の責めを与えた後去り行く背を見ると必ずだ。
何かの呪いでもかけられたのだろうか…
浮かんだ考えに馬鹿らしいと顔を顰め、ラインハルトはそんな考えを持った自身に苛立ちを覚える。
その日セラはフィルネスから魔法の指導を受けながら泣いていた。
セラとフィルネスの前には野生の猿の死骸。
体内の治癒の方法をセラに理解させる為に猿を捕獲し、内臓の仕組みを理解させる為にフィルネスが猿の腹を裂いて説いていた。セラはその説明を泣き腫らした眼に涙を浮かべたまま鼻水をすすり、真剣に講義に打ち込んでいる。
一つの命を犠牲にして、人間の体内の仕組みを事細かに仕込まれている。そしてフィルネスの説明が終われば肉は無駄なく彼らの腹に入る事になり、その時になればセラも喜んでその肉を口にするのだろう。
姿形を留めていると言うだけで感情的になり涙を流す…女とは何とも面倒かつ姑息で執念深くしかも計算高い厄介な生き物だ。泣けば何でも許されると思っている節がある。この娘もそれに漏れる事はないのだと、ラインハルトはセラが鼻を啜る音を耳にしながら思った。
アスギルの行方を求め旅を続けるにあたり、その道中の殆どが野宿である。
先程セラが内臓の仕組みを習っていた猿は、その夜フィルネスの手によってスープに変えられた。
「いつまで落ち込んでいやがる、面倒臭ぇ。さっさと食いやがれ!」
「煩いなぁ…お猿さんに感謝のお祈りをしているんだからほっといてよっ」
セラは渡されたスープに口を付ける事無く何やらぶつぶつと呟いている。
それが終わると冷えかけたスープに口を付け、「おいしい」とのたまった。
「ったりめぇだろ、誰が作ったと思っていやがんだ。」
意外な事にフィルネスは料理の腕が立つ。
自己陶酔型で完璧主義の魔法使いとラインハルトは折り合いが悪かったが、不自由な旅でフィルネスの作る一見粗末な料理は、決して口に出す事はないがラインハルトも認めるかなりの美味しさだ。
食事が終わるとセラが食器を集め後片付けをする。カオスは野営の火を絶やさぬ為の薪を拾いに森に入り、フィルネスは何時の間にか姿を消している。ラインハルトは焚火の明かりを頼りに剣を磨いていた。
剣を磨くラインハルトの前に影が差す。
手を伸ばせば触れるかと思われる距離にセラが立っていた。
ラインハルトはセラが近付いて来るのは気配で解っていたので、目の前に影が差し手元が見え難くなっても構う事無く作業を続ける。
「ラインハルト。」
セラが呼びかけるが、ラインハルトは何時もと同じく無視を決め込む。
「ねえ、ラインハルト。」
無視。
「ねぇったらっ!」
しつこく名を呼ばれ煩いと一瞥を送った。
氷の様な視線にセラは一瞬怯むが、いつもならここで肩を落として退散する筈なのに一向に動こうとする気配がない。
「稽古の相手してくれない?」
何だと?!
この娘はいったい何を言い出すのだとラインハルトは迂闊にも顔を上げてしまった。
セラはにっこりと笑って、カオスに与えられた護身用の剣を胸に抱いている。
「たまにはカオス以外の人とやってみたいんだ。」
フィルネスは剣を使わないし、手近な相手としてはカオス意外にはラインハルトしかいないのも事実。
何時もは怒りの表情しか見せる事のないラインハルトが、この時ばかりは眉間に皺を寄せ理解に苦しむ表情を浮かべていた。
たかが小娘の、しかも数か月前に剣を始めたばかりの素人が、獰猛かつ強靭な剣の使い手たるラインハルトに稽古をつけろと言って来たのである。
この娘は本気で言っているのか?
ラインハルトとやり合ってまともに戦えるのはカオスくらいの物である。それを理解しての事なのか?
この娘はカオスに甘い剣の指導を受け、相当の勘違いをしているようだ。
ならば良かろう―――二度とそのような口を叩かせぬ為に徹底的に痛めつけてやる―――
ラインハルトは今後蝿の様に煩いセラを寄せ付けぬ為の手段として剣を抜いた。
セラはラインハルトが自分に対して初めて取った反応に顔を輝かせ、同じく剣を構える。
「宜しくお願いします!」
そう言ってセラが構えた剣をラインハルトに振り下ろすと同時に、カオスの叫び声が耳に届いた。
「止めろラインハルトっ!!」
セラがその声の内容を理解する事は出来なかった。
ラインハルトはカオスが叫ぶと同時に片手で剣を振り下ろし、その剣がセラの肉を裂く。
剣がセラの肉を貫き身体をなぞるのをラインハルトは止める事が出来なかった。
獰猛な獅子の身体は、人の肉体を裂く歓喜に震え、飛び散る赤い血がラインハルトを濡らす。
しかしラインハルトの人を殺す事になれた身体は歓喜を覚えながらも、その漆黒の瞳は剣に呑まれ倒れ行くセラを捕え揺れていた。
どさりとセラの身体が硬い土の上に倒れ込むと、ラインハルトの胸に複雑な感情が一気に溢れ出す。
「セラっ!」
ラインハルトの足元に転がるセラにカオスが駆け寄り、後から来たフィルネスがそれを突き飛ばす。
「どけっ!」
セラの瞳から光が失われていた。
カオスとフィルネスが何事かを叫び、セラの身体を白い光が包み込んでいたが、ラインハルトの耳には何の音も届いて来なかった。
溢れ出る血と光の無い瞳を見下ろし、ラインハルトはその場に立ち尽くす。
自分はいったい…何をした?
それは初めての問いかけだった。
兄弟姉妹、母親すら自らの手にかけた。邪魔なものはたとえ子供でも容赦なく首を落とし、それに対して何の感情も持った事はない。
それなのに今自分は何を思っているのだ?!
鬱陶しくて殺したくてならなかった小さな少女。殺したかったが今はまだ殺すつもりはなかった。ただ自分に二度と近づいて来させない為に痛めつけてやろうとしただけだ。
だがセラが剣を向けた時ラインハルトの身体はそれを敵とみなし、振り下ろす剣を止める事が出来なかった。
生気を失って倒れたセラを目の当たりにし、ラインハルトからは一気に血の気が引いていた。
剣を振るい、それを止める事の出来なかった自分を責め後悔している―――?
初めて生まれた感情にラインハルトは戸惑い、身体の力が抜けその場に膝を付いた。
「手前は頭がいかれてんのか糞女っ!」
翌朝、目を覚ましたセラにフィルネスの罵声が飛ぶ。
「あいつは手加減なしの魔物だ、殺すのが身について離れない殺人鬼だって見りゃ分かんだろ。手前みてぇな餓鬼が敵う相手じゃねぇってのに自分から飛び込んでくとはやっぱ手前は阿呆だ。阿呆なら阿呆らしく大人しくしてろっ。俺様の手を煩わせんじゃねえッ!!!」
フィルネスは一気にまくし立てると怒りのあまりふらふらとその場に座り込んだ。
一晩かけてセラを治療していたので、魔法と体力を使い果たしていた為である。
「うう…ごめんなさい。」
セラはひたすら恐縮している。
ラインハルトがセラに負わせた傷は致命傷で、あと一歩の所で事切れる寸前だった。
「俺だから完璧に処置出来たんだ。有り難く思え馬鹿女!」
「あまり叫ぶと倒れるぞ?」
苦笑いを浮かべたカオスが頭に血が上り座り込んだフィルネスを諭すと、フィルネスはカオスに噛みついた。
「手前もこの馬鹿女から目を離すんじゃねぇ。こいつが死にでもしたら手取り足とり親切に教え込んだ俺の時間と努力が水の泡だ!手前も死にたくなけりゃ二度とこんな真似するな。解ったかどん臭女!」
物凄い剣幕で巻くしあげるだけ巻くしあげた後、フィルネスはふらふらと立ち上がり森の中へ姿を消した。
大量の血を失ったセラはまだ動く事が出来ない様で、その場に横になると暫くカオスと話をしているようだったが、間もなくすると眠りに付く。
丁度そこへ、昨夜から姿を暗ましていたラインハルトが鹿を一頭抱えて戻って来た。
無言でそれをカオスの前に放り投げると少し離れた場所に腰を下ろし、剣の手入れを始める。
その様子に最初は怪訝な表情を浮かべていたカオスも、やがて優しい表情を取り戻し、ふっと笑みを浮かべた。
鹿の肝は造血に優れている。
人に興味を示さないラインハルトが殺しかけたとは言え、自分以外の人間に気を使うなどまさに奇跡だった。
カオスは意味有り気な視線をラインハルトに向けた後、鹿を捌く為セラから離れる。
カオスの姿が完全に見えなくなるとラインハルトは剣を鞘に戻し、セラに視線を向けた。
自分が何故この様な行動に出たのか解らなかった。
殺しかけた娘に気を使い、わざわざ動物を一頭しとめて来るなど自分でも酔狂だと思える。たとえ子供だとて容赦なく殺して来たラインハルトだったのだが、セラを手にかけた時に湧き起こった感情に未だ戸惑いを見せていた。
ラインハルトは立ち上がると、眠るセラの傍まで近寄り覗き込んだ。
自らの意思でこの娘に近寄ったのはこれが初めてだった。
フィルネスの治癒のお陰で傷はすっかり癒えていたが、大量の出血があったせいで顔色が悪い。だが即死に近い状態であったにもかかわらず、規則正しく上下する胸元にラインハルトはほっとする。
自分でほっとしておいて何故ほっとしたのかが解らず、ラインハルトは眉間に皺を寄せた。
その時セラがぼんやりと瞼を開け、青と赤の瞳がラインハルトを捕える。
真っ直ぐで純粋な、呑まれそうになるセラの瞳。
まるで生まれたての赤子の様に一点の曇りもない瞳に宿る自身の姿に、ラインハルトは恐怖し慄いた。
こんな小さな娘一人に囚われ、心を乱される恐怖。
娘をこのまま生かしておけばとんでもない事になる―――
自身を脅かす存在をラインハルトは決して許さない。
剣に手をかけ鞘を握り締めた時、ラインハルトはその手が震えている事に気付いた。
何に怯えている―――?!
有り得ない事だった。
人の心を失ってから命の駆け引きなど息をするように普通の事になっていた。人を殺める事に迷いなど無い、逆にその瞬間は歓喜に震える程だ。
ラインハルトの心を乱し、それに恐怖する自分にラインハルトは驚愕する。
殺さねば…今直ぐ抹殺しておかねばという思いがあるが、握った剣を放つ事が叶わない。
訳の分からない未知なる力に支配されている気分に陥る。
「お前は、何者だ?」
絞り出すように唸ったラインハルトにセラは目を見開き驚いた。
そして―――
零れんばかりの花の様な満面の笑みを浮かべる。
「やっとわたしを見てくれたね、ラインハルト。」
嬉しそうに微笑んで再び瞳を閉じ寝息をたて始めたセラを見下ろし、ラインハルトは胸を貫かれるような痛みを感じる。
得も言われぬ感覚に息苦しさを覚え、ラインハルトはその場に膝を付いた。
いったい何者だと言うのだ、この娘は―――
アスギルの血を引く魔法使い。実の兄すら魅了し帝国の終焉を招いたシャナ皇女の娘。その二つの血を受けたが故の魔力で、目に見えない何かしらの影響を与えられようとしているのか?!
危険だと思う。
アスギルを倒すとか言う以前に、即刻この娘を抹殺してしまわなければ危険だとラインハルトは感じるが、震える手で剣を抜く事がどうしても出来ない。
この頃のラインハルトは胸に湧き上がるこの感情の意味が解らず、それを成す言葉を知らなかった。
それから二日の時が流れセラも大分調子が良くなり、今朝は自分が料理を作ると言ってカオスと共に火をおこしている。
そうこうしていると姿を消していたフィルネスが再び舞い戻って来た。
「手前にもそろそろ火を使う魔法を教えなけりゃならねえな。」
セラはもともと使えた治癒と結界を作る防御系の魔法を中心に叩きこまれていたが、攻撃魔法を応用して使えば火をおこすのも簡単になる。
「だったら今日から教えてよ。フィルももう大丈夫なんでしょ?」
「ああそうだな。飯食ったらおっぱじめるぞ。」
指して興味なさそうに告げるとフィルネスはカオスと何やら話を始め、セラはせっせと鍋に干しておいたシカの肉やら何やらを入れて作り出す。その様子をラインハルトは不思議な物でも見るかに凝視していた。
実際その手際は不思議な物だった。
鍋に水を入れ肉と野菜らしきものを入れたまでは良かったが、何故かその野菜を取り出し穴に埋めると白い土をかぶせ、鍋には別の何かをふり入れている。入れた瞬間セラは青ざめるが、まあいいかという感じで頭を掻き笑顔で作業を続け出した。そして最後に白い土をかぶせていた野菜を取り出し付いた土を払うとそのまま再び鍋に投入。
ちょっと待て、一体今の作業は何なのだ?!
ラインハルトは口を開きたいが何も言えない。
兎に角、セラの不思議な行動から目が離す事が出来ず釘付けになっていた。
「みんな~、ご飯ができたよ~!」
そう言って渡された椀に入れられた物を見て、ラインハルトは別の意味で言葉を失った。
「何だこれは?」
フィルネスが椀を覗き込んで片眉を上げる。
「見ての通り鹿肉ととりたての薬草を煮込んだものよ。」
見ての通り?
「この蛙の足は何だ?」
フィルネスが椀からそれを摘んで持ち上げる。
「ああ、さっき撥ねてたからついでに入れたの。滋養によさそうじゃない?」
セラの答えにフィルネスは足を椀に戻し額に手を当て深い溜息を付いた。
「ちょっと何よその態度、見た目より味なんだからさっさと食べちゃってよね!」
セラは眉間に皺を寄せたまま椀の中身を勢いよく口に流し込む。
「うん、美味しい。」
そう言うと鍋にある残りをお代わりして再び口に運びだした。
ラインハルトは恐る恐るそれを口に運ぶ。
ジャリ…と、砂を噛んだ。
同時に苦味とも酸味とも辛味とも甘味とも付かない味が口内を犯す。
何だこれは?!
はっきり言って毒の方が上手い。それがラインハルトの率直な感想だった。
暫くすると舌先が痺れだす。あまりの味に舌が麻痺し出したのだ。
「何だこれは―――」
フィルネスがラインハルトを代弁するかに呟き、手にした椀を取り落とした。
「んな不味い物人間の食うもんじゃねぇ―――」
あまりのショックに怒鳴るでもなく、一点を見つめたまま青ざめ呟いている。
「失礼ね、そんな訳ないでしょ。ね、カオス。」
意見を求められたカオスも青ざめ、僅かに震える手で椀を抱えていた。
「なによカオスまで…ラインハルトは美味しいって思うでしょ?」
数日前にそれを問われていたなら間違いなく無視を決め込み、命を奪いかねない味のこれを迷わずセラに投げつけただろう。
セラの無謀なふりにフィルネスとカオスが事の成り行きを監視する。
傷が癒えたばかりのセラに再び暴挙を働かれたらたまらないと、一瞬で周囲に緊張が走る。
ラインハルトはゆっくりと口を開いた。
「ああ…そうだな。」
そう言ってラインハルトは無言でそれを口に運びだす。
ラインハルトの意外な行動に、カオスは何とか持っていた椀をついに取り落とし、フィルネスはぽかんと口を開け呆気にとられた。
ラインハルトは舌が麻痺したお陰で何とか味は我慢する事が出来た…と言うか我慢する。固形物を噛むと砂の軋む音がいやに響いた。
今直ぐ吐き出したい…こんなとんでもない物を口にするなど拷問に等しかった。
それなのにラインハルトは文句一つ言わず、ただひたすらそれを無言で口に運ぶ。
「ほらね。王子様のラインハルトが言うんだからフィルネスが味音痴なだけだよ。」
フィルネスは頭を抱え何も言わない。
「最悪な所ばかりあいつに似やがって―――」
誰にも聞こえない声でフィルネスは呟く。
この一件以来、フィルネスがセラに料理を作らせる事は二度となかった。