終章
わたしの覚悟です―――
宣言し取り払われた指輪。
零れ落ちる大粒の涙の中でセラは微笑んでいた。
青と赤の左右非対称の色がセリドを真っ直ぐに見据え、その瞳には確固たる決意が宿っている。
セラが失ったものはあまりにも大きい。僅か十七年の人生で味わうには辛辣な経験ばかりだった。ここにいる誰もが知らないセラの出生の秘密が彼女にとっての試練の始まりで、それは僅かな人生に多大なる傷をもたらし続けた。
その中で見いだせた宝―――それも全ては辛い人生があったからこそ齎された遺産だ。
セラは今、自分の意思で選んだその宝を見据えている。
力強い瞳で見据えられたセリドは、たった今セラが示した決意に胸を射抜かれていた。
外された指輪。
セラを守り、生涯そこにあり続けるのだと当たり前に思っていたラインハルトの想いの証。
その想いを捨て去らせるなんて―――そんな事を望んだ訳ではない。
セリドは硬く瞼を閉じた。
セラを思う気持ちはたとえラインハルト相手だとしても負けるつもりはない。セラにとってラインハルトは絶対的な存在で、指輪を外したとてセラがラインハルトを愛する気持ちがなくなる訳ではない。指輪はセラを想うラインハルトの心であって、結してセラがセリドに向ける愛情を否定する材料に成り得る物ではないのだ。
セラはラインハルトの自分に対する想いを取り払い、セリドの心を受け入れる証明としてそれを外して見せたのだ。
強く思い続けていた分、その行為はセラに苦痛を与えただろう。指を切り落とされても外す事を拒否した指輪を、セリドへの想いの証明として自らの意思で取り払った。
セラが示した確固たる決意。
その決意に応える為にセリドに出来る事は一つだ。
セリドはセラの前に立ち、ゆっくりと手を伸ばしセラに触れ硬く握られた右手を取ると、その手に自身の指を滑り込ませ中から指輪を探り取った。
繊細な細工の施された台座に大粒の青い宝石。それを透かせば王家の紋章が浮かび上がる、ウィラーン国王ラインハルト王の妃だけが持つ事を許された指輪。
セリドはそれを手に取ると、黙ったままその指輪を見つめた。
指輪に乗せられたラインハルトの想いと、セラの出した決断。
なんて重いのだろう―――
掌で握り締められていた指輪は熱く熱を帯びていて、セラの決意の強さを伺わせた。
セリドはセラの左手を取ると、その薬指に指輪を嵌める。
その様子を、セラは唖然と見つめていた。
「これが私の答えだ。」
セラも―――ラインハルトの想いも全て必ず受け入れて見せる。
セリドの真剣な眼差しがセラの瞳と絡み合う。
「ラインハルト王は人生ただ一人の妃にお前を選び、それを生涯に渡り貫き通した。私もお前をただ一人の妃とし、生涯を通して愛しぬくとラインハルト王に誓おう。」
ラインハルトが愛した妃はセラだけだ。
正当な妃としての名をウィラーンの歴史に刻む事は叶わなかったが、ラインハルトの心は永遠にセラの傍らにあり続ける。指輪があろうとなかろうと変わらない現実だ。
それならばセラの指に証を残し、セリドはそれを受け入れ全てをかけてセラを愛し守り抜こうとラインハルトに誓った。
セラは言葉もなく、何度も頷く。
その度に溢れた涙が勢いを増して零れ落ち、セリドは頬に伝う涙を掌で拭い去り優しく微笑んだ。
僅かな時間セラを見つめた後で、セリドはその場に蹲るテスの傍らに膝を付いた。
テスは二人のやり取りを茫然と見つめ、最後には項垂れるように地面に身をかがめて言葉を失っていたが、傍らにセリドの体温を感じて顔を上げセリドをぼんやりと見つめる。
「勝手な言い分だと言うのは解かってはいますが、私が彼女を想う気持ちは変えられない。たとえセラが私以外の男の手を取ったとしても、これから先私がテスを妃に選ぶ事は永遠にありません。貴方に対する気持ちは、男女のそれには決して成り得ない感情なのです。」
セラを妃に迎えるには大きな障害が立ち塞がるであろう。
だがそれすらもセラを得られる喜びを想えば他愛ない事の様に思える。いかなる困難をも乗り越える覚悟がなければ、セラを手に入れる資格など無いのだとセリドはラインハルトにそれを誓ったのだ。
テスはぼんやりとセリドを見つめていたが、やがて囁くように口を開いた。
「王子も、陛下もリリス様も何故これ程セラ様に惹かれるの?」
自分の物だと思っていたセリド。いずれは妃に成るのだと思っていたのに、セラが現れた途端リリスはテスをセリドから遠ざけてしまった。
自分とセラの違いはいったい何なのか。
セリドがセラを愛する理由など解らない。だが会って間もないセラを憎いと思いながら、テスはセラと言う不思議な女性に興味を抱き出した自分にも気付いた。
引き込まれそうになる青い瞳と、血の様に赤い瞳。
忌わしく恐ろしい瞳だが、片方ずつそれを見れば何とも美しく、そして一点の曇りもなく何処までも澄んでいる。
「解りました―――」
呟いて、テスはゆっくりと立ち上がる。
ふらついた体をマウリーが手を伸ばし支えると、力なく笑って「ありがとう」と礼を述べ再びセリドに視線を向けた。
「わたくしだってセリド王子を想う気持ちは変えられません。だから絶対にあきらめませんわ。だってこの先どうなるかなんて誰にも解らないのですもの。」
強がりと誇りと、己の気持ちを素直に発した言葉にマウリーが賛同する。
「その通り、未来なんて自分で切り開いて行くものだからね。」
でも今は―――
「僕はセラちゃんの味方だから…テス、君には不本意かもしれないけど今夜は僕が君をエスコートするよ。」
言うなりマウリーはテスを抱き上げると建物に向かって歩き出した。
突然の事にテスは顔を真っ赤にして小さな悲鳴を上げるが、必死の思いで絞り出した先程の言葉のせいで足が震えていた事も手伝い、恥ずかしさに俯くばかりで抵抗する余裕もない。
マウリーは一度振り返るとセラに向かってほほ笑んだ。
「また明日ね、セラちゃん。」
セラに向けた言葉だったが、これは明日会いに行くと言う意味を含ませたセリドへの牽制と嫌がらせだ。
その言葉にセリドはムッとするが、セラと二人きりにしてくれた事に関してだけはマウリーに感謝の念を抱いた。
暗闇に取り残された二人はマウリーとテスが去って行く姿を見送る。
沈黙が続いた後、セラは「あっ!」と思いだしたかに声を上げた。
「大変、これ借りたままじゃマウリーさん広間に入れないんじゃ…」
肩にかけられたマウリーの上着を手に持ち直し慌ててマウリーの後を追おうとすると、セラが踏み出す前にセリドが腕を掴んで引き止める。
「あの顔ではどの道宴には戻れまい。」
テスの顔は涙に濡れ、化粧は流れ落ち目は充血して腫れあがっていた。淑女として育て上げられたテスがあの姿で人前に出る事は絶対にあり得ない。マウリーもそれを知っているからそのままテスを部屋まで送り届けるつもりだろう。
「勿論お前も例外ではないがな。」
泣き腫らした眼を指摘され、セラはぐすりと鼻をすすった。
「そうみたいね。」
言いながら手に持ち直した上着に袖を通すと、セリドはあからまさに不機嫌な表情を浮かべる。
「何故袖を通す?」
「寒いから?」
他に理由がと、セラはぽかんとしてセリドを見つめた。
好きな女が自分以外の男の上着に袖を通す姿を喜んで見られる筈などないだろう。
マウリーの上着を脱がせ自分の上着を渡そうとしたが、そうした所でセラがセリドの気持ちを理解しない事は解っていたので止めた。逆にそれが原因で口論になりかねない。
大きな決断を口にした後だけあって、セリドはまだその余韻に浸っていたかった。
「テスさん、大丈夫かな。」
本当ならここに存在しない筈の、別の時間を生きていたセラ。自分で選んだ道とは言え、自分の存在が彼女を傷付けた事はどう転んでも変わりない現実だ。
「テスの事は私の問題で決してお前のせいではない。私の怠慢が招いた結果故お前は気に病むな。」
言うなりセリドはセラの手を取り、もう一方の手を腰に回した。
「何?!」
「広間に戻れぬのだからここで踊るしかあるまい。」
言うが早いがセリドはステップを踏み出していた。
慌ててセラも足を動かすが急な事に付いて行けずセリドの足を踏み、セリドの顔が苦痛に歪んだ。
「ごめんっ…」
動きが止まったのでセラはもぞもぞと足元を動かす。
僅かにセラの身長が沈んだので靴を脱いだのだと解った。
「これで大丈夫ね。」
「お前は本当に面白いな。」
見ていて飽きる事がないとセリドが笑う。
二人の動きに合わせ、冷たい春の夜風が身体を撫でた。
風が巻き上がる。
左右非対称の瞳を持った少女と出会い、あれから幾度目の春を迎えただろうか。
当てのない旅を始めたイルジュはイクサーンを巡った後、今は最南端にある町まで足を運んでいた。
そびえる山の向こうには、イルジュを地獄から助け出してくれた人を殺した憎い男の国がある。
複雑な思いで山並みを眺めていると悲鳴の様な声が耳に届いた。
何気に声のした裏通りの方へ足を踏み入れると、一人の娘がいかにも悪人と言った風情の男と果敢にも争い何かを奪い合っている。
それは茶色の箱に入れられた何かで、奪い合われる箱から白い中身が見え隠れしていた。
どうやらただの布地の様である。
そんな物を必死の形相で奪い合う二人の攻防に暫く見入っていると、なぜ二人がそうまでして白い布に拘るのかに興味が湧いて来た。
男が娘に手を振り上げた瞬間、全身の力を失いその場にへたり込む。
娘は突然力から解放され、その勢いで後ろに羽飛び尻餅をついた。
「大丈夫か?」
イルジュが手を差し出すと、娘は一瞬躊躇したものの礼を述べながらその手を取った。
闘争意欲を見せる度に力が抜け尻餅をつく男をその場に残し、二人は表通りに出る。
「ありがとう。」
娘はほっとした様に息を付いた後でもう一度イルジュに礼を言って笑顔を向けた。
その笑顔に複雑な心境を持ったイルジュは疑問を口にした。
「怖くないのか?」
「何が?」
「俺が魔法使ったの見ただろう?」
「うん、おかげで助かったわ。どうもありがとう。」
そう言って娘は、助けてくれたお礼にお茶でもどうかと誘って来る。
人との接触を何年も拒否し続けていたイルジュであったが、娘の無防備な態度から誰かを思い出し、懐かしさについつられて首を縦に振っていた。
「それは何だ?」
娘が大事そうに抱えた箱を示す。
「婚礼衣装用の生地よ。」
「あんた結婚するのか?」
すると娘は大口を開け豪快に笑いだす。
「これは最高級の生地よ、王家に献上する品。わたしなんかが一生かかっても袖を通せる品物じゃないわ。」
この地方で取れる絹は大陸中でも最高級の品質を誇る。娘の家はその絹から糸を引きだし生地に仕立て上げる職人の家庭だった。
「知ってるでしょ、来年都で王太子の婚礼が執り行われるの。」
「王太子…」
イルジュの瞳が僅かに揺らぐ。
忘れる事のない塔で過ごした日々の記憶がイルジュの脳裏に湧き起こって来た。
「お妃さまになられるのはあなたと同じ魔法使いなんですって。瞳の色が左右で異なるとっても不思議な目の色をなさっているらしいわ。」
一度でいいから拝んでみたいものだと娘は笑って言った。
「あなたも旅の人なら何時か拝める日が来るかもね。」
何時かもう一度―――
「ああ、そうだな。」
何時かもう一度、あの不思議な優しい瞳に宿れる日が来るだろうか。
イルジュはセラと過ごした僅かな時間に想いを馳せる。
彼女との出会いの時間で大切なただ一人の人を失った。
その時間の中で、彼女がイルジュに与えたモノは温もり―――温かい安らぎだった。
「あんたすごいな。」
「え、何?」
何か言ったと振り返った娘に、何でもないとイルジュは笑った。
生まれて初めて自然と出て来た本物の笑顔。
それにイルジュは流れ去った時の長さを感じ、彼女のいる方―――都へと視線を向けた。
今まで根気よく読んで下さった皆様に感謝いたします。
どうもありがとうございました。
今回で最終話です。
この後、番外編を書く予定でおります。