命尽きる時
ラインハルトが病に倒れたという知らせを聞かされたセラは全身から血の気が引いたが、そこで倒れる様な事はなかった。
知らせと同時に準備されていた馬に飛び乗ると、一気にウィラーンを目指して出発する。
セラの傍らには前回同様ウェインが同行していた。
どんなに急いでも最低十日はかかってしまう。
道中必要最低限の事しか話さず二人は終始無言でウィラーンを目指し、ウィラーンの都のキエフリトに到着するまでウェインは凍りついた表情のままのセラを痛む心で見守り続けた。
キエフリトにはセラの到着を待つ騎士の姿があった。
騎士に先導され城に到着すると、セラは逸る気持ちが抑えられず馬を乗り捨てなりふり構わず一気にラインハルト目指して突き進んで行く。
周囲の物など何一つ目に留まる事はない。
ただ思うのはラインハルトの事。
爆発した様に押さえていた気持ちが溢れ出し、セラの全てをラインハルトが拘束していた。
金の髪を振り乱して走り抜けるセラを引き止める者はなく、セラはラインハルトの私室の扉を開け放ち、更に寝室まで二枚の扉を勢いに任せ開いた。
見覚えのある寝台の上に大きな体が横たわっている。
一年振りに再会したラインハルトの顔は土気色で、瞼は硬く閉じられていた。
側に控える医師らの姿など一切目に入りはしない。
セラはラインハルトの姿に息を呑むと、ゆっくりと歩み寄り膝を付いた。
眠っている―――?
僅かに上下する胸に眠っているのだと分かると、セラはほっと息を付く。
セラは両手でラインハルトの頬を包み込むと、力ない笑顔を向ける。
右の赤い瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
「ラインハルト―――」
目を開けて―――
囁くように愛しい人の名を溢す。
「何が起こった?」
追い付いたウェインが側にいたウィラーンの第一王子、ランカーシアンに問う。
突然舞い込んできたセラの姿に驚き言葉を失っていたランカーシアンは、声の主に頭の先から足の先まで視線を潜らせ、それが一年前に見知ったウィラーンの王子…ウェインである事にやっと気が付く。
王の寝室には医師とランカーシアン、そしてマクシミリアンの姿もあったが、早馬を寄こした宰相レラフォルトの姿はない。それでウェインは話の通じる見知った第一王子に声をかけたのだ。
ランカーシアンは目で合図し、寝室から居間に場所を移す。
「もともと心の臓を患っておられたらしい。」
ため息交じりに告げるランカーシアンの目が複雑に揺れていた。
ラインハルトの病は今に始まった事ではなく、アスギルとの戦いの後発症だった。
アスギルと言う魔法使いの力は強大すぎて、直接戦いを交えたラインハルトに限らず、カオスやフィルネスさえもその影響で身体を蝕まれている。今の所はまだ分からないが、セラとて例外ではないだろう。
カオスは剣を握れなくなるという、目に見える部分を侵された。
対してラインハルトは身体の内側に影響を受け、長年にわたりその命を削り取られ続けていたのだ。
しかしラインハルトはそれを表だって露見させるよな事は結してしなかった。ウィラーンの王として国の確固たる地位を守り抜くべく突き進み、病をひた隠しにして来たのだと言う。
知っていたのはラインハルトに長年付き添って来た宰相のレラフォルトのみ。
ウェインは閉じられた扉の向こうで心を潰しているセラを思う。
「病状は?」
ランカーシアンは首を横に振る。
「―――よく今日まで持ったという所らしい」
ラインハルトを失うのはウィラーンにとっては大きな痛手だ。
だがここにきて大きな切り札となり兼ねないモノがウィラーンに飛び込んできたと、ランカーシアンは鋭い視線を扉の向こうに走らせ、ウェインはランカーシアンの思惑に気付く。
「セラは必ずイクサーンに連れ帰る。」
ウェインの言葉にランカーシアンは口の端に僅かな笑みを浮かべた。
その時扉が開かれ、イクサーンに使者を寄こしたレラフォルトが緊迫した表情で姿を現し、ウェインを目に止め飛びついて来た。
「セラ…セラ様はおいでになられたのでありましょうな?!」
レラフォルトはセラの持つ力に期待していた。
恐らく彼も知っているであろう―――魔法では寿命を延命する事は叶わないと。
それでも、セラに奇跡を求めイクサーンへ使者を送ったのだ。
老いた宰相はウェインの返事を待つ事なく、身体を震わせながらラインハルトの眠る寝室へと足を運ぶ。
セラはラインハルトの名を呼び続けていた。
不安で胸が押しつぶされながらも、ただひたすら優しく、愛しい人の名を呼ぶ。
ラインハルトに触れた時、これが長い患いの病である事が分かった。
一年前に腕に抱かれた時は気付きもしなかったというのに、臥した姿を目の当たりにして初めてラインハルトが病に蝕まれ、既に命が尽きかけているのだと知ったのだ。
意識しなかったのも原因だったが、それ程に強い精神力でラインハルトはセラだけではなく周囲に接し、ひた隠しにして来た。
全てはウィラーンと言う、ラインハルトが守り抜く運命を背負った王国の為。
どう足掻いても共に歩めなかったセラの為にも隠したかった事だ。
だが運命とは残酷なものだ。
ラインハルトの望み通りセラがイクサーンで新たな歩みを始めた途端、出足を挫かせてしまう事になろうとは―――
こうなる前にラインハルトは、セラに新しい人生を歩ませたいと願い続けていたと言うのに。
「セラ様…どうか…何卒貴方のお力で陛下をお救い下さいませ―――!」
レラフォルトの擦れた声がセラに襲いかかる。
何も、何もできないのだ。
痛みや苦しさを取り払う事は容易く幾らでも出来ると言うのに、定められた人の命を繋ぎとめる事は結して叶わない。
己の力の無さに、セラは小さくゆっくりと頭を振った。
(神様お願い、ラインハルトを連れて行かないで―――!)
何があっても神に祈った事などない。神が存在するのかも知らないが、とにかくラインハルトを助けてくれるのなら悪魔にでも魂は売れる―――!
その時ラインハルトの瞼が揺れ、漆黒の瞳がゆっくりと開かれた。
「陛下っ!」
声が上がり、マクシミリアンがレラフォルトを押しのけ身を乗り出し覗き込む。
ラインハルトの漆黒の瞳に映っていたのは他の誰でもない、セラただ一人の姿。
穏やかで優しい、初めて見たラインハルトの微笑みに、マクシミリアンは言葉を失って後ずさる。
この王は、セラと言うただ一人の娘だけのものだ―――
王でも父でもなく、今はセラだけの為に瞼を開いた。
「セラ―――」
力なく動いた手をセラは握り締め、そっと自分の頬に持っていく。
冷たく大きな手。
獰猛に剣をふるったその手には、既に何かを握りしめる力は残されていなかった。
「ラインハルト」
力なく笑うセラの頬を涙が伝う。
「泣いてくれるな。我は…花の様に笑うお前に心奪われたのだ」
暗雲立ち込める殺伐とした世界で、たった一つの花に心を奪われた。
何人たりとも結して心に入り込む隙を与えなかったラインハルトが、その人生において唯一受け入れた娘。
真っ直ぐで純粋な瞳に恐れをなした。
何物も恐れぬラインハルトが、ちっぽけな一人の娘に心を捕えられる事に恐怖し慄いたのだ。
残虐で人の心などとっくの昔に失っていたラインハルトに、唯一恐怖と愛を与えた娘。
それなのに―――
ラインハルトは最後の最後で悲しみしか残してやれない事が口惜しかった。
自分がこの世を去った時、セラがどれ程辛い思いをするか―――大切なものを一度失ったラインハルトにはその悲しみが手に取るように分かった。
あの時のラインハルトには、ウィラーンと言う国を背負う運命があった。
セラは―――イクサーンで守るべきものを見付けてくれたのだろうか―――
止めどなく流れ落ちる涙がラインハルトの手を伝うが、その感触はもう伝わる事がない。
「笑ってくれ―――」
ラインハルトの言葉にセラは震える顔をほころばせ、その手に頬を擦り寄せる。
「行かないで―――」
切ない願いの言葉が囁かれた。
長い時間の中で共に過ごせたのはほんの僅かな一瞬だったかもしれない。
それでもラインハルトにとっては永遠の、至福の時間だった。
「我は生きた。そなたも生きよ―――」
「ラインハルト?」
頬に寄せたラインハルトの腕が重くなり、瞼が閉じられた。
永遠に―――
「陛下―――!?」
レラフォルトの叫びに、医師がラインハルトの手を取り脈を測る。
そこに触れる物は何もなかった。
マクシミリアンは蒼白な顔のまま無言で立ち尽くし、ランカーシアンは眉を顰めて唇を噛む。あまりに強く噛み過ぎて口内には血の味が廻った。
その様子を冷静に見つめるウェインは、微動だにしない小さな背中に視線を留める。
今はかける言葉など何もない。
沈痛な面持ちでセラの背に視線を向けていたウェインはその異変に気が付く。
セラの身体の周りで陽炎の様に空気が揺れ、微かな青白い光が溢れ出していた。
同時に、黒い人影が視界を遮り声を上げる。
「逃げろっ―――!」
影は叫んだかと思うと茫然自失状態のセラに纏わり付いた。
「フィルネス?」
ウェインは呟くと同時に後ろへと飛ばされる。
強烈な爆風に似た風に吹き飛ばされたのだ。
だがその風は一瞬で止み、ウェインが目を開けると辺りには物が散乱し、他の者たちも皆吹き飛ばされ床に伏している。
そして―――
目の前には巨大な球体が存在していた。
その球体の中では弾ける光が嵐の様に渦巻き、虚ろな目をして這い蹲るセラをフィルネスが背後から腕を伸ばし、きつく抱き締めていた。
セラの金の髪とフィルネスの漆黒の髪が舞って絡み合い、フィルネスは苦痛の表情を浮かべている。
「結界?」
ウェインが呟き、誰もがその結界の中で起きている事に信じられない物を見るように目を向けている。
マクシミリアンはその光景を身をもって体験した事があったが、あの時のそれは一瞬の出来事。
今目の前で起きているのは、魔法を知る者も知らない者をも恐怖に陥れかねない力の放射だった。
力の暴発―――
セラの悲しみ、絶望がその強大な力を暴発させていた。
彼らが生きているのは、突然姿を現したフィルネスが結界を作り食い止めていてくれるお陰だ。フィルネスが結界を張り力を押し籠めていなければ、今頃ウィラーンの城は跡かたもなく消し飛んでいたであろう。
その様に、セラを手中にせんと目論んだランカーシアンは身震いした。
手に置くには―――あまりにも危険で…惜しい力だ。
セラはフィルネスの作り出した結界の中で力を使い果たした後、耳元で何かを囁かれ、その手の中に崩れ落ちた。
セラが崩れ落ちるとフィルネスは心底疲れ果てた様に肩を落とし、セラを抱えたままがっくりと床に座り込む。
「ったく…世話の焼けるっ」
フィルネスの悪態が事の終わりを告げた。