闇と光
セリドがセラを抱きかかえ城に戻ると、その姿を見た物は息を呑み騒然となった。
それも当然だ。
二人は血にまみれ、マントに包まれ抱きかかえられたセラは意識まで失っていたのだから。
「いったい何があったのです?!」
シールは慌てて二人に駆け寄る。
セリドの姿が城から消えたと報告を受け数時間が経過していたが、その間は特に大した事ではないだろうとたかを括っていた為に衝撃が走った。
「兄上―――」
シールの前に立つセリドは今までになく厳しい表情をしていた。
「何があったのです、賊に襲われたのですか?!」
乾いた血が何処から溢れ出た物かをシールは気にした。
「私の血です。彼女を傷つけたのも私です。」
そう言ってセリドはシールにセラを押しつけると立ち去ろうとする。
「どういう事ですか?」
シールはセラの顔を見ながら質問したが、セリドは何も語らない。
セラは蒼白で顔中が血に染まっている。マントの隙間からのぞく肌や衣服にも乾いた血が纏わり付いていた。
「医師を二人、一人はセリドへ。それと騎士団長をセリドのもとに寄こして下さい。」
今すぐセリドを追うべきだったが、血まみれのセラを抱えたままではどうしようもない。
セリドの発した言葉に懸念を持ちながらもシールは指示を出し、自分はセラを運んでから状況を把握する事にした。
セラを寝台に横たえマントを剥ぎ取ると、上半身は想像以上の血に塗れていた。
身に付けているのは薄衣一枚でこの季節に相応しい姿ではなかったし、衣服は血と泥にまみれ破れた個所も見受けられる。
怪訝に思いながら熱い湯で血を拭ってやると、首筋に出来た赤い花弁の様な痣に目が止まった。
最初は血がこびり付いて取れないのだと思い幾度か拭ううち、それが吸引痕である事に気が付く。
「セリドが―――?」
まさかと言う思いにシールは血の気が引いた。
セリドの血…セラを傷つけた?
唖然としていると扉が叩かれ、侍女に伴われた初老の医師が入室して来る。
医師は血にまみれたセラに一瞬目を見開いて息を呑んだ。
シールは血を拭う役目を侍女に開け渡し、医師の腕を引いて耳打ちする。
「見えぬ場所に傷が無いか調べて欲しい。」
「―――何処までお調べしてよろしいのでしょうか?」
「全てです。だが純潔は疑わずともよい。」
医師が頷き頭を下げると、シールは部屋を出てセリドの元へと向かって行った。
シールがセリドの部屋の前で来ると同時にウェインが駆け付ける。
来るのが遅いと思ったが、ウェインは汗と泥にまみれたまま急ぎ駆けつけた様子が伺え、この時になり騎士団が演習に出ていた事を思い出す。
暇さえあれば常にセラの側にいるウェインなのに、どうりで先程は見かけなかった訳だ。
大事な時にと思うがこればかりは言っても仕方がない。
「何があった?」
「まだ解りません。」
ウェインは血まみれで帰って来たというセリドの心配をするが、シールには説明できる材料がなかった。
セリドは厳しい顔つきのまま医師の手当てを受けていた。
左手に負った傷は深く親指を除く四本の指と掌がぱっくりと開いており、全てが慎重に縫い合わされる。針が肌を指すと痛みが走る様で、その度にセリドの顔が歪んでいた。
「剣の傷だな。」
手元を覗き込んだウェインが呟く。
「刃を掴んだのか?」
肯定の意味なのか、セリドはウェインから顔を背けた。
初めて見せるセリドの反抗的(?)態度に何事かとウェインがシールに視線を送ると、シールも厳しい表情でセリドを見据えている。
取り合えずウェインは成り行きを見守る事にし、空いた椅子に腰を下ろした。
手当てを終えた医師が部屋を出ると、シールは大きく息を吐いてからセリドに歩み寄り立ったまま視線を突き付ける。
日頃落ち着いているシールにしては怒りを露わにした珍しい態度だったがそれもその筈。血にまみれた二人にセリドの言葉、セラの首筋にある吸引痕…セリドがセラを襲ったのだとしたら腹立たしい限りだが、では何故セリドはこんな怪我を負っているのだろう?
日頃のセリドからは考えられない状況だった。
「何があったのです?」
この質問は三度目だったがセリドは答えない。意地を張りだしたら止まらない子供なのだ。
予想はしていたものの、セラに直接聞くには忍びなくシールは溜息をついた。
「では質問を変えます。」
シールは思案しながらも意を決し言葉を口にする。
「セラ殿を凌辱したのですか?」
その言葉にセリドはびくりと反応し、同時に椅子の倒れる音が部屋にけたたましく響く。
シールが音の方を見やると、青い眼を見開いたウェインが椅子を蹴倒し立ち上がっていた。
「セラが…何だって?!」
この件にセラが巻き込まれている話など聞いてはいなかったウェインは、シールの言葉に驚愕する。
シールはウェインを無視し、セリドに視線を戻した。
セリドは俯き眉間に皺を寄せ口を噤んでいる。
「どうなのです?」
応える意思は伺えず無言のままだ。
優しく詰問する方法もあるが、不完全な状態のセラがあのような形で戻って来たのを思うとシールはセリドにお灸を据えたくなる。
「応えないのであれば致し方ない。どの道調べさせている最中ですから間もなく結果は出ます。」
「兄上?!」
「シール貴様っ!」
セリドは立ち上がり、ウェインはシールの胸倉を掴む。
「お前にそんな権利があるのか?!」
凌辱を知る検査は心身共に苦痛を伴わせる、特に出産経験のない婦女子には屈辱しか与えない方法が用いられる。その方法を知るウェインもだが、口を噤んでいたセリドも真っ青になってシールに飛びついた。
「兄上お願いです、止めさせて下さい!」
セリドの言葉にシールは目を細めた。
「どうなのです?」
再び同じ質問を受け、セリドは力なく腰を下ろすと俯き苦しそうに言葉を発する。
「同じようなものです―――」
曖昧な返答にシールは眉を顰めたが、ウェインは肯定と取ってしまったようだ。
「セリドお前―――っ」
立ち尽したウェインだったが、はっと我に返るとセラの部屋に走ろうとする。
ちょうどその時セリドの部屋の扉がけたたましく叩かれ、侍女の叫びが届いた。
「シール様お助け下さい、セラ様が大変なのです!」
侍女の緊迫した声に近くにいたウェインが扉を開く。
「セラがどうした?!」
「ひっ…!」
恐ろしく引き攣らせたウェインの形相に、侍女は悲鳴を上げ身体を強張らせる。シールはそんな侍女とウェインの間に割り込むように体を滑らせ、何があったのかと問い正した。
「セラ様が目をお覚ましになられたのですが暴れて手がつけられないのです!そうですわ、ウェイン様に来て頂いた方がいいかもしれませんっ…ああでもッ…丁度衣服を脱がせてしまった所でしたので殿方は…ああどう致しましょう!」
状況を説明する侍女は言葉を発しながらますます混乱して行く。
侍女の言葉を耳にして立ち尽くしたセリドに部屋から出ないように言い付けると、シールは先に飛び出して行ったウェインを追った。
セラは何かが身体を這う感触で目を覚ました。
温かいものが身体に触れる。
気を失う前に感じていたセリドの血とは異なる温もりと感触を受け、セラの覚醒は一気に進む。
「お目覚めでございますか?」
優しく微笑む女性の顔が目に入った。
女性の手には血に染まった布が持たれている。
血を拭われているのだと理解した時、更に身体に触れる別の物の存在を感じてセラは視線を身体に向けた。
血と泥にまみれた衣は使い物にならないので、真ん中からハサミで切り裂き脱がせやすい様に処理されていたのだが、セラの目に映ったのはそんな物ではない。
初老の男が露わにされた身体に触れ如何わしい事をしようとしている―――!
「いやぁぁっ!!」
セラは飛び起きると同時に男の鳩尾に蹴りを食らわした。
傍らにいる女性の存在などすっかり頭から離れ、その瞳に映るのは鳩尾を抑えて床に座り込み咳き込む男の姿のみ。
セラは枕片手に寝台から転げ落ちると男を力任せに叩きまくった。
枕の縫い目が破れ、羽毛が飛び散る。
「セラ様っ、おやめ下さいっ!」
女の叫びもセラの耳には全く届かない。
「何するのよ変態っ、女の敵っ!」
「いえ私はっ…私は決して…い…」
自分が医者なのだと訴えるがセラの攻撃を受け言葉にならない。
悪態を吐き必死の形相で男に枕を投げつけ暴れるセラに危機感を覚えた侍女は、慌ててシールを呼びに部屋を出て行った。
侍女に呼ばれ駆けつけたウェインとシールは、部屋中を舞う白い羽毛に一瞬目を奪われる。
そこには舞い散る羽毛の中で疲れ果て佇む初老の医師と―――寝台の上で頭からシーツに包まり身体を震わせるセラ、そしてそのセラを抱き寄せるカオスの姿があった。
「男の医師に身体を調べさせるからこうなるのだ。」
カオスは状況から経緯を察していた。
「お前にしては失態であったな。」
カオスはシールに向かって言い放ち、その言葉にシールは過去の出来事を思いだした。
セラがレバノの封印から姿を現し城に連れて来られた時はボロボロの状態だった。それをカオスは女性の医師を指定しセラの身体の傷を調べさせたのだ。単なる気遣いかとも思われるが、その後風呂で倒れたセラを助けたシールは裸を見たのかと責められ、殴られるという痛い目に合っていた。
診察の途中に目覚められたらこうなるからか―――今更ながら納得し、疲れた表情で佇む医師に申し訳ない気持になる。
「他の医師を用意させます。」
シールの言葉に黙って立っていた医師がそれを引き止めた。
「その必要はございません。一見した所背中より臀部に打ち身の痕が御座いますが、後は手足の擦り傷のみ。血痕はセラ殿の血液では御座いませんし、あれだけの俊敏な動きが出来るのですからもう大丈夫でしょう。」
豪快な動き…それ程に暴れまわったのだろうかと、医師の言葉にシールは俯いた。
「他には?!」
セラを調べた結果を報告した医師に向かってウェインが食い付いた。
「は?」
他にと言われて医師は首を傾げる。
「他に宰相から申しつかった事はなかったか?」
「はぁ…見えぬ場所の傷は打ち身だけでございましたが?」
「…そうか。」
ほっとして答えるウェインに医師は首を傾げるが、思わぬ攻撃を受け疲れ果てていたので早々に退出する。
「あれはセリドへの灸です。」
シールが耳打ちすると、ウェインは顔を赤くし憤慨する。
「お前―――!」
「私がセラ殿をこれ以上傷つける様な真似をする訳がないでしょう。騎士団長たる者があの程度の駆け引き、見抜けなくてどうするのです。」
冷たく一瞥を添えるシールにまんまとやられたウェインは更に顔を赤くして怒りに火が付くが、カオスの一言で我に返った。
「これまでの状況を報告いたせ。」
ウェインがシールから身を引き距離を取ると、シールはカオスに向き直る。
「セリドが意識の無いセラ殿を森から連れ帰って来たのですが、その時の二人は共に血に塗れておりました。セラ殿に外傷がない様ですので、恐らく全ての血はセリドの物だと思われます。セリドは左掌に剣を握り締め出来たとみられる深い傷がありますが縫合は済ませております。セリドが何も話そうとしないのではっきりした事は分かりませんが、推察するあたり賊などではなく…セリドとセラ殿、二人の間で何かがあったのでしょう。」
報告を受けカオスは一瞬考え込むと、頭からすっぽりとシーツにくるまれたセラを覗き込んだ。
シーツの間からセラの顔が僅かに覗いている。
「何があったか話せるか?」
カオスの問いにセラがこくりと頷くと頭にかぶっていたシーツがずり落ち、土に汚れ乱れた金の髪が露わになる。
「わたしが悪いの…わたしがセリドを怒らせて傷つけたの―――」
それだけ言うとセラはカオスの胸に顔を押し付けすすり泣き出した。
セラがすすり泣いて小刻みに身体が揺れる度、巻き付けたシーツがずり落ちて白い肩が剥き出しになる。カオスはそれを引き揚げ肌を隠してやりながらセラの肩を掴んで顔を覗き込む。
涙を拭う腕の隙間から見え隠れする首筋の斑紋にカオスが目を止めた。
「セリドにやられたか―――」
カオスの指がセラの首筋をなぞる。
「何?」
充血した目を向け首を傾げたセラに、カオスは笑って首を振った。
「やっと、泣けるようになったのだな。」
カオスは涙をすくい取る様にセラの頬を撫でた。
「セリドのお陰よ。でも…代わりにセリドが―――」
そこまで言うとセラの瞳から大粒の涙が零れ出す。
「わたしのせいでセリドが―――」
「セリドは大丈夫だ。だが、何があったのか話してはくれぬか。でなければセリドを罰せねばならなくなるやもしれん。」
カオスの言葉にセラは何故と言う疑問の瞳を向けた。
「セリドが王太子としての自覚に欠けた振る舞いをしたのであれば当然の事だ。」
王太子として―――
次代の王となるべきセリドはその役目に縛られる。王となるに相応しい威厳と力、そして心を持っていなければ、どんなに有能な家臣を従えていようとイクサーンの繁栄は望めない。
「違う―――」
セリドのせいではないとセラは頭をふった。
「わたし…生きなきゃって思ってた。ラインハルトの言葉を守って生きて行かなきゃって、そればかり考えてた。だけど…本当は死にたかった―――わたし、死ぬために森にいたの。」
前に向かって生きて行こうと決心しながら、心の見えぬ場所では常に死を意識していた。全てに対しての恐れと恐怖を失くし、その身に不幸が降り注ぐ事を願っていたのだ。
セリドに死にたいのかと問われ、セラは初めて深層心理に気付かされた。
「セリドすごく怒ってた。生きる事をあきらめた目をしてるって、酷く怒って剣を抜いたの。そしてその剣で自分を傷つけて―――熱い…血が…」
熱い血がセラに纏わり付いた。
生きている証の熱い真っ赤な血。
綺麗に拭われた血が再び現れ両手から溢れだすような錯覚を覚え、セラは嗚咽を漏らす。
カオスはセラを抱きしめ幾度となく頭を撫でつけた。
泣き付くセラを抱えたカオスは何処となく満足気だ。
意外な事ではあったが、セリドの荒治療がセラに効果をもたらしたようだ。ラインハルトを失った事でセラに付き纏う死の影を消去するにはもっと時間が必要だろうと予想していただけに、カオスは自分の役目が終わった様な、少し寂しい感覚すら覚えた。
数十年前、戦火の帝都で出会った娘。
人を引き付ける青い瞳と、強力な魔力を持つ赤い瞳。
異端だというだけではなく、その瞳の力に意味も分からず無意識のまま恐怖する者たちから迫害を受けた娘は、この地で新たな時間を歩み出そうとしている。
この先カオスが見守ってやれる時間はそう長いものではないだろう。しかしセラを残して世を去る時、恐らくカオスは何の心配もなく去れるのではないかと思った。
ここにはセラを思い、全力でぶつかってくれる存在がある。
カオスの息子達は自分らの意思でセラを想い、それぞれの持てる力で守ろうと尽くしていた。
嗚咽交じりに泣いていたセラが泣きやんだかと思うと、涙で汚れた顔を上げた。
「セリドは何処?」
カオスはシールに視線を移し、セラもそれに釣られてシールに顔を向けた。
「自室にいる筈ですが…」
出るなと言いおいたし、あの状況では大人しく反省しているだろうと思われる。
「会いに行ってもいい?」
「それは構わぬが―――」
カオスの返答を最後まで聞かずにセラはその手から抜け出し、寝台から飛び降りた。
「ちょっと待て!」
走り去ろうとするセラをウェインが呼び止める。
「お前その格好で行くつもりか?」
セラはシーツに包まれ、頭と足の先だけが外に出た状態だ。その中は恐らく全裸であろうとウェインは推察した。
セラは自分の姿を確認し、眉を顰める。
「…いけない?」
身体はきちんと隠れているし、別に外を歩き回る訳ではないのだから―――と、セラはここが城だという意識を完全に失っていた。
「いい訳ないだろう―――」
ウェインは呆れて額に手をあて、シールは大きな溜息を落とす。
「だって服がないし―――」
「服なら用意させていますよ。」
シールは寝台の隅に置かれたままの真新しい衣服を指差す。
本来ならセラが目を覚ます前に着せられていた筈の物服だった。
「わかった、着替えるよ。」
面倒臭そうに言い放つセラに呆れつつも、ここにいる三人共が突然舞い戻って来た本来のセラに温かい眼差しを向けていた。
心配だからとついて来たシールとウェインに、セラはセリドと二人で話がしたいのだと願い外してもらい、セリドの部屋の前に立ち一度大きく息を吐いてから扉を叩いた。
中から返事はない。
扉に耳をあてても物音がしないので、そっと扉を開いて中に入ってみるとそこにはセリドの姿はなかった。
初夏に城を出るまではここでセラもセリドと共にハウルの講義を受けていた。
かなり久し振りに訪れたセリドの部屋は何も変わってはいなかったが、時間の経過が何処となくセラに疎外感をもたらす。
「セリド?」
呼びかけてみるが返事はなく、セラは寝室へ続く扉に手をかけ開き中を覗いてみるが、暗い部屋にもセリドの姿はない。
「おかしいな…」
ぽつりと呟き扉を閉めようとした時、バルコニーへと続く窓のカーテンが揺れている事に気付く。
寝室に足を踏み入れるとひんやりと冷たい空気が漂い、引かれたカーテンの向こうでは窓が開いたままになっているのだと分かった。
カーテンに手をかけそっと開くと、こちらに背を向けバルコニーに立つセリドの後ろ姿が目に入りセラは安堵の息を漏らした。
その漏らした息に反応したセリドが振り返り、セラを認め驚き目を開いて硬直する。
まさかセラがここを訪ねて来るとは思ってもいなかった。
怒りに我を忘れていたとは言え、セリドは自分がセラにしてしまった事に対する後悔の念で一杯になり、己を悔い恥じていた。
ラインハルトを失った心の傷から回復に向かっているのだとばかり思っていた矢先、無意識の場所ではセラが死にたがっているのだと知って、置いて行かれる恐怖に身を震わせ怒りに火が付いてしまった。
怒りに任せセラに悪態をつき罵倒し、脅えさせ傷つけた。
涙を流しながら詫びるセラの口を塞ぎ、気が付いたら己の欲望で支配しようと手を出してしまっていた。抵抗を止めたセラから溢れ出る涙に気付き、やっと我に返った時にはセラは気を失っていたのだ。
見下ろしたセラは血に塗れ、力無くぐったりと冷たい身体をセリドの下に横たえていた。セリドの触れた場所すべてに赤く艶やかな血が痕跡を残している。
愛しい人をその手で傷つけてしまった現実に、セリドは暫くその場から動けなかった。
二度と許してはくれないだろう…いや、許してもらう資格など無い。
セリドはいかなる罰をも受けるつもりで、シールの問いにも決して答えようとはしなかった。
弁解の余地などない。
凌辱したのかと聞かれた時にはさすがにセラの純潔を証明したいと口を開きかけた。だがここでセリドが否定しなくてもいずれはセラの口から事実が明らかにされるだろう。未遂に済んだとは言え、それに等しい事をしてしまったのも事実。ならば事実の証明が成されるまでその責めを負いたいとセリドは思ったのだ。
自分がしてしまった事の罪は消えないが、セラの傷が一日も早く癒えてくれる事を願い夜空を見上げていた。
そんな時、人の気配に振り返るとそこにはセラの姿があった。
「セリド―――」
セラが名を呼び歩み寄ると、セリドは恐れるように手摺にすり寄る。
セリドの苦痛に満ちた表情に、セラはこれ以上近付いてはいけないのだと悟り胸が痛んだ。
冷たい夜の空気の中で二人に静寂が訪れる。
セラはセリドから一定の距離を保ちつつ、バルコニーに足を踏み入れ手摺のある場所まで出て行った。
昼間降り注いでいた雪はすっかり止んで、空には星が瞬いていた。
白い吐息が闇に溶ける。
セラは遠くを見たまま口を開いた。
「ごめんなさい―――」
その言葉にセリドはぎゅっと瞼を閉じた。
何故セラが謝る―――
非は全て自分にあると言うのに何故セラが謝るのだとセリドの心はざわついた。
「ごめんね、セリド王子。」
「何故お前が謝る!」
思わず声を荒げてしまったが、セラは怯える所か小さく微笑んだ。
「何故そのような顔が出来る…私はお前を傷つけたのだぞ!?」
あれ程に深く傷つけたというのに―――!
分かっているのかとセリドは詰め寄った。
「違う、傷ついたのはセリドだよ。」
セラは身体ごと向き直りセリドを見上げた。
「セリドは死にたがっていたわたしに気付いて呼び戻してくれた。確かにその行為は怖かったけどその恐怖が…セリドから溢れる熱い血が、わたしに生きているって事が何なのか教えてくれたの。」
肌に染み込むように流れた鮮血。セリドの命を奪って行くように溢れた血が、命の重さを強調していた。
死んで残るのは冷たい屍だけ…生きていたいと願う生命の本能が呼び起こされる気がした。
あの時、瞼を閉じて見えたのはセリド。
ラインハルトではない…セリドの姿だ。
囚われ流される事だけが愛の全てではない。想っているからこそ、繋いで行かなければならない物がある。
「セリドはそれを分からせる為に身体も心もぶつけて来てくれた。でもそのせいでセリドの心が深く傷を負ってしまったんだってあの時気が付いたの。」
身体に纏わり付いたセリドの怒り。それが失われていたセラの感情を呼び起こした。
「触れられて流れ込んで来たセリドの怒りが…優しさが…全てわたしのせいで起きている事だと感じた。死にたがっているわたしに気付いたセリドの怒りは、同時に深い悲しみになって溢れてた―――」
セラはセリドの前に立ち、緑の瞳を覗き込む。
手を伸ばせば触れる事の叶う距離だった。
「死にたければ言えっていったわね、共に行ってやるって。」
セラが戸惑いがちに手を伸ばすと、セリドも今度は逃げなかった。
「この言葉に偽りがないのなら共に生きて―――わたしと。」
セラの手がセリドの頬を包み込む。
氷の様に冷たかった手は、今は温もりに満ちていた。
セリドの瞳に涙が溢れ、その一粒が頬を伝いセラの手に馴染む。
「あなたの涙は本当に綺麗―――」
そう言ってほほ笑むセラがあまりにも眩くて、セリドは俯きそのまま崩れ落ちるように膝を付いた。
セリドが口を開いたのは、それからかなりの時間が流れてからだった。
剣を握りしめ傷ついた手には分厚い包帯が巻かれている。
それを見たセラが魔法の力で治癒しようとした時、セリドはそれを拒否しセラを止めた。
「これは自分への戒めだ。これ以上の痛みをセラに与えたのだから、私にもせめてこの位の責めは負わせてくれ。」
かなり深い傷だと言うのは出血の量と触れた感じでセラには分かった。
だがセリドがあまりにも穏やかに言うのでそれ以上は口を開かず、セラは深く頷き優しく微笑んだ。