追いかけっこ
深夜の王城。
誰もが寝静まった城の一室…その扉が開かれ、黒いローブに身を包んだ見目麗しい人影が姿を現す。
目深に被ったフードを外すと、宝石のように光り輝く銀色の瞳が闇に光り、強烈な輝きを孕んだ眼差しが寝台に横たわる一人の娘に注がれた。
「よく眠っていやがるな」
象牙の肌に有り得ない程整った容姿は女性を連想させるが、艶のある唇から発せられる声色は明らかに男性の物。
男…フィルネスは久し振りに覗いた娘の幸せそうな寝顔に、結して人前では見せる事のない優しい笑みを漏らした。
余程いい夢でも見ているのだろう。
枕を抱きしめ眠るセラは、時折頬を緩めながら穏やかに胸を上下させる。
シーツを跳ね除け夜着は太ももの辺りまでずり上がっている。寝相の悪さはいつになっても変わらないようだ。
春を迎えたとはいえ夜は寒い。
こんな事で風邪をひく娘ではなかったが、それでもフィルネスは起こさないように夜着を治し、シーツをそっと身体にかけなおしてやる。
ふと、そこでフィルネスの動きが止まった。
セラが抱きしめる枕…細く白い腕の先。
ある筈の物がそこにはない。
美しい顔が一瞬で凍てつくが、深い感情はそこで押し止められた。
細く長い指がセラの手の甲を撫で、失われた薬指の場所で動きを止める。
暫くそのままの状態が続いたが、やがてフィルネスは腰を屈めると、ゆっくりとセラの顔へ自身の顔を近付け目を閉じた。
額と額が重なり合う。
フィルネスが念じるとその脳裏に、彼の知らないセラの過ごした時間の残像が怒涛の様に流れ込んで来た。
その残像がある場所に差し掛かり、フィルネスの眉がピクリと反応する。
「あの野郎―――簡単に殺しやがって―――!」
低い唸り声は殺気を孕み、絶世の美と言うに相応しいその姿には更なる輝きが増された。
怒りを帯びた銀の瞳が闇に光るがそれも一瞬の事。
再びセラに落とされた眼差しは慈愛に溢れ、まるで女神の如き微笑みで包み込む。
フィルネスはセラの頭を優しく撫で、親が子にする様にそのこめかみに優しく口付けを落とした。
だが、踵を返し背を向けたその目に宿るのは怒り。
殺気を孕んだ感情を押し殺す事なく、しかし無表情のままでフィルネスは闇に姿を消した。
本格的な春が訪れ、イクサーンは緑と花に溢れた台地に包まれる。
そして今日、ハウルの講義も剣の稽古も休みという完全自由な一日。セラはシールの許可を取り、レバノ山麓の森に一人出かけて行った。
明日はセリドの誕生日。
次代のイクサーン王たるセリドの為に明日の夜、リリスが盛大な宴を開くと言うので城の者達は目が回る程忙しい。セラが一日休みになったのはハウルとウェインもその世話で手が空かないからだ。その為、ウェインとシールの時の様に厨房に入りケーキを作る等と言う場所が、厨房にも、ましてセラの破壊的料理の腕を知った料理長にもセラに避ける時間がなく…仕方なく今回ケーキは取り止め。取り合えず意外に好評(?)だった『守りの石』をセリドにも贈る事にした。
森に入り目的の樹液を集め、前回同様丸めて形を作り魔力を送り込む。
出来上がった琥珀色の石は木漏れ日の中できらきらと輝いていた。
「我ながら力作!」
出来上がった石を陽にかざし自画自賛していると、突然背後から声をかけられた。
「こんな所で何をしているのだ?」
「うわっ?!」
驚き振り返るとそこにはセリドが立っており、セラは慌てて石を脇にあるポケットの中に隠した。
「何してんですかこんな所でっ!!」
思わず声が裏返り、セリドは不審そうに眉を顰めた。
「何を隠した?」
「まだ一人で抜け出したりしてるんですね…って、剣?」
セラは一歩ずつ近付いて来るセリドが帯剣している事に初めて気が付く。
そもそもセリドが剣を持っていた所など一度も見た事がなかったセラは、その意外性に目を見張った。
「ああ、訓練を終えた所だったからな…師はクレイバだ。」
セリドはセラもクレイバを知っているだろうと言う意思表示をする。
近衛騎士団長クレイバ。
常にカオスの傍らで主を守る、セラにとってはちょっと接し難い男性。
「苦手なのか?」
「そうじゃないけど…つい最近まで年下だった男の子が急に…あれだから。」
カオスに憧れ側にいるセラに嫉妬し、悪戯に髪をひっぱたり足をひっかけたりしていた少年。気持ちは解る、怒ってなどいない。自分に恐れを抱かずかかって来た少年は、どちらかと言えば好感を持てた。
それが突然カオスを守る近衛騎士団長なる雄々しい男性に成長してしまっているのだ。二十五年後のカオスに会った以上に衝撃を受けた。
「何でウェインに教わらないんですか?」
あれ程敬愛しているのだからウェインに教わればいいのにと思う。
「王子に剣を教えられるのは近衛騎士だけだからな。」
近衛騎士は王族を守る為に存在する選ばれた騎士達でその人数も決まっているし、近衛騎士になるには、騎士団で隊長以上または同等の力を築いたもの、かつその人柄も問われる。稽古には騎士団では許されない真剣も使用でき、いまセリドが腰に下げている剣も真剣だった。
「そうですか。でも何でこんな所に…クレイバもいるんですか?」
セラはきょろきょろと辺りを見回すが、やはりそれらしき人影はない。
「お前の後を追って来た。」
セリドが剣の稽古を終え城内を歩いていると、いやに上機嫌で森の方へ走って行くセラの姿をみつけた。セリドはそれを追って来たのだが森に入ると見失い、捜すのに手間取ってしまった。あきらめて城に戻ろうとした所に声が聞こえ、セラが手を陽射しにかざしている姿を目撃したのだ。
「わたしの…ですか?」
セラが嫌そうな顔を浮かべたのでセリドはムッとする。
「何だその顔は」
「だって…前に先生のお見舞いに行った時怒られましたよね?」
罰を受けたのはセラとマウリーだったがそれは表向きで、実際の罰はセリドに向けられた。
「今城内はそれ所ではないだろうから見つかりはせぬ。」
それよりも…と、セリドは緑の瞳でセラを覗き込んだ。
「さっきは何を隠した?」
誤魔化されはしないと瞳を輝かせる。
「何の事でしょう?」
セラが顔を背け明後日の方向を見やるとセリドはセラの服に手を伸ばし、セラはその手をぱしりと叩いた。
「王子のくせに手癖が悪い。」
「王子を殴るとは何事だ?」
「職権乱用!」
「それがどうした。」
「威張る事ですかっ?!」
またもやセリドの手が伸び、セラはその手を弾く。
セラが後退するとセリドがそれを追い、横に飛び退くと執拗に追いかけた。
セリドのしつこさにセラは何故かだんだんと可笑しくなってきて、セリドから伸ばされる手を何度も弾き逃げながら笑いが込み上げて来た。
「何が可笑しい!?」
「だって―――」
セリドが狙っているのは、セラがセリドの誕生日の為に用意したプレゼントだ。喜んでくれるかは分からないが、明日になれば確実にセリドの物になると言うのに…それを知らないとはいえ、何だか笑えて来てしまう。
「無駄です、わたし逃げるのは得意ですよ。」
魔物と戦う時セラは魔法力を温存するために、自分には極力保護魔法を使わず攻撃を交わす。そのお陰で相手の出方を読み逃げる素早さは自然と身に付いた。
「何だと、絶対に捕まえてやるっ!」
セリドはむきになってセラを追うが、あとほんの少しの所で上手く交わされてばかりで一向に捕まえる事が出来ない。右に左にと森の木々や地形を巧みに利用して走るセラは軽やかに踊るようで、どう頑張っても到底手が届きそうにない。あと一歩という所で手を弾かれ悪戯っぽい目で笑われ、何が何でも捕まえてやるとセリドは腰の剣を鞘ごと投げつけた。
「きゃぁっ!」
剣が足に絡み、セラは勢いよく若草の地面に倒れ込むが、直ぐ様体勢を立て直そうと半身を起こす。 そこをすかさずセリドが馬乗りになりセラの肩を抑えつけた。
「捕まえたぞ…!」
セリドから思わず笑いが込み上がり、セラは悔しさで手足をばたつかせた。
「道具を使うなんてずるい―――っ!」
二人とも笑いながら大きく肩で息をしていた。
「何を隠している?」
セラを組み敷いたままセリドはセラのポケットに手を入れようとし、セラはその手を払い除ける。
「しつこ―――いっ!」
「お前だって相当だぞ。」
まるで犬がじゃれ合うように二人は若草の上を転げ回った。
逃げ惑うセラの服をセリドが掴んだ拍子にシャツのボタンが弾け飛び、セラの白い胸の谷間が露わになる。
その瞬間セリドははっとして動きが止まり、意外にも豊かな谷間に釘付けになった。
荒れた息で上下する白く柔らかな胸。
セリドの視線に気付いたセラはボタンを失ったシャツを恥ずかしそうに引き寄せる。
「すまない―――」
茫然としてセラの上に乗ったまま、セリドは動けなくなっていた。
「しょうがないなぁ…」
言葉を失って見下ろすセリドに、セラは優しく微笑む。
「王子、どいて」
下から胸を押して引き離すと、やっと気付いたセリドはセラから飛び退きもう一度「すまない」と謝罪する。
その様子があまりにも新鮮で、セラは思わず噴き出した。
「なっ―――?!」
笑われて何か言おうとするが言葉が続かない。
拘束から解放されたセラは笑いながら起き上がると、服の中に手を入れてごそごそと探り―――手にした物を憤慨しながらも赤くなったセリドの顔の前に突き出す。
「はい、これ。」
目の前には小さな琥珀色の石があり、セリドは意識もせずにそれを受け取った。
「一日早いけど、お誕生日おめでとうございます。」
「―――え??」
セリドの緑色の瞳が丸く見開かれていた。
「本当は明日渡したかったんですけど…特別ですよ。」
セリドは何度も瞬きして石に視線を落とす。
「これは…兄上も持っていたぞ?」
シールが時々手にして見ているのを思い出した。
「守りの石…この前二人にもあげたんです。」
先程セラがしていたように、セリドも石を摘んで木漏れ日の中に石をかざす。
木漏れ日が幾重にも反射して琥珀色の石がきらきらと輝きを増した。
「綺麗だな。」
「気に入ってくれたら嬉しいです。」
セラはにっこりとほほ笑む。
そんなセラに、セリドは赤くなって視線を外した。
「悪かった。その…好奇心で―――」
まさかセラが自分にプレゼントを用意してくれようとは思いもしなかったのだ。
「ありがとう…」
小さく呟き俯くセリドの頭をセラはぽんぽんと叩く。
慰められたのかと思ったが、セリドの頭からはらりと草が落ちて来た。
ふと見ると全身泥と草の汁だらけになっている。
「すごい事になったな」
「ばれますよ、これ。」
二人とも泥だらけで知らぬ間に所々擦り傷がある。
セラはともかく、これを見咎められた時は城を抜け出した言い訳のしようもない。
二人は目が合うと、一瞬の間をおいて声を上げて笑いだした。
二人揃って城に戻ると、なるべく人の目につかない通路を選んで城内を進む。
そんなこそこそとした怪しい人影を見つけたのはシールだった。
「二人揃って何をしているのです?」
ぎくりとして振り返った二人を目にし、シールは手にした書類を床に落として硬直した。
頭の先から足の先まで泥にまみれ、肌には小さな擦り傷が無数にある。そしてシールは、セラの肌蹴た胸元を目にして蒼白になった。
「これはいったいどういう事です―――!」
シールの肩が怒りで震えている…ように見える。
その様子にセリドが反応し、慌てて首を振った。
「何もっ…何もしていませんっ!」
「当たり前です!」
シールの罵声が飛ぶ。
セラはここまで声を張り上げて怒るシールを見たのは初めてで、ぽかんとその様子を見上げていた。
「何故そんな姿になっているのか説明しなさい。」
何故…と言われても。
セラとセリドは顔を見合わせ、二人同時に口を開く。
「「鬼ごっこ?」」
シールは頭を押さえ、深い溜息を付いた。