戸惑い
微妙な空気を一新するため、シールはセラを外に誘った。
先程殴られ被害にあったのはシールの方だと言うのに、何ともタイミング悪く現れた侍女の目にはその反対に映ったであろう…いや、間違いなくシールがセラを組み敷いていると映ったはずである。
女の口は恐ろしい。明日になれば尾びれ背びれと言わず尻尾や角まで付いて噂は広がっているだろう。
噂などどうでもいいが全く割に合わないと、シールは殴られた左頬をさすった。
「痛い?」
薄暗い廊下を進みながらセラが頭一つ分背の高いシールを申し訳なさそうに見上げる。
「いえ、もう大丈夫ですよ。」
すぐに冷やしたので腫れる事はないだろうが跡には残るかもしれない。
あの後シールの釈明を理解したセラが非常に恐縮し魔法で痛みを消そうとしたのだが、何故かセラは全く魔法が使えなくなっていた。アスギルとの戦いで全ての魔法力を使い果たしたらしい。
それにしても寝て食べたのに魔法が回復しないなんてとセラは漏らしたが、こちらの都合として今はセラに魔法が使えない方がいいのかもしれないとシールは感じていた。
見た目は幼さの残る少女とは言え、アスギルと戦いを交えた伝説の魔法使いだ。いったいどれ程の魔力を秘めているのか。それを容易く披露されては対処に困る。
「本っ当にごめんなさいね。」
「いいえ、私も悪かったのですからどうぞお気になさらず。」
それにしても拳を作りグーで殴りかかる娘がいるとは思いもしなかった。さすがは男三人と旅をし闇の魔法使いと戦っただけはある。少々理解に苦しむ所があるのも仕方がないのかもしれない。
シールがそんな事を思っているなど露知らず、セラは視線の先に見えた外へと小走りに向かって行った。
薄暗い廊下から一転、午後の日差しが照りつける。
セラにとっては昨日と変わらない初夏の日差し。
しかし、目の前に広がる景色は昨日までとはまったく違っていた。
世界一面が緑に覆われ、色取り取りの花が競い合う様に咲き乱れている。真っ青な空には鳥が飛び交い、美しい花々には虫達が忙しなく往来しているのだ。
今のセラは魔法が使えないし武器も持たない。それなのに危機感を抱かないのは、ここが安全だと言う気配を無意識に肌で感じているせいだろうか。
昨日までいた世界は、人が集う場所には人肉を求めて魔物が集まって来た。森に入れば気配を消す為に結界を張り巡らせ、魔物から身を守ると同時に無駄な戦闘による体力の消耗を防いだ。そんな旅を二年近くも続けて来たと言うのに。
今突然、ほんの一瞬でそんな心配はいらなくなってしまったのだ。
いいことだ、それは。セラが心から望んだ世界がここにあると言うのに…。
視線を遠くレバノ山に向けると心が騒ぐ。
たった一人、時間において行かれた―――
優しい空気がそう実感させてやまない。
「セラ殿?」
レバノ山を見つめたまま動かないセラにシールが声をかける。
「わたし、この世界で生きていけるのかしら―――」
不安が募った。
「大丈夫ですよ。私も力になりますし、そもそも陛下がついておいでです。」
シールの言葉にセラがそうねと答えた時、その後方から人の気配が近付いて来るのを感じてセラはゆっくりと振り返った。
目に留まったのは大きな人影。
白い布地に金糸で模様作られた衣服は騎士の姿で、左腰には剣を帯びている。銀色の髪を後ろに束ねたその人は端正な顔立ちの青年。
「ウェイン」
「カオス―――!」
同時に名を呼び、セラは息を呑んだ。
今目の前にいるのは昨日まで一緒にいたカオスその人だ。でも、そんなのあり得ない。二十五年経ったのだと、周囲が…状況がそれを肯定させていた。
全てが嘘だった?
幸せな世界は願望が生みだした夢?
冷たい汗が背を伝うのを感じる。
「俺はそれほど陛下に似ているか?」
男が目の前に立ち、真っ直ぐにセラを見下ろした。
真っ青な―――吸い込まれてしまいそうになるほどに青い…碧眼。
(違う…カオスじゃない―――!)
カオスの瞳は灰色だ、青ではない。でも、それにしても本当によく似ている。
呆然と立ち尽くすセラに男が手を伸ばすと、太くごつごつとした指でセラの細い顎を捕え顔を上に向かせた。
「青と、血のような赤…異質だな。」
セラの左右異なる瞳の色。
異質…と言われて当然、こんな瞳の組み合わせの人間は滅多にいない。そもそもセラ意外に存在するのかも不明だ。
「止めなさい、ウェイン!」
シールが窘めると男…ウェインはセラの顎から指を離した。
「例の娘か?」
「セラ殿です。」
シールはセラの背を優しく叩いてセラの意識をこちらに引き戻す。
「セラ殿、私の双子の弟でウェインです。」
「双子?!」
双子と言っても色々で、そっくりな者もあれば普通の兄弟にしか見えない双子もいる。
しかし…これはシールと双子と言うよりは、カオスと双子のように瓜二つではないか―――!
「ウェインと申します、どうぞお見知り置きを。」
右手を胸に当て腰を折って騎士の礼を取った。
心からではなく見せかけの礼に不快感を抱く間もない。かき乱される心を押さえるのに一苦労だった。
「―――こちらこそ、セラです。」
セラも両手を腰の高さに合わせてお辞儀をする。
頭を上げると再びウェインがセラの顔を覗きこんでいた。
「お前生まれはどこだ?」
瞳の事を聞いているのだと分かる。
「ルー帝国の帝都だと思うけど…生まれて直ぐに帝都の孤児院に預けられたらしいからよくは分からない。」
父親と思われる男が大量の寄付金と共に、生まれて間もないセラを孤児院に連れて来たのだと言う。それから毎年孤児院には匿名で多額の寄付が送られてきていたが、アスギルが反旗を翻し皇帝を暗殺した年から寄付が止まったので、父親と思われた男もその犠牲になったのだろうと耳にしていた。
セラの生まれは裕福であったのかもしれないが、左右非対称の瞳の色をした不吉な娘は不要だったのだろう。
「だから特別な地方や人種でこんな風になる訳じゃないと思う。」
さらっと語る不幸だが、セラ本人は何とも思いはしなかった。
孤児が特別珍しいとも思わないし、初めから親がいなかったのでそれについての悲しみもない。セラの生きた時代は殺伐としたものなので、そもそも家族全てが揃っている人間などいなかったのではないだろうか。
「そうか…ではまたな。」
ウェインはそう告げるとわざとらしくセラの真横を横切った。
その瞬間、セラは無意識でウェインの腕を掴んでいた。
「何だ?」
セラは身を乗り出し穴が開きそうなほどウェインを見つめた。
「本当に…カオスじゃないんだね。」
寂しく呟くと、掴んだその手を離す。
「かの英雄に間違われるとは光栄だな。」
嫌味を含んで答えるウェインは再び歩みを進めた。
そして数歩歩んで思い出したかに振り返り、シールの赤くなった頬を指さす。
「女たちが騒いでいたぞ、原因はそれか。」
ふっ…と鼻で笑うと、ウェインは背を向けて二人の前から去って行った。